来客の心得





入江家に遊びに来るのはたいてい琴子の友人。
琴子が来る前ももちろん誰も遊びに来なかったわけではないが、私立の学校となれば家同士は離れていることも多く、学校帰りにふらりと気軽に立ち寄れないのかもしれない。
…と紀子は思っていた。
新学期になっても琴子の友人以外は滅多に誰も訪れない。
来客をもてなすことも大好きな紀子にとっては大いに不満はあったが、これも琴子が来てくれたからこそ今の数少ない来客があるのだと紀子は思っていた。
琴子が入江家にやってきてから数年、直樹の友人の来客は以前より増えたが、裕樹の友人の来客は減る一方だった。もちろん代わりに可愛らしい友人兼恋人候補も来るようになったのだが、それでもこの兄弟には友人が少なすぎるのではなかろうかと紀子は心配もしていた。
自分が生んだにもかかわらず、兄は無愛想で冷徹。琴子以外の女の友人は今となってはごめんだが、それにしてもこの無愛想さで友人が異常に少ないのは母の責任だろうかと少々悩みもした。
弟は兄よりマシなものの、やはり兄を目標としているからか、これまた友人が少ないように思われた。年々家に遊びに来る友人が減っている。外では遊んでいるようだが、その流れで家に招待、なんてことは男同士ではないのかもしれないと紀子はつまらなさにため息をついた。

 * * * 

裕樹は帰り道であまり寄り道をするほうではなかったが、あの琴子の教育実習のせいでクラスの皆と今までより親しく付き合うようになったのは確かだった。
その日も誘われるまま帰り道でアイスクリームなどを食べながらクラスの友人と話していた。
やや仏頂面ながらもクラスメートの寄り道に付き合っているのだから、これはこれで進歩だ。この仏頂面もあの好美について少々からかわれたせいだから仕方がない。
そんなゆったりとしたムードにクラスメートは突然提案した。

「今から入江の家に行きたいな」
「え、ええっ、僕んち?」
「うん、だってさ、琴子先生の家でもあるんだよな」
「…まあ、そうだけど」
「久々に琴子先生に会いたいよな」
「あいつ?相変わらずバカだよ」
「そんなのどっちでもいいよ」
「あ、おれも行きたい」
「おれも、おれも」
「それに入江の家って行ってみたかったんだよな。
どんな部屋で勉強したら一番が取れるんだろうとかさ」
「別に…つまらない普通の部屋だよ」
「まあ、いいじゃん」

そんなわけで、クラスメートを三人従えて、裕樹は家に連れて行くことになった。
幸い入江家は学校からさほど遠いわけでもなく、家に行くと決まった時点で公衆電話から母・紀子に電話をしたので、きっと何らかの用意もしてくれるはずだ、と裕樹は意気揚々と帰宅することになった。
裕樹も非常にできのよい子どもだったので、クラスメートに一目置かれはしても親しげに家にまで来るということが少なかったのだ。
裕樹自身もどきどきしながら帰宅した。
琴子がいなければいいと密かに思いながら帰ったが、運の悪いことに琴子は在宅していた。
なんて暇な大学生だ、だから頭が悪いんだとまで思った。
大学の講義の空きと頭の悪さは関係ないのだが、琴子がいることによって裕樹のポジションが多少微妙になるのを恨む気持ちは仕方がないと言えるだろう。
なにせクラスメートが三人も家に寄るというのはかなり久々の出来事だからだ。
紀子は待ち構えたように裕樹とそのクラスメートを歓迎した。
息子には友人が少ないと思っていたところだったので、ここで歓迎振りを失敗してはという思いもあった。
手作りの焼き菓子に近所の評判のスイーツにジュース。
クラスメートたちが何を所望しても大丈夫と紀子は用意周到だった。
クラスメートたちもそこそこ裕福な子どもが多かったが、さすがにパンダイの社長令息ほどではなかったらしく、家の前に立ったときから家の中に入るまできょろきょろと落ち着かな気に辺りを見まわしていた。

「す、凄いね、さすが」

そんなクラスメートの声もあったが、紀子の朗らかに出迎えた笑顔と琴子の呑気な声に緊張がほぐれたようだった。

「いらっしゃい、久しぶりだね」

人気者、とまではいかなかったが、教育実習では琴子はそこそこ慕われてはいたので、元教え子とも言える裕樹のクラスメートは琴子を見て和んだようだった。
邪険に琴子にあっち行けよと追い払い、自分の部屋へ移動することにした。
そこなら裕樹の空間であり、邪魔も滅多に入らないからだ。
クラスメートは裕樹の部屋に入って何となくいつものおしゃべりに興じながら、琴子の話題になった。

「琴子先生は家でも変わらないんだね」
「…まあね」
「義理のお姉さんなんだよね」
「まあね」
「見てる分には面白いかな」
「あ、そう言えば僕、夏休みにはあいつの観察日記つけてたな。毎日くだらないことでぎゃあぎゃあ騒いでてさ」
「観察日記つけられるほどなんだ。…大変だな、入江も」
「いや、まあ、大変というか…」

少しばかり言葉選びを失敗したか、と思いつつ、裕樹はつい琴子をかばう。
嫌われるのも腹が立つが、ちやほやされるのも何となく面白くない裕樹は、もごもごと言い訳めいたことを言った。
頭がよくて察しのいいクラスメートたちはその様子を見て、裕樹は琴子をバカにしながらも結局慕っていることを感じ、あえてそれ以上突っ込みはしなかった。

「裕樹くん、おやつだよ〜」

そう言ってドアをノックしてきたのは琴子だった。
てっきり紀子が持ってくるのだとばかり思っていたが、その声を聞いてクラスメートはわっと盛り上がった。何せ先ほどまで琴子の話題で盛り上がっていたのだから。

「はい、どうぞ〜」

返事も待たずにずうずうしくもドアを開けて、琴子はおやつを持って裕樹の部屋に入ってきた。
怒鳴りつけるとお盆の上のおやつを落とすかもしれないと思うと、小声で「勝手に入ってくるなよな」と言うに止めた。
琴子が立ったり座ったりするたびに短いスカートがひらひらと揺れた。
いつもそういう格好なので裕樹自身は気にならなかったが、思春期に差し掛かった中学生男子にはやや刺激的だったようだ。
考えてみれば、クラスにいるのは同年代の生意気な女子。しかも飛びっきり頭のいい女子で、太刀打ちできないくらいのつわものもいる。琴子は腐っても女子大生。子どもっぽさはあれど、十分に年上の女性だ。
裕樹のクラスメートと言えば真面目ではあるが、ひらりと膝上の柔らかそうな足が見えれば思わず注目してしまう年頃だ。
しかも教育実習のときにはそれなりにかっちりとした服装で、首もとのゆるい感じや膝上の危うい肌が見えることなどなかったし、注目することもなかった。

「じゃあ、ごゆっくり〜」

そう言って琴子が出て行った後、無言でクラスメートたちは顔を見合わせた。

「琴子先生って、いつもあんな格好なの?」
「あんな格好って?」
「その…ひらひらした感じ」
「…ああ、そうかも」

裕樹は琴子の格好を思い浮かべながら曖昧に答えた。
何を考えてるんだ、こいつらと思いながらクラスメートの顔を見ると、一様に頬を紅潮させていた。
いや、こいつらにも姉くらいいるだろ、と思い出す。

「いやー、なんかやばい感じ」
「教生の時はバカっぽくて気づかなかったけど」
「あれで女子大生なんだもんな」
「はあ?」
「俺の姉ちゃんと凄い違い」
「よく見たら可愛いかも」
「髪の毛さらさらっぽくていいな。髪の長いきれいな人好きなんだ〜」
「おい、待て」

話題がおかしな方向に行くのを感じ、裕樹は焦った。

「お、おまえら、おやつ食べたら帰れよな」
「えー、何でだよ」
「明日もテストだろ。僕はいいけど、おまえらは大丈夫なのか」
「あー、そうだった」

そう言ってその日は早々にクラスメートを追い返すことに成功した。
それから、あえて男の友人を家に招待しない日々。
それなのに、決定的とも言える日がやってきた。

 * * *

散々断ったのだ。
裕樹はそう言い訳しながら入江家の門をくぐった。
その後に連なるクラスメート。
グループで行う発表の仕上げのため、どうしても誰かの家で行う必要が出たためだ。
どの家でやろうが構わなかったが、人数的に家の大きさと学校から近いという点で入江家が選ばれた。
裕樹は以前の出来事を忘れてはいなかった。何せ記憶力はよいのだ。
しかもあの頃より兄・直樹のパワーは増している。
あの日の出来事はほとんど直樹の耳に入らなかったと裕樹は思っている。ましてやクラスメートたちの邪な感想も琴子の耳には入っていないはずだったし、伝えてもいない。
伝えなくてよかったと思ったのは、もう少し後でのことだったが。
そんな経験を通じ、裕樹はしぶしぶ男女入り混じったクラスメート五人を作業のしやすい部屋に案内した。
さすがに裕樹の部屋では若干息苦しい。
かと言ってリビングの片隅ではクラスメートが気を使う。もちろん入江家のリビングは十分広いが、何せ見まわすものがありすぎる(参考:兄夫婦の巨大パネル等)。
お客様用の部屋にテーブルを置いて作業することになった。
その時点では兄も琴子もいなかった。いや、いないのを確認してから連れてきたのだ。
ところが、裕樹の配慮を粉々に打ち砕いたバカ義姉がいた。

「いらっしゃ〜い。差し入れですよ〜」

そう言って作業している部屋に入ってきたのは、何を隠そう琴子だった。
いつの間に帰宅していたのかわからなかった。
今回は女子もいるからそういう話題にはならないだろうと裕樹は思っていたが、かえって好奇心を煽ったようだ。
作業の邪魔になるからと琴子はすぐに出て行ったが、あれこれと世話を焼こうとしてドジを踏んだ琴子のことは強烈な印象となったらしく、琴子が出て行った後も話題は尽きなかった。
もちろん優秀なるA組のクラスメートたちは、手だけは休まずに作業する。

「あれ、入江君のお姉さんなの?」
「なんか、可愛らしい人」
「あ、もしかしてあのお兄さんの奥さんって人?」
「え、お兄さんって?」
「知らないの?斗南病院にいるじゃない。すっごくかっこいいの」
「えー、見てみたい」

そんな女子二人の会話をよそに、男子は男子で話が弾む。

「今何やってる人?」
「斗南病院の看護婦」

淡々と裕樹は答えた。

「へー、お兄さんは医者で、お姉さんは看護婦か〜」
「なんか面白い組み合わせ」
「俺知ってる。中学のときに教生でA組来てたから」
「へ〜」
「新婚なのに居辛くない?」
「別に」
と答えながら、裕樹はこの流れはまずい、と思い始めていた。
居辛いことなんて多すぎて、いまやどうとでもしてくれと思い始めていたが、人に言われると数々の場面が思い浮かぶ。
既に高校も2年となれば、いろいろ興味は尽きない。
あえて考えないようにしているというのに、こいつらは…と好き勝手に言い始めるクラスメートを恨めしげに見て言った。

「いいから、作業早く終わらせようぜ」

その話題はこれで終わった、と裕樹はほっとした。
そのまま琴子のことも直樹のことも忘れて帰ってくれれば、と裕樹は思っていた。
実際、その後は何事もなく作業は進み、クラスメートたちは程よい時間に帰っていったし、直樹が帰宅することはなかったし、あれ以上邪な話題も出なかった。
しかし、そう思っていたのは裕樹だけで、まさかその帰り道でクラスメートたちが大魔王に遭遇したなどとは思ってもいなかったのだった。

 * * *

男子三人が先を行き、女子二人が後ろを歩いていた。

「帰りにチラッと見たけど、新婚兄夫婦の写真、多かったよな」
「ああ、あった、あった」
「教生に来た時はまだ女子大生だったけど、看護婦になったんだなぁ」
「どんな感じだった?B組はお義姉さんの授業なかったんだよな」
「えーっと、結構バカだったような。自身がF組出身って言ってたからな」
「へー、それなのに学校一の天才と結婚したんだ」
「まあ、可愛い感じだよな」
「そうだな。年齢差あってもあれならいける」
「いけるって、おまえそれ言うと入江に怒られるぞ」
「でも、あんな格好でうろうろされたらたまらん」
「今日は暑かったからな〜」
「それなのに髪の毛がこう…さらさらっと落ちてきて、背中とかチラッと見えてさ…」
「でも胸はないよな。谷間が少なくて残念といえば残念」
「でも足が見られてラッキーか?」
「入江は毎日あんなの見てるのか」
「しかも新婚?」

うははははとクラスメートたちは笑いあったところで、何か不穏な空気を感じ取った。
気がつくと、既に沈みがちな夕陽をバックに背の高い男が立っていた。
いつ現れたのか、話に夢中になっていたせいか覚えがない。
顔は影になってよく見えなかった。その陰になった感じが妙に迫力があって怖かった。
なぜか立ち止まった男子たちに気づいて女子も立ち止まった。
こちらは男子と違って即座に顔に気がついた。

「え、ちょっと、かっこいい…」
「やだ、この人、入江君のお兄さんじゃない?」

女子二人の声を聞いて、男子三人はこの人が…と改めて見た。

「こ、こんばんは」

挨拶としては微妙な時間帯だが、既に暗くなりかけているしおかしくはないだろうと、男子はそう声をかけた。

「…こんばんは」

何か暗く重々しい声だった。
先ほどの下品な会話を聞かれたかもしれないと察したのは、A組の賢さのお陰か。
気づかなかったほうが幸せだったに違いないが、そんなことを男子三人は知る由もない。

「さ、先ほど入江君の家にお邪魔させていただいて…」

結論から言えば、言うべきではなかった。
先ほどからの話題が琴子のことだと直樹が気づいたのは、入江は…のくだりでだったが、これによって彼らが裕樹のクラスメートたちであることは判明した。

「…気をつけて帰りなさい」

顔が陰になっているのにもかかわらず、瞳がキラリと光りはしなかったかと三人は凍りついた。
気をつけて…って、何に?!
常識的に考えれば、暗くなりかけているのだから普通の言葉がけだろう。
女子は何の憂いもなく「はいっ」と返事をし、夕陽のせいではなく頬を赤く染める。
しかし、いまや何とはなく恐怖に蝕まれた三人は、得体の知れない入江兄・直樹からの無言の圧力を受けている。
その横を通り過ぎたいのに、足が思うように動かない。
直樹は何も言っていないのに、どうしてここまで怯えなければならないのだろうか。
三人は即座にゲームを思い出した。

いる…。
ここに大魔王がいる…!

その後、どうやってそこを切り抜けたのか。
気がつくと、女子はとっくに先に帰り、三人は駅までの距離を覚えもなしにたどり着いた。
翌日、クラスメートは一人だけこっそり裕樹に語ったという。

「大魔王が…大魔王が現れたんだ」

意味のわからなかった裕樹だったが、どうやら琴子のことを好き放題に語ったことを直樹に聞かれたらしいと判明したとき、裕樹は舌打ちしながら言った。
「だから家でやるのは嫌だったんだ。おまえら多分出入り禁止だぞ。とばっちり受けるのは僕なんだからな」
クラスメートは遠い目をして答えたという。
「…大変だな、入江も」

それ以来、裕樹の家で作業をやろうという声は全部阻止されたし、裕樹もあえて誘わなかった。
そんな事情を知らない紀子は、今日も裕樹の友人を待ちわびているという。

(2012/04/26)