入江くんに会えない。
入江くんと話せない。
もう5日。
刹那
忙しくて家に帰って来れない入江くん。
時々着替えを取りに帰ってくるけど、すぐに病院に戻ってしまうので、声をかけようと思ったときにはもういない。
同じ家に住んでいるのに顔も合わせない。
最近ほとんど手術室かICUか小児科にいる入江くん。
外科に来ても風のように去ってしまう。
今までいた気配はわかるのに、タイミングが悪くてなかなか会えない。
同じ病院で働いているのに、病院の中は広すぎるよ…。
「入江、あいつは今、患者たくさんかかえてるからなー」
「今は患者がそろいもそろって重症なんだよ」
他の先生に聞いてもそんな返事。
妻にも会えないってどうなのよ?!
あたしは暇なときに入江くんを探してうろうろと病院内を歩く。
やっと見つけた入江くんを追いかける。
足早に歩き去っていく入江くんは、あたし以上に急いでいる。
「今日帰れる?」
「…多分、無理。悪いけど、医局に洗濯物あるから持って帰ってくれ」
それだけ言うと、他の先生に呼ばれて行ってしまった。
…5日ぶりだったのに。
あたしの元気の素は入江くんなのに。
神戸のときみたいに会えない距離じゃないのに。
今の顔と会話だけじゃもの足りないよ。
あたしは結局今日もあきらめて帰ることにした。
本当ならもっと追いかけていくところだけど、きっとあたしが追いかけて行ったら邪魔になる。
頑張っている入江くんをこれ以上疲れさせたくないし、もっと家に帰れなくなったりしたら嫌だもん。
* * *
あたしは泣きそうな思いでエレベータに乗った。
せめて入江くんの役に立ちたい。
医局のある最上階へとエレベータは上がっていく。
降りて、相変わらず乱雑な医局へと足を踏み入れる。
「失礼しまーす」
誰もいないのを承知で声をかけて入る。
前に教えてもらった机。
その横においてある紙袋。
中をのぞくと乱雑に入っているシャツ。
入江くんらしくない。
でも、入江くんのにおいがする。
それに見たことのある上着が入ってる。
あたしは多分これだろうと確信して持ち上げた。
机の上には資料の山。
きっと凄く頑張ってるんだね。
あたしはまた洗濯物を持ってくるのをいいわけに、入江くんに会いに来ようと思った。
* * *
エレベータを待っていると、下から来るのを待つことに。
しんと静まり返ったこの階は、各医局しか入っていない。
それぞれの医局から聞こえてくるのはテレビの音だけ。
もう人のいない時間なのかな。
そんな風に思っていたら、エレベータの中から現れた人影に気づかなかった。
軽くぶつかって紙袋が手から落ちる。
「あ…」
さっと拾い上げてくれた人を見上げれば。
「…入江くん!」
それなのに、平然とした顔でもう一度エレベータのボタンを押す。
「よくわかったな」
「え?」
「洗濯物」
「ああ、だって、入江くんの…」
あたしはそこまで言ってはっと口をつぐむ。
まさか入江くんのにおいがしたなんて、言えない…。
エレベータの扉が開いて一緒に乗り込む。
「あれ?医局に用事じゃなかったの?」
エレベータに乗り込んで扉が閉まる。
その途端。
「んんっ」
息する暇もないほどのキス。
見上げた視界の向こうでは、下がっていく明かり。
そばで感じる入江くんの鼓動。
7階。
覆いかぶさる髪の毛。
5階。
入江くんのにおい。
3階…。
肩にまわされた力強い腕。
目をつぶった瞬間…。
ピンポーンと鳴って、開かれる扉。
* * *
気づいたら、あたしは1階のロビーで座り込んでいた。
そばには洗濯物の詰まった紙袋。
遠ざかっていく足音。
近づいてくる人の気配。
「あら、琴子?」
手に検体を持ったモトちゃんが通りかかった。
「あ、モトちゃんか」
「なに座り込んでるの」
「…荷物、ばら撒いちゃって」
そばに置かれた紙袋を両手で抱きしめる。
「ふーん、相変わらずドジねぇ」
「あはは」
「そんなところで座り込んでいると腰が冷えるわよ。女の腰は冷やしちゃいけないのよ」
「うん、もう、帰るから」
「じゃあね」
モトちゃんは再び急いで歩き出した。
多分検査室へ行くんだろう。
あたしは一つため息をついて紙袋を抱きしめていた。
だって、ねぇ。
まさか、腰が抜けて動けない…なんて、…言えない。
(2006/12/03)