七月に入ったある日、とあるデパートに夏のたしなみの一つとして扇子を選びにやってきたのだ。
自分の分というよりは、海外から招く脳外科の権威プロフェッサーへのお土産にどうだろうというわけだ。
なかなかいい柄を見つけ、丁寧に包装してもらった僕の手に渡されたのは赤い短冊だった。情熱の赤。
そして冒頭の店員の言葉だったりする。
今さらこんな紙に願い事を託すなんて、と思ったけれど、ここはひとつ世界平和のために願うのも悪いことではないと思い直して、売り場の横、ペンが置いてあるコーナーに向かった。
僕が手掛ける患者は僕が救うからいいとして、やはり書くべきことは…。
備え付けのペンの書き具合がいまいちなため、僕は懐から愛用の万年筆を取り出した。
いついかなる時も紳士は上質な筆記用具の一つくらい持っておかなくてはね。
早速万年筆のキャップを取り、願い事を書こうとしたら、なんと後ろから大きな尻に突きとばされたのだ!
どーん!とした衝撃とともに万年筆が転がっていく。
「ああっ!何するんだ君!」
これだからデパートに来るおばちゃんは遠慮がない、全く…。
「あーっ、ごめんなさ〜い」
聞こえてきた声は思ったよりも若い。
フン!今どきの若者か!
と思って振り向いたら。
「あーっ!何でこんなところに!」
「それはこっちのセリフだ!」
おっといけない。こんなチンチクリンに合せて大声を上げてしまった。
ところで僕の愛しのダーリンはいないのかな。
「何をきょろきょろしてるんですか」
いた!
こんな雑多なデパートにいても燦然と輝く斗南の星、麗しのスター。
誰もがほら目を引き付けられる証拠に、周りの女性も一部の男性もちらちらと振り返ったり目線を送っている。
腕時計を見ながら立っている姿すらもパーフェクト。
頭の先どころか髪の毛の一本からつま先、それこそ彼の周囲に漂う空気すらも素晴らしい。
彼の名は入江直樹。
斗南病院において彗星のごとく現れた、これから僕とともに斗南を背負って立つに違いないと思われる外科医。
白衣でもないというのに、彼から溢れ出るこの有能すぎる空気は何なのだろう。
ああ、できることなら彼の周りから流れてくる空気も全部ひとり占めしてしまいたい。
「ちょっと!プライベートですからそんなに見ないでください」
僕の視界に立ちはだかって隠すのは、斗南の癌、ブラックホール・チンチクリン。
「ああ、目が腐る」
「なんてことを言うんですか。入江くんは目の保養ですよ」
「誰が入江先生のことを言ってるんだ」
そんなとき、彼は自ら僕のそばに寄ってきた。
「先生のですか、これ」
「僕の万年筆」
彼から手渡されたそれは、まぎれもなく先ほどチンチクリンの尻圧で吹っ飛ばされた際に手から離れていった僕の愛用の万年筆だった。
「ありがとう、拾ってくれて。大事なものなんですよ」
「ええ。わかります。使い込まれた感じですよね」
思わず差し出されたその手を握りしめたい衝動に駆られたけれど、ここは慎重に万年筆を受け取った。
「わかるかね、この良さが」
「ええ、きっと先生のことですから厳選されたものなのでしょう」
「さすが、わかる人にはわかるのだね。どうやらそこの字もちゃんと書けないような輩とはわけが違う」
「失礼な」
チンチクリンが憤る。
「日本で生まれ育って日本語を話す日本人でありながら、日本語がちゃんと書けないとはどういうことなんだか」
書かれた短冊を指さすと、チンチクリンはへ?という間抜けな顔をして短冊を見返している。
『入江くんとずっと一諸にいられますように』
「…おまえ、またそういう間違いを」
「え、えーと、ちょっとした間違いよ、間違い」
『入江くんとずっと一
早速書き直して何とか笹に括り付けている。
こんなバカな嫁をこんな娯楽にまで連れてくるなんて、さすがボランティア精神に溢れた入江先生。
その心は宇宙よりも広い。
「それより先生も願い事を書くんじゃないんですか」
「そうだった。僕は個人の願いよりもやはり世界の平和のためにと思ってね」
「さすがですね、大蛇森先生」
まるでエコーのように響く心地よい声が僕の全身を包む。
颯爽と書き終わって振り向くと、まるで風のように一瞬の逢瀬の余韻を残して彼はいなくなった。
『チンチクリンが宇宙の果てに行ってしまいますように 大蛇森』
* * *
その後、寝室で二人が宇宙の果てにいっているとは想像することもない大蛇森だった。
(2020/07/15)