運動会狂騒
晴れ渡った空に、万国旗がはためいている。
ここ高級住宅街と名の知れた場所でも地区運動会が開かれようとしていた。
普段私立の学校に通っている入江家の面々だったが、なぜか今年は地区運動会に参加していた。
近所ではあるが、さほど顔を合わせない人たちとの交流は新鮮で、一家の主婦である紀子も今は嫁となった琴子もうきうきしていた。
運動が不得意ではないがさほど得意でもないと自覚のある裕樹は、早々に理由をつけてその日は外出して不在。
参加を希望していたが都合により出席できない重樹。
当然店があるために参加できそうもない重雄。
呼び出しがなければという条件付きで参加の直樹と入江家での参戦はわずか三人だった。
紀子はそこら中に「うちの嫁なんです〜」と琴子を紹介して回った。
琴子も律儀に頭を下げて回り、直樹とともに今年一番の注目の的だった。
何せ直樹はその町内どころか地区の中でも相当の有名人であり、噂は聞けど実物を見たことのない人間も山ほどいたので、実際に動いて話す直樹を見て感動したものもいたとか。
親の命令やしがらみで仕方がなく参加していた小学生に、噂を聞きつけて今年に限っては参加している中学生や高校生(いずれも女子限定)は、当然浮き足立っている。
奥様ですらその姿を一目見ようと入江家が陣取っている場所の近くにやってくる始末だ。
琴子はその人気振りを見ながら「さすがねぇ…」とつぶやく。
直樹は我関せずといった具合で知らん振りを決め込み、どっかりと座っていた。
準備運動から始まった運動会はプログラムを進めていく。
「さあ、琴子ちゃん、出番よ!」
紀子に促されて張り切った様子の琴子は立ち上がって集合場所に駆けていく。
種目は男女混合障害物リレー。
平均台を渡り、網をくぐって次の走者にバトンを渡す。
男性のほうはハードルを飛び越して、麻袋に足を突っ込んで進んでバトンタッチ。
ただそれだけだったが、参加するメンバー自体が近所のおじさんおばさん、あるいは高校生以上の男女となれば、学生同士の学校の運動会よりも妙に盛り上がるのである。
何せ現役でない上に少々身体の変化もきたしているわけで、若い頃と同じようにはいかない。
網をくぐったと思っても引っかかり、麻袋で転び、順位は次々に入れ替わりながらバトンが渡っていく。
琴子は第五走者だったが、それまでにも順位は入れ替わりながらなんとトップでバトンが回ってきた。
「ひえ〜、ど、どうしよう」
思わずそうつぶやきながらとりあえず琴子は走りだした。
おじちゃんおばちゃんが参加する中、これまた若い琴子の参加にギャラリーは盛り上がる。
「こ、と、こ、ちゃ〜〜〜〜ん!」
いつの間にか用意したのか旗を振って、姑である紀子は応援している。
あれが噂の嫁とばかりに皆が注目しだした。
直樹はお茶を飲みながらのんびり見物していたが、網をくぐり始めた頃からどんどん無表情に。
それもそのはず、琴子の服の裾が網に引っかかって柔肌が見え始めた。
さすがに下着まではいかないが、そのいかないくらいの微妙な状態が見物人の心をつかんだらしい。
「お姉ちゃん、がんばれ〜」と声援まで出る始末。
琴子がいくら有名とはいえ、見物人全員が既婚者と知っているわけではないので、参加者の中でも特に若く見える琴子はどこかの娘だと思われても不思議はない。
しかもちらりとめくれ上がった服も相まって、直樹の周りの若旦那連中も注目している。
誰かが「もうちょっと」とつい声まで出たのを直樹は聞いた。
直樹はそれらの人々をちらりと見ながら、眉根を寄せた。
何とか網を潜り抜け、琴子の出番は終わった。
帰ってきた琴子は恥ずかしげに笑っているが、まさか自分の服がめくれ上がっていたことなど知りもしない様子だった。
一言注意をしようにも、琴子はまたもや呼ばれて行ってしまった。
今度は何だと直樹はプログラムをめくる。
二人三脚…。
琴子の相手は近所の誰からしいが、直樹は知らずうちに立ち上がっていた。
「あら、お兄ちゃん、どこ行くの?」
「…いや、別に」
「わかった、琴子ちゃんと二人三脚に出たいのね!
いいわ、いいわよ〜、早速出番を代わってもらいましょ。
ね、いいわよね、町内会長さん。
何たってこのお兄ちゃんは、琴子ちゃんと夫婦で息もぴったし間違いなしですもの。絶対1位よ!」
有無を言わさず紀子は変更を告げにいき、喜んだ琴子と一緒に直樹を集合場所まで引っ張っていった。
地区運動会はいきなり仕事でいなくなる人や体調不良などさまざまな理由で突然の変更も受付可能だったのが幸いした。
本来直樹は仕事の都合もあって何の登録もされていなかったが、話題の夫婦が出場となれば俄然盛り上がるので、誰も反対しない。
強いて言えば、琴子と組むはずだった若旦那ただ一人が残念がっていたが、直樹はその若旦那をひと睨みで退けると、さも嫌そうに琴子と出場することになったのだった。
「入江くん、一で右足よね?」
「…おまえの場合は左だろ」
「あ、そうか。一、二、一、二…あれ」
「もういい、おまえは何も考えるな」
「…はい」
いざ始まると、直樹に引っ張られるようにして二人はトップでゴールインした。
出るからには負けたくないという負けず嫌いが発揮されたのか、直樹は当然という顔で不遜に立っていた。
遠くで紀子の悲鳴が聞こえる。ついでに見物人の女性からも悲鳴が上がる。
町のテントでは紀子の隣でどこかの誰かが無理矢理ビデオを持たされている、と思いきや裕樹だった。
いつの間に呼ばれたのか定かではなかったが、恐らく紀子に逆らえなかったのだろう。
ため息をつきながら直樹は琴子とともに戻っていった。
いつの間にか昼を過ぎ、綱引き、スプーンレース、大玉ころがしなどの競技を経ていた。
直樹がトイレに立った隙に琴子は近所の人々に囲まれていた。
「いやー、こんな可愛らしい嫁さんがいたら家もにぎやかで楽しそうですよね」
「えー、そんなぁ」
「さぞかしだんなさんもメロメロでしょうねぇ」
「そ、そんな」
琴子は頬を染めて喜んでいる。しかもよく見れば周りは男ばかりだった。
「そーですのよぉ、もう、お兄ちゃんと琴子ちゃんはほんっと仲のいい夫婦で、そりゃもうお兄ちゃんときたら」
紀子が琴子に服をつんつんと引っ張られて振り返ると、呆れたように立っている直樹がいたが、紀子は構わず続けた。
「毎日、毎日そりゃ…」
「おふくろっ」
何を言い出すのかと琴子や裕樹を含め周りはどきどきしながら聞いていたが、直樹の一声で遮られてほっとしたような残念なような気分だった。
どっかりと琴子の隣に座って直樹は言った。
「…裕樹、大変だったな」
「…そうだよ。突然呼び出されて、来ないと来月のお小遣いなしだとか言うし。別になかったらそれでもいいんだけど、よく考えたら僕のいない場であれこれ言われるよりはと思ってさ」
このはしゃいだ紀子の様子を見ればそれが正解かもしれない。
直樹は嫌々ながらもついてきてよかったと心密かに思っていた。
直樹がやってきてもなおも琴子に話しかけようとする近所の旦那連中もいたが、やがて午後の競技も始まった。
「次は玉入れみたいだね」
プログラムを見ていた裕樹が言った。
どうやらこれにも琴子はメンバーに入ってるようだった。
集合を呼びかける放送を聞いて立ち上がりかけた琴子を制した。
選手になっているらしい周りの人々を見て直樹もゆっくりと立ち上がった。
「え、お兄ちゃん、出るの…?」
「おふくろ、琴子の代わりに出るから」
「あら、そう?じゃあ、選手の変更しておくわね」
深く考えずに紀子はそう言ったが、裕樹は不安げに直樹を見た。
「…お兄ちゃん、お手柔らかに…」
背中にそうつぶやいたのだった。
玉入れは男女混合で文字通りかごに玉を入れるだけだったが、無表情とも思える直樹の様子に男性陣は少しだけ異様な雰囲気を感じ取ったのか、ちらりと直樹を盗み見る。
一緒に参加の女性陣はさほど気にならないようだったが、男性陣は何かを察したのか怯えている。
あの二人三脚の様子からすると運動神経は恐らくいいのだろうと思われたので、どうせなら玉入れではなく最後の目玉の町対抗リレーにでも出ればいいのにと誰もが思っていたが、あえて口にはしなかった。
ピストルの音が鳴り響き、いざ玉入れは始まった。
玉をつかんだ直樹は一つ二つかごに投げ入れるが、これまた百発百中だった。
もちろん参加しているほうは皆必死で誰の玉が入ったなど見ていない。
「げふっ」
妙な声を発して一人の男性が腰を押さえた。
どこからか、誰かの投げた玉が腰に当たったようだったが、誰からかはわからない。
「ほげっ」
もう一人、他の男性が頭を抱えてうずくまった。
どこからか飛んできた玉が頭に当たったようだ。一応玉が柔らかいので大事はないようだ。
きょろきょろと見回すが、誰もが必死にかごに向かって投げている。
ただの偶然だとよれよれしながら競技を続ける。
大きなモーションではないが、直樹の玉はひょいひょいとかごに吸い込まれるように入っていく。
一回目の投げ入れが終わった。
結果的には直樹のいる町が一番だった。
すぐに二回目が始まった。
「あでっ」
またもや別の男性の背中に玉が当たった…。
遠く、町のテントでは裕樹が青ざめていた。
あまりの素早さに誰も目が追いついていないようだったが、確実に直樹の行動に怪しげなところがあるのを裕樹は見ていた。
腰に当たったのは先ほど琴子にでれでれと話しかけていた近所の人、頭に当たったのもきっと何か琴子に言ったか何かした人なのだろう(作者注:網くぐり時に「もうちょっと」と声を発したどこかの旦那)と裕樹は察した。
いつの間にか、直樹の町の男性陣は何かわからない殺気を背中に感じつつ競技をしていた。
振り向きたいが振り向けない。
振り向いたらやられる、とばかりにかごを見つめる。
人によっては既に痛手を負い、競技は滞りなく終了した。
同じ町の参加の男性陣は、ようやく終わったとばかりに安堵のため息をついた。
ただ一人、飄々としている直樹を除いて。
思わずちらりと直樹を見たがにっこり笑って返された。
「…何か?」
「い、いえ…」
「お疲れ様でしたね」
「は、はぁ…」
男性陣が初めて見た直樹の笑顔だった。
「入江く〜ん、病院から電話だよ〜」
町のテントから走ってきたらしい琴子が携帯電話を手渡した。
電話で短い会話を交わすと、直樹は「それじゃあ、お先に」と軽く挨拶をして当然のように琴子の手を握って帰っていった。
何故琴子まで一緒につれて帰るのか。
あの爽やかな笑みはいったいなんだったのか。
あっけにとられた町の人々と青ざめたままの裕樹とつまらなさそうな紀子を残し、直樹と琴子はさっさと帰っていった。
こうして玉入れの真相は永遠に闇に葬られたのだった…(多分)。
(2012/05/28)