春の終わり




花見の喧騒から離れて、春だというのに桜の木もない公園に車で移動した。
隣に乗っている彼は、オープンカーで風に当たっても何も言わない。
まだ少し肌寒いくらいなのに。
でもそんな春の風よりも、彼のほうがぞくりとするほど冷たくて容赦がない。

いちいちあたしに報告する義務はない。
義務はないけれど、せめて今度医学部に行くことにした、と戯言でいいから彼の口から聞きたかった。
新学年の学部名簿に彼の名を見つけられなかった時のあの気分。
今までこんな風に無視されたことはなかった。
必要ないのに報告してくる男たちに囲まれて適当にあしらううち、確かにあたしは女王様気取りだったかもしれない。
そして彼女は、さも当然のように彼の進路を知っていた。
同居しているから?
いえ、彼の家族は彼の進路をまだ知らないのだという。
では、彼女だから?
唇をかみ締めてその事実を認めなければならないのだろうか。
ずっとそのことがあたしの胸の中で渦巻いていた。

車から降りると、街灯が彼の横顔を照らしていた。
このまま彫像になってしまってもおかしくない顔立ち。
月よりも明るく照らす街灯が、あたしたちの影をより濃く映し出していた。

「あたしのことどう思ってるの」

彼は何も言わない。

「それともあの娘が好きなの」

彼はただ公園に敷き詰められたタイルを見つめている。

「わかんないよ」

彼ははっきり答えない。
それは本当にわからないのか、答えがわかっていても言わないのか。

「今興味があるのは医学書だから、松本のことは友達以上には思え…」

最後まで聞きたくなかった。
あたしは彼に抱きついて、言葉の続きを遮った。

「松本」
「あたし、入江くんのこと本当に…」

今までこれほど好きになった人はいなかった。
ちょっと見た目のいい人、ちょっと頭のいい人なんてたくさんいた。
彼も最初はそんなうちの一人だと思ってたのに。

「あきらめるなんてできないわ」

抱きついたあたしを抱き止めようとすることもなく、彼は冷淡だった。
どうやったら彼の心を手に入れられるのかわからない。
キスをねだるように彼の顔に寄せる。
彼の手が肩に回されて、あたしは勝った、と思った。

「もう気がすんだ?」

肩に回された手で緩やかに押し戻された。
その瞬間、勝つどころか屈辱を伴った敗北感に頭に血が上った。

「入江く…」

すぐに言葉が出てこない。

「悪いけどおまえとそういうことしたくないんだ」

彼の言葉はあたしの頭を冷やすようだった。
それなのに、あたしの心はますます燃え立った。
頭は冷えていくのに、感情が追いつかないとはこういうことだろうか。

「…じゃ、誰とだったらキスするのよっ。
どうしてあたしじゃダメなの」
「キスしたよ」

あたしの語尾と重なるようにして、彼は言った。
迷いもなく、ただ事実を報告するように。

「琴子とキスした」

その言葉に含まれた意味に彼は気づいていないのかもしれない。
あたしとはキスできなくて、彼女とはキスをしたその意味を。
もしも知っていて言っているならば、何て残酷な人だろう。

「…そうなの」

彼女だから…?
冷たそうに見えて、彼女には態度が違うことなんて、あなたを見てる人間なら知っていたわ。
知っていても、その言葉の表面的な冷たさに安心していたかったのに。

「よくわかったわ。だけどあたしの気はおさまらないわよ」

あたしは彼の顔を見ずに立ち去った。

「ごめん、送らない」

逃げるようにして車に走る。
どれだけ彼はほっとしただろう。
それを思うとあたしは素直にあきらめられなかった。
どうしてあたしじゃなくて彼女なのか、それがわかるまで、あたしは納得できなかった。
もしも納得できたとして、あたしは彼をあきらめられるんだろうか。

少し車を走らせたところで赤信号に止まる。
赤い花のように信号がにじむ。
青信号に変わった途端にアクセルを思いっきり踏み込んで、顔に風を受ける。
髪が後ろになびいていき、一緒に水も散っていく。
まだ泣かない。
振られたわけじゃない。
彼はあたしを嫌いなわけじゃない。

家の近くまで来て、静かな通りで車を止めた。
景色がにじんで前が見えなかったのだ。
後ろになびいていた髪がかかり、頬に張り付く。
ハンドルに顔を伏せ、息を吐く。
あたしは彼女とは違う。
そんなことは誰から見ても当然だ。
でも彼にとっては、それは容姿だとか、頭の出来だとか、そういうことじゃなくて。
彼女という人間と、あたしという人間。
女だろうと男だろうと、そんなものは後から付け足したに過ぎないような。

上を見上げたら、桜の花の向こうに月が見えた。
桜の花びらがそっと舞い落ちる。
小さな桜の木。
ひっそりと咲くその木が、まるで彼女のようだと思ったのはどうしてだろう。
うるさいくらい存在感を示す彼女なのに。

キスしたのは、彼女だけ。

髪を振り払って、あたしはまたエンジンを吹かせた。
このまま全部散ってしまえばいいのに。
当分桜なんて見たくもないわね。
春も終わりで本当によかった。
あたしはそうつぶやいて家路を辿った。


(2010/04/14)