sweet face
「今年こそは完璧なチョコレートを作ってみせるわ!」
2月に入ったまだ寒い日々。
件の話は、当然のことながらバレンタインデーのことが話題のようだ。
食事も済んだ昼の学食で息巻いた琴子の横で、いつもの面々はあくびをしながら琴子を見ることもなく言った。
「毎年言ってんじゃないの、それ」
品川真理奈は爪を磨いていた。
「おまえが完璧?そんなものに情熱燃やすより、注射を完璧にしてくれ」
漫画雑誌をめくりながら鴨狩啓太は言った。
「ねぇ、それよりも越丸デパートの地下が今熱いんですってよ」
雑誌をめくりながら琴子の言葉は受け流し、桔梗幹が真理奈に見せたページにはチョコレート特集が載っていた。
「モトちゃんってば、本命は手作りって言ってなかったぁ?」
「本命は入江さんよ!でも当の入江さんが甘いのは食べない上に、どうせ琴子の腹の中に納まると考えたら、手作りもバカバカしいじゃない」
「…それもそうよね〜」
「でも渡すのね」
同じように控えめに雑誌を覗き込みながら小倉智子が言った。
「いいでしょ。後から琴子に渡ったとしても、あたしの愛は違わないわよ。それに今年なら、琴子もいるから受け取ってくれるかもしれないじゃない」
そう言うと、幹は隣で握りこぶしを作っている琴子をチラッと見た。
「明日なら実習もないし、早速行ってみない?」
「うーん、まあ、いいけど」
真理奈は爪の手入れを終え、そう答えた。
「おいしそうよね」
智子も行くつもりのようだ。
「ちょっと、あたしも行くわ!」
割り込んだ琴子を見ながら、真理奈は「えー」とつぶやいた。
「どうせ手作りチョコの分はお母様が用意してるんじゃないの?」
幹の言葉に琴子は口を尖らせた。
「自分でも選びたいのよ。…失敗するかもしれないし」
小声で付け足した言葉を聞いて、一同は思った。
…絶対失敗だと思うけど。
「俺は行かねーからな」
「男の啓太は誘ってないわよ」
「…じゃあ、おまえは何なんだ」
鴨狩啓太は、性別男であるはずの実習仲間を見てそっとつぶやいたのだった。
* * *
チョコレートに埋め尽くされたと言ってもいい地下食品売り場は、そこらじゅうを甘い匂いで満たされていた。
チョコレートが好きならそれだけで浮かれそうな売り場にやってきた四人は、早速有名どころから見てまわる。
この時期ならではの限定品も多く、目移りしそうな中、勧められた試食に心を奪われる。
「あたし、これにしようっと」
幹が選んだチョコは、高級でもあるが、口当たりは滑らかでビターな一品だ。
「これなら入江さんでも食べられそう。あ、琴子はできれば食べないでよね」
「もう、どうせ入江くんなんて食べないんだから」
「いいのよ、たとえ食べてくれなくったって、これを入江さんが口にするかもって考えただけで」
「これだけあればいいかしら」
真理奈は明らかに義理チョコの数々を手に持ち、お返しを期待するかのような様相だ。
「投資した以上を期待するのもどうかと思うけど」
「琴子は投資した半分も返ってこなさそうだけど」
「い、入江くんはね、そういうイベントが好きじゃないのよ」
「それなら、あげなくてもいいんじゃないの?」
「あたしがあげたいのっ」
「ねえ、見て、これ」
うっとりと智子が差し出したチョコは、メスなどが模られたチョコだった。
「うわ、これ誰に送るの?」
智子は医学生の面々にもよくもてるが、中身はグロテスク趣味だった。
「誰って、これはわたし用なの。もう少しこの辺りを滑らかにしてくれると完璧なのに」
メスの形をしたチョコを考える人がいるなんて、きっと智子と趣味が同じに違いないと琴子は思ったが、あえてコメントはしないことにした。
「で、あんたはさっきから試食ばかりして一つも手に取ってないんじゃない」
既に買い終わった紙袋を手に、幹は言った。
琴子は迷うばかりで何も買っていない。しかも試食で口の中をもごもごさせている。
「…もう、今日はやめる」
結局選べずに帰ることにしたのだった。
確かに試食したチョコはどれもおいしかったが、渡すとなるとなかなか選べなかったのだ。
甘いものが苦手で、琴子からのものを妻だからと無条件に受け入れるタイプではないし、何よりもイベントに興味がない。
ため息をつきながら帰る琴子を少しだけかわいそうに思った幹は「でも、ま、琴子のならどんなにまずくたって受け取ってくれるわよ」と慰めるのだった。
「ホントに〜?」
つい余計な一言を入れてしまう真理奈を肘で突くのも忘れなかった。
琴子の帰っていく後姿見ながら、三人はつぶやいた。
「どーせチョコなんてものは必要ないでしょうに」
* * *
「やばい」
鏡を見ながら琴子はつぶやいた。
既にバレンタインは明日に迫ったが、顔の中央に大きなニキビができていた。
連日チョコの特訓をしていて、キッチンからリビング、果ては家中に甘い匂いを撒き散らしながら作り続け、無駄にした試作品は全て琴子の腹の中に収めたのがいけなかったのだろう。
これだけあからさまに作っているので、当然直樹にもわかってはいるのだが、あくまで披露するのはバレンタインデー当日のつもりだ。
「と、とりあえず薬」
ニキビに効く薬を塗り、琴子は明日までに治りますようにと暗示をかけた。
とりあえず今日は直樹にもあまり顔を見せないようにしないと、と自然に一緒の食事のときも下を向きがちに。なるべく髪の毛を中央に寄せて顔を下に向けていたので、裕樹からはホラー映画の主人公のようだとまで言われたのだった。
もちろん直樹もそんな琴子を不審気に見ていたが、あえて突っ込むことはせずにその日は過ぎた。
* * *
「う、嘘…。ふ、二つに増えてる〜〜〜!」
翌朝、直樹が先に大学へ出かけた後に鏡をのぞいた琴子は、ニキビが消えるどころかもう一つ顎にまでできているのを見つけた。
「昨日はチョコ食べてないのに」
ため息をつきながら部屋を出た琴子は裕樹と鉢合わせし、裕樹は琴子の顔を見て「ぷっ」と笑った。
「ホラー映画から赤鼻のトナカイになってる。クリスマスはもう終わったぞ」
無防備に顔をさらしてしまい、しかも笑われたのが堪えたのか、そのままものも言わずに再び寝室へ。
もう一度現れた琴子は、裕樹がさすがに言い過ぎたかと反省するくらいの様相をして出てきたのだった。
その日琴子は、実習がないのをいいことに、一日中その姿で過ごすこととなった。もちろん電車の中から大学まで、これでもかと好奇の目にさらされたが、これまた直樹に合うことも徹底的に避けたので、さほど気にならなかったようだった。
「ただい…」
「お帰り、入江くん」
夕食時、琴子は義母・紀子の手伝いをしながら直樹を出迎えた。
琴子の顔を見た直樹は一瞬絶句した。いつも何か絶句することをやってくれる妻だったが、どこの世界に覆面をしたまま出迎える妻がいるんだろうか、と。
「…何なんだ、それは」
「何って、覆面」
「だから、何で覆面なんだ」
「だ、だって」
「銀行強盗でもするつもりか」
「まさか。でも、これ結構暖かいの。工事現場のおじさんご用達ってよくわかるわ〜」
琴子は、目鼻口が開いている毛糸の覆面をしていたのだった。
二人のやり取りを見ていた紀子も少しだけ困ったように笑った。
「まあまあ、それより、今日はバレンタインスペシャルよ」
食卓にはハート型に型抜かれた野菜などが添えられた食事が乗っていた。
その食事をやはり覆面したまま苦労して食べる琴子の姿。隣で裕樹は自分の責任を追及されるのかと青ざめた顔をしている。直樹は仏頂面で黙々と食べ続けた。
早々に不機嫌な様子で二階へ上がっていく直樹を琴子は慌てて追いかけた。
「い、入江くん!」
二人の寝室に入っていき、振り向いた直樹にチョコレートを差し出した。
「あのね、完璧とは言えないけど、とりあえず食べられるものを用意したから!」
「…取れ」
「…へ?」
何を言われたのかわからない琴子はチョコレートを持ったまま固まった。
「その覆面を取れって言ってんだよ」
「え、ええ〜っ」
「そんな誰だかわからないようなやつからのチョコなんていらない」
「誰だかって、あたしに決まって…あ、ちょっと、やめっ」
油断した隙に直樹が覆面の上を引っ張り上げた。
「わ〜〜〜、見ないでっ」
精一杯抵抗したが、とうとう覆面を取り上げられ、琴子は乱れた髪とともに顔を覆った。
「ひ、ひどいっ、入江くん」
「それ以上ひどい顔になんてならねーよ」
「それもひどいっ」
やっとのことで手を下ろした琴子の顔には、まだ髪がかぶさっている。
「…昨日からおまえの顔見てねーんだけど」
「えーと、それはね、実は…」
「くだらねー理由だったらチョコ食わねーぞ」
「だ、だって、こんなに大きなニキビができちゃったんだもん」
「…どこに」
「こことここ」
琴子が指で指し示したそこには、確かに赤く盛り上がったニキビがあった。
「すっげーくだらねーからチョコは食わない」
「そんなぁ」
「ほら」
そう言って琴子に放り投げたチョコは一つばかりではなかったが、どうやら大学で直樹がもらったチョコのようだ。その中の一つは見覚えがあった。
「あ、これモトちゃんの…?」
「さあ、そうだったかもな」
素っ気無くそう言って、直樹は琴子のチョコを手に取った。
箱を開けるとコロコロとしたトリュフ型のチョコが数個入っている。形はいびつだが、とりあえず口に入れても大丈夫そうな様子ではあった。
それを一つ摘むと、口に入れながら言った。
「チョコレートの作用知ってるか」
「…知らない」
「向精神作用」
「えーと、それって」
「気分がよくなって、食べ過ぎると禁断症状まで出るらしい」
「そ、そうなんだ」
「それから」
「それから?」
「気分がよくなって、つまり、性欲が増す」
「……そ、そうなんだ」
「で、おまえは俺に一所懸命食べさせてどうするつもりなんだ?」
にやっと意地悪く直樹が笑った。
「どう、どうって…おいしいな、でお終い」
「へー、じゃあ、おいしい思いをさせてもらおうか」
「…う…」
「覆面してまでチョコレート作りにがんばってくれたんだもんな」
「そ、それは、そうだけど」
逃げ場をなくした琴子は、赤いニキビにキスを受けながら、そう言えばニキビで占いもしたなぁと思い出した。あれは、どうだっただろうか。
思い出す間もなく、甘い匂いの寝室で、これまた甘いキスを受けたのだった。
* * *
「琴子のあれって、両想いニキビに想われニキビよね」
「…ああ、そんなのあったわね。って、モトちゃん、そういうのホント詳しいわね」
「でも、だからって覆面してくるのなんて、琴子だけよね」
「どうせ今頃覆面なんて剥ぎ取られて、ついでに服まで剥ぎ取られてるのがオチでしょうよ」
「でも、今年はあたしのチョコも受け取ってもらえたのよね〜。入江さんに覆面の話したのが取引みたいだけど」
そんな幹と真理奈のバレンタインデーは、しつこくかかってくる船津からの電話をのぞけば、非常にささやかなものだったという。
(2011/02/07)Fin