何でもない朝





「ねえねえ入江くん、明日はいい夫婦の日だって」

朝からテレビを見ていた琴子が直樹に言った。
制服のブレザーを取り上げ、今日は冷えると思いながらコートを持って出ようかと悩む。
まだ早いかと思いながらも今日は確か購読している雑誌の発売日だったかと考えて、コートを手に取った。
この分だと夕方はもっと冷え込むだろうから、本屋を巡って帰る頃にはコートがほしいと思うだろうと直樹は考えた。

「いい夫婦って語呂合わせ、誰が考えたりするのかなぁ」

琴子がどうでもいい話をまだ続けていたことに軽く驚きながら、直樹はさっさとリビングを出た。
そのまま玄関へ行って靴を履き始めたところで琴子の足音がした。

「待ってよ、入江くん」
「いってきます」

直樹が玄関を出たところで慌てた琴子の声がした。
しかもドアが閉まった瞬間に聞こえたのは、ドアに何かが(多分琴子の頭だろう)がぶつかる音と「いったーい」と言う声。
「だいじょーぶ?」という母・紀子の声も聞こえた。
思わずぷっと吹き出したが、琴子が玄関ドアを開けて出てくる頃には直樹の表情はいつもの何も関心のなさそうな顔だった。
そのときには既に入江家の門を出て家の前の道を歩き始めていたので、後ろから追いかけてくる琴子がいつ追いつくかと距離を測っていた。

「はあ、やっと追いついた」

後ろで声がして、少しだけ弾んだ息の琴子が当然のように直樹の斜め後ろを歩く。
これでも並んで歩くのは遠慮しているらしい。
今日は電柱二本分ということは、思ったより早かったか。

「入江くん、足が長いからちょっと歩いただけ随分遠くまで歩いていっちゃうんだもん」

わざと足を速めたり、遅くしたり、どこで追いつくか自分の中で賭けをしていることなど琴子は知らない。直樹が勝手にその日の気分でやっていることだ。

「今日はちょっと寒いなぁ。あ、あたしコート忘れてきちゃった」

手に持った直樹のコートに気がついたのだろう。
ぶつぶつ言いながら歩いてくる。
恐らく取りに戻ろうかどうしようかと考えているのだろう。

「ま、いいか。早めに帰ろうっと」

そんなひとり言を言っているのを聞くと、一人で歩いていた去年までの道とは違う何かを直樹は思う。
暑い夏には余計に暑苦しい気がしてうっとおしかった。
こうして木枯らしが吹き始めてみると、寒さを吹き飛ばすような勢いのある声はとりあえず許してやろうという気がするから不思議だ。
直樹から何も返答がなくても一向にお構いなく話し続ける声は、駅まで続いた。
そのわずかな時間、琴子が二人きり(もちろん駅に近づくにつれて歩く人影は増えているのだが)を意識して頬を赤らめていることなど、後ろをあまり振り向かない直樹は知らない。
ほんの少しだけ、影が重なっては喜び、直樹のコートが翻って琴子に触れそうになっては喜んでいる琴子のことなど、直樹は知ろうともしない。
その日の始まりが二人にとって特別になるまで、まだあと数年。
少し肌寒く感じた本格的な冬も間近な朝の出来事。

(2011/11/22)