continue?
ある日家に帰ると、妻の髪型が変わっていた。
その髪型を見た途端、自分でも驚くほど声もなく立ち尽くした。
「入江くん、どう?どう?」
そう聞かれても、「うん」とも「いい」とも「ダメ」とも答えられず、やっとのことで「ふーん」とさりげなく言うことだけに全身全霊を傾けた。
妻・琴子の髪型が、ショートになっていたのだった。
「いやねぇ、お兄ちゃんたら、どうしてほめてあげないのよ」
母はそう言うが、ほめるも何も、似合うとも似合わないとも思えないその髪型のどこをどうやってほめたらいいのか。
夕食が終わって風呂も済み、部屋でベッドに入っていつものように本を読んでいた。
琴子は「あー、さっぱりした!」と言いながら部屋に入ってきたが、ばさばさと無造作にかきあげた髪はやはり短かった。
「ホント、髪が短いと楽チン〜」
確かに今まで琴子は髪の毛を乾かさずに寝たりして、隣で冷たい髪にどれだけ迷惑したことか。
おまけに毎朝髪をまとめるのに苦労して、それで遅刻しそうになったりだとか、髪が絡まって解いてなんていうこともしょっちゅうだった。
が、しかし…。
ベッドに入っていつものように寝てから、さりげなく寝入った琴子の髪をなでてみる。
柔らかい手触りはすぐに尽きてしまい、髪を少し手にとって弄ぶことさえままならない。
自分でも気がついていなかった。
実は長いその髪をどれだけ気に入っていたかということに。
なくしてから気づくなんてと嘆いたところで始まらない。
髪が伸びるまでどれくらいかかるのだろう。
知識をフル回転させて計算してみる。
少なくとも元の髪の長さに戻るまで半年以上我慢しなければならない。
おまけに気に入ってるらしいそのショートカットを、いかにしてやめさせるのか。
あからさまに気に入らないから戻せと言うのは、あまりにもあさましい。
おまけに琴子につけいる隙を与えるのはなんとなく気に入らない。
その晩、一人ベッドの中で琴子の髪について考える羽目になった。
* * *
目が覚めると、目の前にはつややかな髪があった。
思わず驚いて引っ張ってみる。
「いたぁい…」
寝ぼけ眼で琴子が目覚める。
琴子の髪はいつもどおりだった。
この俺が夢?
しかも、何て夢だ…。
自分で自分の夢に苦笑して、思わず起き上がった。
琴子は布団の中から不思議そうに見上げている。
「…どうしたの、入江くん」
「いや、別に」
「ふーん。あ、あたし今日は美容院に行くんだった」
ぎくりとして琴子を見下ろした。
言うべきか、言わざるべきか。
切るな、とでも?
琴子はあくびをしながら起き上がり、そのまま階下へ。
タイミングを失って、それ以上かける言葉はなく…。
その日、仕事から帰って玄関を開けるのが、いつも以上に緊張した。
果たして、妻・琴子の髪型は?
もしもショートだったら?
「ただいま」
さりげなく、あくまでさりげなく玄関のドアを開け、今日は休みだった琴子が駆け出てくるのを待つ。
「お帰りなさーい、入江くん!どう、?どう?」
覚悟はしていたものの、開いた口がふさがらなかった。
…正夢?
* * *
勢いよく目が覚めた。
…また夢?
目の前には長い髪の琴子。
安堵のため息と共に時間を確認する。
途端に目覚ましが鳴り、寝ぼけ眼の琴子が目を開ける。
「…あれ?入江くん、おはよう…ふあぁぁ」
いつの間にか握っていた琴子の髪を手放す暇もなかった。
「また絡まっちゃった?ごめんねぇ」
そう言って琴子は起き上がった。
言い訳する手間が省けた。
ところが次の瞬間、それどころではなくなった。
「あ、あたし、今日美容院予約してあるんだった〜」
まさか、また?
思わず言った。
「ショートにでもするの」
「えー、どうしようかなぁ。いつも同じで飽きてきたし、入江くんがそう言うなら〜」
待て。
ショートにしろとは言っていない。
なけなしのプライドがその言葉を口にするのを拒んだ。
「ま、いいや。向こうに行ってから考えようっと」
いつもならするすると出る言葉が出なかった。
巧みに言葉で単純な琴子を操るのはわけないはずなのに。
その日、帰宅の時には半ばあきらめていた。
「ただい…」
「入江くーん、どう?どう?」
…ため息と共に自分の墓穴を知った。
* * *
二度も三度もそんな結末かよ!
そんな怒りと共に目が覚めた。
…また夢かよ。
もうどうでもよくなってきたが、とりあえず今度こそは阻止するつもりだった。
今となっては馬鹿げたこだわりだが、やはり長い髪のほうがいいということなんだろうということにしておいた。
目の前の琴子の髪を指で絡めたり、少し引っ張ってみたりして確認した。
女は髪が長いほうが…というよりは、すでに髪も琴子の一部として認識されてしまっていて、それ以外受け付けられないのか?と自分の融通のなさに苦笑した。
それと同時になぜ切らないんだろうとも考えた。
多分短くなっても怒りはしない。
そのうち慣れる事もわかっているし、決して似合わないこともないだろう。
長い髪だから好きだとか、短いから嫌いだということも本当のところ、ない。
ただ、驚いただけだ。
それでも、この手触りは結構気に入っている、ということは言える。
「おい、起きろよ」
「う…ん、今日は休みぃ…」
「美容院に行くんじゃなかったのか?」
「へ?ああ、そうだったぁ」
「ほら、起きろ」
「うん…。おはよう、入江くん」
先ほどまでは何が何でもショート阻止の構えだったが、そこまでする気もだんだんと失せてきた。
それでも、まだ髪を握ったままだったのを手放し、二度三度なでてから自分も立ち上がる。
後はいつもどおり。
多分今度は夢でもなく、きっと現実だという気がしてきた。
先ほどまで繰り返し見ていた夢は、昨夜寝る前、琴子に散々こんな髪型はどうだとか、この女優の髪型はどうだとかを寝物語に聞かせられたせいだったかもしれないと思った。
その日、覚悟をして帰宅すると…。
「おまえ、美容院行ったんじゃなかったのか」
「うん、行ったよ〜。ほら、少し短くなったでしょ。どうしても髪の先が痛んじゃうんだよねぇ」
心配するのがバカバカしいほど、なんら変わりない琴子の姿だった。
「なんだ、切るんじゃなかったのか」
「だから切ったってば!3センチも切ったの」
「…3センチもね…。ふーん」
「だって、入江くん、好きでしょ、長いの」
「は?!」
靴を脱ぎながら思わず声が出た。
「だって、いつも髪をこうやってくるくるってしてくるでしょ」
スリッパを履くのも忘れて琴子の顔を見つめた。
「入江くん、寝てるときに髪をなでてくれるの。あたし、それ好きなんだ」
俺が、寝てるときに?
おまえが寝てるとき、じゃなくて?
「それからね、つんつんって髪を引っ張ったりね。あ、それって無意識だよねぇ?」
…俺が?
「だからいつもわかるんでしょ、髪乾かしてないと」
無言でスリッパを履いて、琴子の横を通り抜ける。
ポンと琴子の頭を叩いて手を下ろす。
その瞬間、確かに無意識のうちに感触を楽しんでいた。
さらっと手に残る琴子の髪を。
階段を上って部屋へ行く。
部屋に入ったところで自分の手を見て笑う。
結局、琴子は全部知っていたということか。
「入江くん、すぐにご飯食べる?」
そう言って入ってきた琴子がすり寄ってきた。
「髪、ちょっとは変えたほうがよかった?」
「…いや、別に」
「よかった。ねぇ、あたしの髪、どう?」
そっと抱きしめた腕に琴子の髪がかかる。
「そうだな。ま、長い髪も好きだけど」
「手入れが大変だけどね」
言葉の意味に気がつかないまま、長い髪の持ち主はキスを受けるためにうっとりと目を閉じた。
continue?(2008/06/07)−Fin−