不届き者の秋祭り





それに行ったことがある記憶は、はるか昔のことだ。
まだ一度も行ったことがないという好奇心のもとに行っただけで、純粋に楽しんで行ったわけではないことは覚えている。
ひどく騒がしく、子どもたちは皆小銭を握り締めて、およそ不衛生だと思われる屋台の食べ物を頬張っていた。
その頃には直樹自身がこういう場に似合わないということは、薄々感じていた。
両親はもとが庶民なのでさほど気取った人物でもないが、自分が育った環境は十分に裕福といって差し支えないものだった。
そのせいか、屋台というものにあまり気が向かないのかと思っていた。
それがただの傲慢な思いだったというのは、後で嫌というほど思い知ったのだが、それを知ったのは育ちも育って祭りなどというものに行かなくなる歳の頃だった。

 * * *

「ねえ、行こーよー」

入江家に越してきてからというもの、琴子は祭りにほとんど縁がなかった。
琴子が引越し前に住んでいた場所はどちらかというと下町のほうで、祭りと言えば年に一度、大人も子どもも張り切って参加するものだ。
入江家の辺りは閑静な住宅街。もちろん祭りがないわけではないが、どちらかというと地域の中では比較的祭りごとに参加しないと思われる住民の一部であろう。
琴子も越してきたばかりの時には祭りに参加しないのを不思議に思うほどだったが、二、三年と過ごすうちにそれが当たり前になってしまった。
重雄のほうは店があり、店は店で組合がらみで祭りには参加しているのだろうが、時期的に文化祭もあったりで、琴子のほうも忙しくてそれどころではなかった気がする。
学生の頃はまだ良かった。
大学祭なんかもあって琴子の祭り心は満たされていた。
大学も卒業してしまうと、途端に味気ないものになる。
近頃はすっかり忘れていたが、地域の運動会に参加したこともあって(『運動会狂騒』参照)、それなりに地域の行事にも詳しくなったのだ。
近くの神社で行われる秋祭りというものに俄然興味を引かれた琴子は、こうして直樹におねだりしているのだった。
「行かねーよ」
もちろん冷たく断られることなどお見通しだ。
リビングで繰り広げられるおねだり攻撃にうんざりしたらしい直樹は、貴重な休みの日を満喫すべく、本を持ったまま立ち上がった。
「…もう、ケチ。じゃあ、裏の家の橋本さんたちと一緒に行くから」
そう言って「お義母さーん、やっぱりイヤだって」とキッチンに向かって半泣きで駆け込む。
「まああああ!お兄ちゃんたら、数少ない夫婦二人の一緒のお休みだと言うのに、妻のお願いを無碍に断るなんて、なんて冷たいんでしょう!」
紀子の声も無視して、直樹は二階へと上がろうとする。
すかさずリビングを出たところで紀子が駆け寄った。
「お兄ちゃんは知らないだろうけど、裏の橋本さんの息子さんが是非にと琴子ちゃんを誘っていたのよ」
どーだと言わんばかりの紀子の様子に直樹は眉間にしわを寄せて言った。
「何で他人んちの息子が琴子を誘うんだよ」
「ほら、橋本さんて今まであまりお付き合いがなかったでしょ。何せ使う道路が違う裏だし。それで、橋本さんの奥さんがこんなに可愛いお嫁さんをどうやって見つけたんだっていう話になって」
「…だから?」
「琴子ちゃんみたいな可愛い子をぜひ紹介してくれって」
「勝手にすれば」
「琴子ちゃんみたいないい子はそうそういないから仕方がないわよね。それに、橋本さんの他に浅井さんとか、運動会のときにいたの覚えてない?」
そう言われて玉入れのときの面々を直樹はすかさず思い出していた。
あの頭に玉が当たったのが橋本で、二人三脚をしそびれたのが浅井だったはずだ、と記憶を掘り起こした。
黒いオーラが染み出してきていたが、紀子はものともしない。ある意味さすが母親と言うべきか。
「行くわよね?」
紀子はにんまりと笑う。
「琴子!」
「なあに、入江くん」
直樹の呼び声にリビングから顔を出す。
「疲れるから少しだけだぞ」
「行ってくれるの?」
「呼び出しがあったら帰るからな」
「うん!それでもいい!」
わーい、わーいと子どものような喜び方で琴子が小躍りする。
「じゃ、行くぞ」
「え、待って、この格好で?ちょっとくらい…」
「いい、それで」
家にいるからとラフな格好でいたのだが、出かけるならせめて着替えたいというのが女心だが、ここで着替えていては直樹の気が変わってしまいそうだったので、しぶしぶその格好で出かけることになった。

 * * *

「せっかく出かけるんだったら、もっと可愛い格好で行きたかったな」
「必要ないだろ、近所の神社なら」
「えー、でも、入江くんとお出かけするんだから」
「じゃあ、帰るか?」
「…う…それもイヤ」
「なら諦めろ」
そう言って直樹はあまり気乗りしないまま、はしゃぐ琴子を連れて近所の神社に行ったのだった。
その行く途中で家からちょうど出てきた橋本家の息子に出会った。
人のよさそうな人物だったが、琴子を見て微笑んだその顔は、直樹を見た途端に表情を強張らせてそそくさと家の中に入っていった。
これで当分誘いはないだろうと、ふんとばかりに直樹は先を進んだ。そんな様子を琴子は気がついていない。

住宅街を歩いていくと不意に木の茂った一角にたどり着く。
少しだけ高台のようになっていて、階段を上らなければならない。
階段にはこの日のためなのか真新しい幟が風を受けてはためいている。
秋風は少し冷たいが、それでも良く晴れていて、まさに秋晴れとも言える日和だった。
二人はそのまま階段を上っていき、神社にたどり着く。とは言っても社殿までは参道があり、その参道の脇にはいくつか出店があった。
思ったよりも人がいる、と直樹は感じたが、夏祭りほどの混み具合ではない。
少々高台にあるからなのか、あまりこの地域で知られていないからなのか。

「あー、綿菓子!」
「…却下」
「ちょっと、まだ買うなんて一言も言ってないじゃない」
「そんな子ども騙しの物を買おうなんて言ったら即帰るぞ」
「もう、入江くんってばすぐにそれなんだから」
「なんとでも」
少し頬を膨らませて琴子は歩き続ける。
そんな様子はそこいらにいる子どもより子どもっぽい。
「あ、じゃあね、あのたこ焼きは?」
「昼飯食ったばかりだろ」
「りんご飴」
「…唇真っ赤にして最後まで食べきれないだろ」
「あ、じゃあ、じゃあね、ヨーヨーつり」
「…水風船?」
「うん、そう。食べ物もダメなら、これだけやらせて」
琴子が目を輝かせてヨーヨーつりと書かれた屋台を指差す。
正直、何が楽しいのかわからなかったが、とりあえず害になりそうにはないと判断して、付き合うことになった。
「ところで、おまえ小銭持ってきたのか」
「うん、お義母さんが少しくれたよ」
「どこの子どもだ…」
そう呆れながら、直樹はそうやってお小遣いをもらって夏祭りや秋祭りに駆け出していったことなど皆無だったことを思い出した。
裕樹は多少友だちと行ったことくらいあるのだろうと直樹は周りを見渡した。
これ以外にも金魚すくいがあったし、焼きそばもフランクフルトもカキ氷もある。
夏祭りとたいして代わり映えがないと思っていたが、秋空の下の景色はどこか清々しく、神聖に感じる。
紙紐で吊るされた鉤状の金具に水風船をつないでいる先端のゴムの輪を引っかけるのだが、水にぬれれば紙紐は切れやすくなる。
そこを素早く持ち上げるのがセオリーだろうが、不器用な琴子がどこまで上手く持ち上げられるのかと見ていると、真剣な顔をして子どもに混じって水風船を選んでいる。
水にゴムの輪が浮いているほうが当然やりやすいだろうが、琴子は若干沈みがちな赤の水風船を狙っているらしい。
相変わらず無謀だ。
「お姉ちゃん、それは無理かも」
隣に座っている子どもにまで心配されている。
「いいの、これが欲しいんだから」
慎重に釣具を沈め、何とか輪の中に鉤が入ったが、持ち上げる段階でたっぷりと水を吸った紐が切れた。
一ミリも持ち上がっていない。
「あー、切れちゃった」
「やっぱりなー」
そんなふうに評価された隣で、男の子がひょいひょいと水風船を三つも釣り上げていた。
「好きな物を一つだけ持っていっていいよ」
屋台の人に言われて、琴子は「あ〜あ」とこぼしながら先ほど自分が狙っていた赤の水風船ではなく、全く違う黄色の水風船を手に取った。
「赤じゃなくていいのか」
思わずそう聞くと、琴子はうなずいた。
「自分で手に入れないと意味がないから」
「それでもお金を払っているんだから同じじゃないのか」
「違うよ。あれは欲しくて頑張った結果なの。これは好意やおまけでもらう物だから、あたしの中では全然違うの」
「ふうん」
そう相づちを打ちながら、直樹は琴子の横顔を見た。
時々、琴子の考え方に戸惑うこともある。
無謀だと思っても挑戦して、最後まで諦めない。
直樹の中にはそういう考え方はなかった。琴子と会うまでは。

琴子は早速指に水風船のゴムをはめてパシャパシャと手の平で突いて見せた。
「あの紙紐、絶対緩すぎるわよね」
そんなふうに紙紐に責任転嫁している。
直樹は琴子から放たれる水風船の模様を見ながら、一度だけこんなふうに水風船を叩いたことがあったと思い出した。
いつの頃だったか、少なくともまだ本当に幼い頃のことかもしれないと。
「どうしたの、入江くん」
「…いや」
「小さい頃ね、ひもくじが気になってやりたかったんだけど、いっつも食べたいもの買っちゃうとお金足りなくて」
わいわいと子どもが群がる出店の一つ、ひもくじ屋台を見て琴子が言った。
「おまえらしいな」
「食べ物だと一つっきりなんだけど、ひもくじのおもちゃの中には、小さいものだと三つくらい入っているの。それがなんだか悔しくて、食べ物もおいしいんだけど損した気分になっちゃう」
「たいしたもの入っていないだろ」
「うん、そうなんだけど、そういうものがうらやましいものなのよ」
訳知り顔で、琴子はひもくじに群がる子どもを見ている。
子どもたちは互いに自分が引き当てたものを見比べている。
そういうたわいのないことも、琴子といっしょだったら楽しかったかもしれないと直樹は思う。
子どもの頃に参道を目移りしながらうろうろする琴子を想像するのは容易だった。
目移りしすぎていつの間にか友だちとはぐれたりなんかして、狭い神社の境内とはいえ、人混みの中で半べそをかいたりしていたのだろうかとか。

参道も尽き、社殿は目の前だった。
「お参りしていく?」
琴子の言葉に直樹は少し迷った。
今更何を祈ろうかと。
「入江くんは何でもできちゃうから、今更神様にお願いすることなんてないのかもしれないけど」
そう言って琴子は笑った。
「おまえの頭が良くなるように祈ってやろうか」
そう言って直樹がからかう。
それはそれとして、どちらともなく二人で社殿の前で神妙な顔をしてお参りをする。
社殿の前は次々と人が入れ替わる。
初詣のように着飾ったわけでもなく、それぞれが気軽にお参りしている。
「あたしだって頭が良かったら、看護計画で怒られることもなくって…。
そうよ、少しだけ入江くんの頭の良さを分けてくれたら…」
「そんなこと考えるより前に勉強しろっ」
思わず大声を出すと、周りの者が何事かとこちらを見る。
怒鳴られた琴子は首をすくめて「わかってるわよー」と口を尖らせている。
そんな様子が微笑ましく映るのか、そばで老夫婦がくすくすと笑っている。
あんなふうに年老いてもなお傍にいるのは琴子だろうか。
断言はできないが、いるのなら琴子以外にはいないだろうとも思う。
尖らせたままの唇に唇を重ねる。
ほんの一瞬のそれは、琴子以外には多分誰も気づかなかっただろう。
琴子は突然のキスに「な、な、な…」と言葉にもならない。
辺りを見回して、誰もこちらに注意を向けていないのを知ると、ようやく息を吐いて真っ赤な顔で直樹に反論した。
「い、入江くんてば、こんな神様の前でっ」
「夫婦円満を見せただけだろ」
「夫婦…円満…」
直樹の言葉を繰り返して、琴子はにたぁっと頬を緩ませた。
「うふふ…」
不気味な笑いをしながら琴子は直樹の腕をつかんだ。
「あたしたちって、夫婦円満なのよね」
そうやって繰り返されるとちょっとしたイラつきとイタズラ心を刺激される直樹としては、釘を刺すべく耳元でささやいた。
「ああ、そうだよな。昨夜も十分夫婦円満振りを発揮してやっただろ」
「…ゆ、ゆうべ…」
途端に琴子は昨夜の痴態を思い出したのか、あわわと慌てた様子で誰かに向かって言い訳した。
「そ、そんなことをあたしは言ったんじゃなくて」
「へー、そんなことってどんなことだって?」
ますます言葉にできないことを悟った琴子は、今度は屋台を見向きもしないでずんずんと参道を歩いていく。
「もう、もう、入江くんって」
「俺が、何だよ」
「こんなに意地悪なのに神様って不公平」
ちょっとのぞいただけで神社から帰るらしい琴子と連れ立って歩きながら、まだ午後もたっぷり時間が残ってるよなと直樹は時計を確認する。
神社の鳥居の内でそんなことを考えるのは、十分不届きものかもしれないと直樹は密かに思った。
隣で笑ったり怒ったり喜んだりと忙しい琴子は、まだ何も気づいていない。
鈍い琴子が気づくのは、果たして部屋に入ったときかベッドに押し倒されたときか。
それは神のみぞ知る、かもしれない。

(2012/12/20)