春の足音
今年の桜は早い。
家の向こうに見える桜の並木はもう色あせている。
卒業式の頃はまだ雪が降っていた。
冬の名残のように未練がましい。まるで誰かと一緒だ。
それなのにあっという間に春めいてきて、まるで女子大生と浮かれている単純な誰かみたいだ。
おふくろの出したスーツをベッドの上に放り投げ、クローゼットの中から普通のジャケットとシャツを取り出す。
家の中までこんな陽気なんて冗談じゃない。
おふくろの用意したスーツはピンクだった。
いったいどこの漫才師だよ。
裕樹のベッドの上には几帳面にたたまれたパジャマ。
小学生はとっくに登校している。
それを横目に部屋を出た。
食卓の向こうに、春の権化のような女がこちらを見ていた。
ピンクのスーツはこいつのためか。
おふくろは普通のスーツを着た俺がいたく気に入らないようだった。
あんなピンクのスーツを喜んで着るようなやつ、いるもんか。
…あ、一人いるかもな。
ピンクのスーツを着て、俺の顔を見てあからさまに顔を赤らめるようなわかりやすい女を一方的に想う男なら。それこそお揃いだと喜ぶのかもしれない。
あいにく俺はそんなお揃いに興味もないし、お揃いにしなけりゃいけない義理もない。
朝食を口に運んでいると、おふくろはしきりとあいつのスーツ姿を褒めろと強要する。
ピンクの綿毛のようにふわふわと落ち着きがない。
こちらを気にしながら朝食を口に運ぶ姿は…ハムスターか何かのようだ。そう思ってみれば、頬張る顔は膨張して見える。
「…太って見える」
素直にそう口に出したら、今度は何かに驚かされたみたいに目を見開いた。
俺の言葉一つでくるくる回って、おかしくて仕方がない。
下を向いてまた朝食を食べだしたのを見て、こっそり笑う。
あの見開いた目は、暗がりで見たあの目だった。
道を通る車の音、通り過ぎる酔っ払いの声、そばに置いてある酒瓶の微かな匂い。
通り過ぎる車のライトで照らされる前に離した唇の感触。
そんなものをいっぺんに思い出した。
まだ食べているあいつに構うことなく食卓を離れる。
あいつは変わらずに俺を追いかけてくる。
暗い路地を歩きながら、俺はほくそ笑んでいた。
追いかけてくるのがうっとおしいのに、追いかけてくる気配を背中で確かめている。そんな感じ。
今まで散々迷惑をかけられたのに、まだ同じ家にいるのに、簡単に忘れられるものならやってみればいい。
自分で言うほど諦めがいいやつかどうかすぐに知れる。
3月になろうというのにちらついた雪のように。
どこからか桜の花びらが飛んできた。
もう花も終わりだというのに、しぶといやつ。
ドコンという音で振り返れば、電柱にぶつかったらしいあいつ。
ばっかじゃねーの。
今時電柱にぶつかるなんてのび太くらいのもんだぜ。
ピンクのスーツに身を包んだあいつは、キスした途端に舞い上がり、一気に頭が春になったようだ。
後ろをついてくる足音。
春が追いかけてくる。
(2010/04/06)