星に願いを3




梅雨に入った7月、いつもの年よりも曇りがちな空の下で、入江家は今年も七夕飾りを用意していた。

「琴子ちゃん、はい、短冊」
「これ、やっぱり入江くんの分も?」
「そうよ。お兄ちゃんにも渡してね」
「はい」
「琴子ちゃんはどんなこと願うの?
やっぱり赤ちゃんができますように、とか?」

うきうきと伺うように紀子が琴子の顔を見た。

「え、えーと、どうしようかな。
あ、入江くんに渡してきます」

義母・紀子に手渡された短冊を手にして、顔を赤くして慌てた琴子は書斎へ入った。

「入江くん」

書斎で本を広げている直樹に遠慮して小さな声で呼びかけた。
その声に振り向いた直樹は、琴子が手にしている短冊を見て小さくため息をついた。

「今年もやるのか」
「うん、そうみたい」
「俺にも書けって?」
「これ、入江くんの分」

琴子は手にした短冊を分けながら、机からペンを取り上げた。
直樹は一応自分の分の短冊を受け取りながら言った。

「小児科にも結構大きなのが飾ってあるぞ」
「いっぱい飾りついてそうだね」
「短冊は子どもや親の分だけじゃなくてスタッフの分も飾ってあるからな」
「病気が治りますように、とかかなぁ」
「どちらかと言うと、それは親の短冊のほうに書いてあるな」
「じゃあ、どんなのを書いてるの?」
「ゲームがほしい、外で遊びたい、野球選手になりたい」
「そうか、思ったより具体的なんだね」
「小さな子どもは抽象的なことよりももっと欲に正直だからかな。それに病気は治るもんだと思ってるから」
「そうなんだ」

琴子は自分の分の短冊を見ながらペンをもてあそんだ。

「あたしも今願うとしたら、家族が健康でいられますようにとか、そういうことしか書けないや」
「本当の願いは、こんな短冊ごときに書けないだろ」
「本当の願い、かぁ」

琴子は短冊を見ながらぼんやりとつぶやいた。
直樹と出会ってから、短冊にはいつも直樹に関することしか書いていなかった気がする、と。
『入江直樹くんと両想いになれますように』とか、『入江くんと仲良くなれますように』とか、『入江くんとずっと一緒にいられますように』とか。
まだ勉強を続ける直樹を残して、琴子は苦笑しながら書斎を出た。
いつも書きたいことは同じなのに、より具体的なことは書けなかった、と。

 * * *

七月七日、入江家の庭には、豪奢な笹飾りがあった。
その周りで歓談する入江家の家族と御呼ばれした人々。
今にも降りそうな天候のため、バーベキューは庭で行うのを断念した。

琴子は飾りが揺れるのを見ながら、飾れなかった短冊を思い返した。
具体的なことを書こうとしたら、どうしても恥ずかしくて書けない。それでも実際に書いてみたら、やはり家族の前に飾れなかった。
仕方がなく、今年も『家族が健康で過ごせますように』とか、『仕事で失敗しませんように』などと書いて飾っておいた。
星に見えるように飾らないとダメなのだろうかと考えながら、横に置いてあったコップを手にした。
直樹はまだ病院から帰っていない。
コップの中の液体を一気に飲んだ。
喉がカーッと熱くなる。
しまったと思ったときには遅かった。

「琴子ちゃん、それ、お酒…」

オレンジジュースだと思ったのは、スクリュードライバーだった。
一気に酔いが回り、琴子は酔っ払い気味に。
アルコールが入るとやや酒癖の悪い琴子は、ろれつの回らない口調で「らいじょーぶれすよー」と言いながら部屋へ戻る羽目に。

次に気がつくと、辺りはすっかり静まっていて、雨の音が聞こえた。
目を開けるとそこは寝室で、隣には本を読む直樹の姿があった。

「…入江くん…?」
「よお。また酔っ払ったって?」
「う、うん、そうみたい」

ベッドから身を起こしながら雨音に耳を傾けた。

「雨じゃ、願いは叶わないかな…」
「なんで?」

直樹は手にしていた本を閉じながら言った。

「願い事が星に見えないから」
「そうでもないだろ」
「そうかな」
「おまえの願いは、雨の日に叶ったんじゃなかったのか」
「…あ」
「それに」

直樹は琴子の目を見つめながら続けた。

「キスならいくらでもしてやるよ」

その途端、琴子はベッドから落ちそうなほど驚いて叫んだ。

「い、いり、入江くん!そ、それ、まさか」
「さあ?見てないぜ、おまえの短冊なんて」

意地悪そうに笑いながら、顔を真っ赤にした琴子の唇にキスをした。

「お望みとあらば、もう一つの願いも頑張ってみようか」
「もう、やっぱり見たんじゃない!」

半泣きになりながら怒る琴子を引き寄せて、耳元にささやく。

「あんなこと、星に願わずに俺に願えよ」

ささやかれた言葉に、琴子は密かに書いた短冊を隠した引き出しを横目で見た。

『入江くんとたくさんキスができますように』
『入江くんに似た赤ちゃんができますように』

灯りが落とされた部屋の中、降りしきる雨音だけが二人を包み込んでいく。
星降る夜でもなく、笹にも飾れない机の中の願い事も、聞き届けてくれそうな七夕の夜に。

(2010/07/06)