噂8
2週間論争(前作『噂7』参照)もおさまった頃、大学の食堂で不意に品川真里奈が聞いた。
「ねえ、初夜のとき、入江さんから何か言われた?」
ガッチャン。
思わずフォークを取り落とした琴子。
幸いまだ皿の上にあった。
「な、な、な、な、な、な…」
顔を真っ赤にして口をパクパクさせる琴子を見て、真里奈は「あ〜あ」と首を振る。
「ということは、何か言われたのよね」
ランチを食べ終わり、上品に口を拭きながら智子が言った。
「まさか、我慢できなかったなんてこと、言われてないわよね」
さりげなく言った真里奈の言葉にまたもや動揺した琴子は、せっかく巻いたスパゲッティを崩してすする羽目に。
「え、やだ、そんなこと言ったの?入江さんが?!」
「ち、ち、違うと思う…」
「…なんだ」
「…けど、似たようなこと言ってた気が…」
「なんですってっ」
桔梗幹はトレーを片付けようとしたところで目をむいた。
「入江さんが…ねぇ」
3人はため息をついてつぶやいた。
幸い食堂に今日は池沢金之助もおらず、ざわついた食堂であまり話に注目するものはいなかった。
「あの入江さんが2週間も我慢できなかったっていうの?!この琴子相手に?!」
「そ、そんなこと言われたって、入江くんが言ったんだもん。それにあの時はいろいろあって新婚旅行の最終日だったし、結婚式まで入江くんとほとんど顔合わせなかったし」
「あんた、新婚旅行の最終日まで何やってたのよ」
あきれた様子で幹が言った。
「…やけ酒…?」
「うわ、最悪」
「だ、だって、あの麻里って女が」
「あんたって、どこ行っても女に邪魔されるのねぇ」
「だって、相手はあの入江さんだし」
「まぁね、隙あらば、誰だってお近づきになりたいわけだし」
「今だって別にあきらめたわけじゃないわよ」
「や、やめてよね!入江くんはあたしのなんだから!」
琴子がいきり立ったところで、さすがにざわめいた食堂とはいえ一瞬で静かになった。
そこへ入江直樹登場。
直樹は周りのざわめきには意を介さず、普通にランチを注文している。
「入江さんが我慢できなかったのって、実はあんたの酒癖だったんじゃないの?」
「そう…だったのかな」
遠巻きに4人はランチを受け取ろうとしている直樹を見る。
「で、本当は何て言われたのよ」
ぶほっ。
再びスパゲッティを口に入れたところで真里奈が聞いた。
琴子は無言で首を振る。
それは言いたくないのか、覚えていないのか。
急いで口の中の物を飲み込むと、大きな声で言った。
「入江くん、こっち!」
もちろん琴子が呼ばなくても来ただろうが、呼ばれて仕方がなしに来たという風に装う。
「真里奈さん」
「げ、船津…さん」
その後ろにはちゃっかり船津がいたが、誰一人その存在に気がついていなかった。
その一声で気がついたようなものだ。
「琴子ったら初夜に言われたこと覚えてないらしいですよ。どう思います?」
いきなりそう切り出した幹には目を向けず、黙って直樹は琴子を見やった。
琴子はひたすら下を向いて最後の大口を開ける。
「僕なら素晴らしい言葉を暗記して真里奈さんに捧げますよ」
いったい何を暗記する気だ…。
船津の言葉に一同は冷たい目線で応える。
「どう思うも何も、普通の男なら普通に思うこと言ったまでだけど」
普通の男なら…。
普通じゃない男に言われても全然説得力がないわ。
と誰もが思ったが、そんなこと直樹は気にしていない。
「ああ、ばかやろうとは言ったかな」
…なんでばかやろう??
いや、琴子はバカだけど、初夜にばかやろうって?
周りの人間の疑問を煙に巻くように、直樹はそのまま黙々とランチを口に運ぶ。
「も、もういいじゃない」
琴子が耐えかねたように、食べ終わった皿を載せたトレーを持って立ち上がる。
「そうだな。俺が言った言葉よりも新婚初夜にふさわしい言葉があるなら聞くけど?」
一同動きが止まる。
直樹に話をふった幹は、背中に冷たいものを感じた。
船津からの視線を避けるように思わず直樹を見た真里奈は、この空気をものともせずランチを口に運ぶ直樹をやっぱり只者じゃないと思った。
船津は自分の頭の中で真里奈へ送る言葉を検索していた。
やはりここは先日読んだヘリコバクター・ピロリの研究に貢献したウォーレンとマーシャルのように不屈の闘志で…(以下略)。
智子は、直樹の食べているランチのハンバーグを切る仕草に心奪われていた。
琴子は真っ赤な顔で直樹を見つめていた。初夜の日をプレイバックしたと思われた。
それまで騒がしかった昼の食堂は、一瞬にして静まり返った。
みんな聞いていないようで聞いているものである。
かくして、それまでの噂とあいまって、新婚初夜に(直樹に)言われたい言葉名言集斗南大学バージョンができたらしい。
その中に正解があったのかどうか、当の二人は一切コメントしなかったという。
噂8(2008/07/27)−Fin−