ああ、もう、今日も入江くんは意地悪だった。
なんであんなに意地悪なんだろう。
意地悪な入江くんなんて、もうたくさん!
テニス部で散々しごかれた後、悠々とやってきた入江くんは、ズタボロのあたしを見てぷっと吹き出した。
ええ、ええ、入江くんは余裕よね。
だって、練習だってちょちょいのちょいで試合にだって出場できてさ、ラケットを持つと鬼のような須藤さんだって、他の誰だって、結局誰も入江くんに勝てないんだもん。
おまけに「玉拾い一生やってろ」って、ひどいと思わない?
そりゃちょっと入江くんのマネしてラケット振り回したのは悪かったわよ。
でもそれだって、あたしだってうまくなりたいから、入江くんのフォームをマネしたらうまくいくんじゃないかって、ちょっと思っちゃったのよ。
入江くんはあたしのラケットにお尻を叩かれて、青筋立てて怒っていた。
でもちょーっと、ちょっとだけ、それも面白かった。
だって、入江くんが、お尻叩かれるなんて今までだってなかっただろうし。
あたしは、そりゃ、小さい頃にお父さんに叩かれたことくらいあるわよ。
あって、あの入江くんが、だよ?
ふふふっ。
そうやって入江家に戻ってから思い出し笑いしたら、入江くんにものすごい勢いでにらまれた。
別に入江くんのこと笑ってるなんて一言も言ってないのに。
勘が良すぎるのかしらね。
その後、部屋に入ろうとしたら、入江くんがちょうどドアを開けようとしたところで、ドアがまともに顔に当たった。
ぐ、偶然よね?
入江くんはさもざまあみろという顔をしていたけど。
くっ、仕返し?これって、ラケットの仕返しなの?
ちょっと陰険すぎない?
そんなやったりやり返したりの一日が過ぎて、あたしはもやもやしたままベッドにもぐったのだった。
* * *
夢の中だ、これ。
そう思ったのは、現実世界とは違うふわふわとした世界だったから。
なんというか、白い世界だ。
でもそこに何故か標識が。
『優しい入江くんはこちら』
…な、なに、これ。
でもその標識にちょっと心ひかれて、あたしはその標識につられて行ってみた。
そこには何故か入江くんが。
うん、だって、標識にあったもんね。
「なんだ琴子か。ほら、ここ座るか」
「えっ」
そう言った入江くんは、笑顔こそないけど、入江くんが言った通り、いつの間にかソファがあって、そこに座れと促された。
「ほら、いいから、座れよ」
「う、うん」
あたしは促されるまま座ると、入江くんはいつものように新聞を手にした。
ちなみにソファも新聞もいつ出てきたのかわからない。でもこれ夢だから当たり前かも。
「何だよ、コーヒーでも飲みたいのか」
「うーん、そう、かな」
「わかった」
そう言うと、入江くんはコーヒーを手にして戻ってきた。自分の分もある。
「ほら、こぼすなよ」
「ありがとう」
そう言って一口飲むと、あまり熱くない。ちょっとだけ猫舌気味だから、ちょっとうれしい。しかもあたし好みの甘さ。
「俺が少し冷ましておいてやった」
「そ、そうなんだ、ありがとう」
…何だかここまでしてもらうと不気味。
なんだろう、しっくりこない。
どうしよう、今までになく優しいかもしれない入江くんなのに。
それに、コーヒーは、やっぱりあたしが入れてあげたいかも。
「何だよ、何か不満かよ」
「ううん、そうじゃないの。そうじゃないんだけど」
「おまえ、これ好きだろ」
そう言って今度はあたしの好きなクッキーまでくれた。
「何だ、またテスト教えろって?」
いや、何も言ってない。そりゃもちろん今度のテストはやばいけど。
察しの良い入江くん。しかもなんか不気味なくらい優しい、かも。
ああ、そうか、そうだった、こちらは優しい入江くん、だった。
別に恋人でも何でもないから、優しいって、こんなものなのかも。
物くれるのが優しいのかと言えば、なんか違うとしか言えないけど、少なくとも普段の入江くんは物どころか気を使ってもくれないよね。
でも、いいや、何か、入江くんらしくない。
そう思った途端に、あたしはまた振出しに戻った。
『甘い入江くんはこちら』
甘い…甘いって、どんなふうに甘いんだろう。
いや、ちょっと興味あるかも。
あたしはなんだかスキップで標識の方に向かった。
「おまえ、転ぶだろ」
そう言って、あたしがスキップしている横に駆けつけたのは、やはり入江くん、だった。
そりゃそうだ。
今度は甘い入江くん。
「大丈夫だよ、これくらい」
「見せてみろ」
そう言って、あたしの手を優しくとる。
えー、何これ、ちょっと、ドキドキする!
あたしの顔をのぞき込みながら、頬に手を当てて、「うん、大丈夫だ」と言った。
何この至近距離。
うわああ、あたし、あたし、この入江くん、やばい!
でも、入江くんだから、セリフは甘いのに笑わないの。
「だ、大丈夫だから」
慌ててそう言うと、甘い入江くんは突然現れたソファに座った。
よく見ると、これ入江家のリビングのソファよね。あたしの想像力の貧困さが恨めしいわ。
あたしがそっと入江くんの隣に座ると、「何だよ、調子狂うな」とそこであたしに笑いかけた。
…笑った。
笑ったわ―――!
まるで○ララが立ったかのようにあたしは小躍りしたい気分だった。
「そんなに俺の顔ばかり見てんなよ」
「だ、だって、み、見ちゃうよ」
「ふうん、このほうがよく見えるだろ」
そう言って、あたしの顔を見つめた。
む、無理、無理、この入江くん、無理。
甘いけど、なんかチガウ!
甘くていいけど、こんなの続いたら、あたし死んじゃいそう。
「いやあ、無理!」
そう叫んだところで、あたしはまた振出しのところでしりもちをついていた。
嫌じゃないけど、嫌じゃないけど、入江くん、あんなこと言わない。
そりゃあたしの妄想の中ではあんな感じの入江くん、いたらいいなと思うけど。
夢の中ならもっと甘かったり優しくてもいいんじゃないかなとかも思うけど、あたしの想像力じゃあれが限界なのかしら。
だって、甘い入江くんもあからさまに優しい入江くんも知らないし。
もしかして、あたし、あんな意地悪な入江くんじゃないともう満足できないとか?
それもいやー。
『オタクな入江くんはこちら』
『プレイボーイな入江くんはこちら』
『変態な入江くんはこちら』
『お調子者の入江くんはこちら』
『オカマの入江くんはこちら』
入江くんがたくさんだわ。
いろんな入江くんが書かれた標識を見て、あたしは足が進まない。
どれもこれも見てみたいけど、見たらなんかまずい気がする。
ところがその奥にもう一つ。
『普通の入江くんはこちら』
なんか、あれね。
池だか泉だかに何かを落としたら女神が出てきて、あなたの落とした入江くんはこちらですか、って言うやつみたい。
正直者のあなたには、全部の入江くんをあげましょうって。
言われたら、どうしよう。
でも、普通の入江くんなら大丈夫かな。
普通って、なんだろう。
普通って、怒ったりしない入江くんかな。
意地悪じゃない入江くんとか?
どうしてもあたしの考える入江くんって、そういうのしか出てこないんだけど。
そんなことを考えながら、あたしはその標識の方にふらふらと歩き出していたのだった。
そこは、机があって、あたしには見慣れた風景だ。
あたしの手前には横開きのドアがあって、教室のよう。
ドアは開かれているけど、あたしはそこから教室の中をのぞいている。
ああ、これ、もしかしたら高校の時の…?
もう高校は卒業したけど、あたしの入江くんの原点はここなんだ。
ずっと、ただ遠くから見ていただけの二年間。
急に同居することになった最後の一年間。
今でもそうだけど、A組の中にはちょっと入っていけない。理工学部の中に入っていけないように。
入江くんはあたしに気がついても知らないふりをする。むしろ、わざとこちらを見ないようにしている。
意地悪なんだけど、それが普通。
入江くんの周りに急に人が出てきて、入江くんの隣で「相原が来たぞ」とかなんとか言っているのがわかる。
渡辺君も出てきて、あたしの顔を見るとにっこり笑う。
その隣でため息をつく入江くん。
あたしにはめったに笑顔を見せない。
入江くんが心底笑った顔ってあまり見たことない。
たまにあたしがやらかしたことに対して笑ってはいるけど、ただの反応、って感じ。
なんでこんな人好きなんだろう。
あたしは時々本当にそう思う。
入江くんはかっこよくて、キライって思っても、結局また入江くんを見てしまって、ほんの時たま気まぐれのように相手してくれるその瞬間をあたしは好きになってしまう。
ただ見ていただけの時よりも、ずっと意地悪なことに気が付いたのに。
冷たい。でもたまに優しい。
普段が冷たいから、倍増しで優しく感じちゃうんだろうけど。
優しい言葉なんてほとんどかけてもらったことなんてないのに、どうして優しいなんて思えるんだろう。
むしろ意地悪な言葉ばかり憶えている。
突然のキッスで驚く女の子に、ざまあみろなんて普通言わないわよね。
見ていただけの頃は、入江くんはいつかきっとあたしに気が付いて、こんな言葉をかけてくれるかもしれないって思ってたりした。
あたしに気が付いたからって、あたしが想像した通りの言葉なんて一つもなかったけどね。
ああ、あたしは何でいまだに入江くんのこと好きなんだろう。
もうやめるって思ったのに。
ずっと入江くんを見ていたら、入江くんは不意にこちらを向いて『バーカ』と唇を動かした。
くっ、その唇さえあたしは真剣に見つめてしまった。
だって、その唇があたしの初キッスを奪ったんだから。
それに、入江くんってば、あたしがその言葉を読み取るって絶対わかっていたはず。
好きない人に『バーカ』って言われて内心喜んでるあたしって、どうなの。
なんだか悔しい。
そして、これは本当に普通の入江くんだ。
意地悪で、容赦のない言葉。
でも、時々優しい。
こうしてあたしが見ていることを知って、周りが気づかないうちに(たとえそれが悪口だろうと)あたしにメッセージを読み取らせる。
急に場面が変わった。
入江くんは意地悪そうな笑顔を浮かべ、あたしに言った。
「その意地悪な男が好きなんだろ」
そーよ、その通りよ!
* * *
唐突に目が覚めた。
でもあたしには、叫んだ記憶が残っていた。
結局あたしは、意地悪で笑わなくてあたしのことをバカにしていても時々ちょっとだけ優しい、そんな入江くんが好きなのだ。
目が覚めてしまったので、部屋を出て洗面所に。
廊下で入江くんとばったりと会った。入江くんはいつも早起き。
あたしは夢の中の入江くんを思い出した。
優しい入江くん。
甘い入江くん。
ちょっと惜しかったかな。
あたしがちょっとだけ笑って入江くんを見ると「何だよ」と朝から不機嫌そうに言われた。
「べっつに〜」
あたしは反対に上機嫌でそう言った。
夢の中の入江くんは、あくまで別人だったけど、いつの日にか、もしかしたらもしかして、あたしに優しくて甘い入江くんが見られるかもしれないし。
あ、でも、変態だったり、オタクだったり、プレイボーイな入江くんを見ることになったら…どうしよう?!
(2016/10/19)