月に祈りを




秋もまだまだ実感のない日々、夏休みがようやく終わった大学構内で、琴子はあるチラシに目を奪われていた。
「琴子、何見てるの」
理美が声をかけると、既に琴子は妄想の世界に入っていた。


「いい月だな」
「うん」
「月明かりの下で見る琴子はもっときれいだ」
「入江くん…。あ、月が雲に…」
「俺たちを隠してくれるんだよ…」
そして、熱いキッスを…なーんて、なんて…。

―妄想終了―


「琴子ってば」
じんこが声をかけると、ようやく琴子は我に返ってこぶしを握った。
「そうよ、これよ、これ!」
そう言うと、早速その場から駆け出した。
残された理美とじんこは、貼ってあったチラシを読んでようやく納得した。
「バッカねー、琴子ってば。こんなの入江くんが参加するわけないじゃない」
「現実を見ないっていうのも一種の才能かもよ」
二人は、琴子のたくらみがあっけなく幕を閉じるだろうと思っていた。
そして、その予想は当然のように当たったのだが、琴子の頭は妄想でいっぱいで、断られることなど微塵も考えていなかった。

 * * *

『天文同好会主催 中秋の名月をカップルで楽しもう』

目の前にチラシ(どこからか持ってきたらしい)を落として琴子は言った。
「入江くん、拾ってくれてどうもありがとう」
つい目の前に落ちてきたチラシを邪魔だと手に取ったのが間違いだった。
ベンチで本を読んでいた目の前にチラシを落とされれば、誰だって手にとって排除しようとする。
手に取ったところをすかさず琴子が手を出したので、仕方なくチラシを琴子に差し出した。
もちろんチラシの内容など読まずに。
全くチラシに関心のないことを見て悟った琴子は、「あ、風が〜」とわざとらしくつぶやいてもう一度同じことを繰り返した。
「いい加減にしろ、何のつもりだ」
チラシを握りつぶさんばかりに握って、琴子に突返した。
「今日は何の日か知ってる?」
「は?」
直樹は琴子の言わんとしていることを悟ったが、あえて口にはせずに本に目線を落とした。
「教えてあげましょうか。今日は中秋の名月よ!」
直樹は一瞬琴子の顔を見てため息をつくと、そのまままた本に目を落とした。
「ちょっと、なんで無視するのよ」
「中秋の月は何を意味するか知ってて言ってるんだろうな」
「え、え〜っとぉ、それはほら、月がきれいだなって、皆で月見団子食べる日よ」
「それならおまえ一人で団子食ってれば」
直樹は本を閉じて立ち上がった。
「あ、ちょっと、入江くん、一緒にこれ…」
直樹が握りつぶしたチラシを懸命に伸ばしながら琴子は歩き出した直樹を追いかけた。
「人にあはむ 月のなきには 思ひおきて 胸はしり火に 心やけをり」
「え、な、なに」
「これくらいの風流さで誘うならつきあってやってもいいけどな」
もちろん直樹の言葉を一度で理解できる琴子ではなかった。
反芻しようとしてみたが、やはり覚え切れなかったようだった。
「わ、わかんない、もう一回言って!」
「ばぁか」
「え、ちょ、ちょっと、入江くん!」
文学部のくせして有名な和歌一つ覚えていないとは…と、背中に琴子の声を聞きながら直樹は歩き去ったのだった。

 * * *

「まあ、琴子ちゃん、そんなに落ち込むことないわよ。
ほら、ススキも萩も団子も用意したし、今夜は天気もよさそうだからばっちりよ」
「げえ、まずそう、この団子」
お供えの団子をつかもうとして、その柔らかすぎるねちょねちょとした白い物体に、裕樹は気味悪そうにして触っただけでやめた。手についた団子のかけらを口になめてみて顔をしかめる。
「裕樹!」
たしなめる紀子の声に肩をすくめて、裕樹は部屋へ戻っていった。
琴子はまたため息をついて団子のつもりのものを眺めた。自分で言うのもなんだが、紀子が作ったものと比べると雲泥の差だった。同じように作ったはずなのにこの差はなんなのだろう。
日は暮れていくが、天文同好会主催の月見の会には参加できそうにないし、肝心の直樹が来ない。紀子が誘ったはずだが、来る気はないのかもしれない。
大学の講義では確かに和歌を習った気がするが、どんな和歌があったのかまでは覚えていない。
持っている本を駆使して何とかこれだったかもしれないという和歌を探し出したが、探し出しただけで意味はわからなかった。
たまには勉強するのもいいかもと現代語訳に直してみようとがんばったが、自分で訳した言葉はさっぱり意味が通じなかった。

「あたしって、ホントにバカかも」
日も暮れていわゆる中秋の月が空に昇ってきた頃、庭にしつらえた縁台に座り、琴子は月を見上げた。足をぷらぷらと投げ出し、サンダルが片足から離れた。
「人にあはむ 月のなきには 思ひおきて 胸はしり火に 心やけをり…か」
足下から離れたサンダルを拾おうと横着をして足を伸ばした琴子の耳に、待ちわびていた声が聞こえた。
「へえ、覚えたんだ」
庭の奥から声がして、琴子は驚いてサンダルを足にはめる前に結局しりもちをついた。
「び、びっくりした」
「何やってんだ」
そう言って近づいてきた直樹が、琴子に手を伸ばした。
つかんでいいものか迷ったが、せっかくの手を引っ込められると悔しいので、琴子は慌てて直樹の手をつかんだ。
身体を引っ張りあげられて、おしりについた草を払う。
「ありがとう、入江くん」
「別に」
「何で庭のほうから?」

「もう、お兄ちゃんったらこんな時間まで何してるのかしらっ」

家の奥から紀子の声が聞こえた。
いきり立った紀子にとがめられるのが嫌でこっそり庭から入ろうとしたのか、琴子の声が聞こえたからなのか。
直樹はにやりと笑うと、荷物を縁台に置いて自分も座った。
琴子もその隣におずおずと座り、意味もなくスカートの裾を直した。
「意味は」
「は?」
「勉強したんじゃないの」
「え、えーと。よく、わからなくて」
笑ってごまかすと、直樹は何も言わずに横を向いた。
あきれたのかと琴子が直樹の向いたほうを見ると、そこには無残な形の団子があった。
「あの、これは、その、ちょ、ちょちょっと失敗しちゃって」
慌てて団子を隠そうとしたが遅かった。
「ひでーな」
そう言って直樹は団子を一つを口に入れた。
「こんなにどろどろなのに粉っぽいって、これのどこがちょっとの失敗かよ」
そうは言いながらも団子を吐き出すこともせず、かえって琴子のほうがあたふたと気を使う羽目になった。
「い、入江くん、そのススキはあたしが川原まで行って切ってきたの」
「もちろんススキの意味も調べたんだよな」
「そ、それは…」
琴子が言葉を濁すと、あとは虫の音だけが庭に響いた。
月はいい具合に空に浮かび、黙って二人で空を見上げた。

「琴子ちゃーん、遅くなったけどご飯にしましょう」

「は、はーい」
琴子は少しばかり残念に思いながらも返事をした。
直樹はこれを幸いとばかりに立ち上がり、ススキを一本手に取った。
「入江くん、あのね、あの和歌、意味はわからないけど、ちょっと切ない感じで、あたしみたい?」
直樹は笑いを含ませたまま琴子を見やると、荷物を持ち上げた。
「あ、それ、どうするの」
「…魔除け」
「えー、どういう意味?!」
琴子の声は無視したようにそのまま歩いていく。

「琴子ちゃん」
後ろから紀子が声をかけた。
「あら、お兄ちゃん。もう、いるならいるって言ってくれればいいのに」
そう言ってから、はっとしたように口に手を当てた。
「あらあらそうなの。ごめんなさいね、琴子ちゃん。お兄ちゃんとの時間を邪魔しちゃったのね、あたしったら」
「い、いえ、そんな」
微かな風に揺れるススキを見てから、琴子はもう一度月を見上げた。

お月様、今宵の願いを叶えてくれてありがとう。
でも、できればこんな夜をまたもう一度お願いします。
それから、えーと、それから…。
一人暮らしの入江くんが、淋しくありませんように。
また、一緒に暮らせますように。


(2010/09/23)