雪に想う



窓の外を見る余裕はなかった。
勤務が終わってふと外を見れば、窓の外はいつの間にか一面の雪景色だった。
ここ神戸にも年に何回も降らない雪が積もると天気予報では聞いたはずだったが、忙しさのあまりそれがいつのことだったのか忘れかけていたのだ。
「電車が止まらないうちに帰ってくださいね」
医局に向かって歩いていると、ナースステーションの方から婦長が他の看護婦に促す声が聞こえた。
「わー、明日車は無理やわー」
そんな声も聞こえる。
その時直樹が考えたのは、東京でも雪になるだろうか、ということだった。
自分がいま住んでいるのは病院にもほど近い借り上げのマンションで、万が一電車が止まろうと歩いて行ける距離だ。
そもそも東京ではほとんど歩きか電車で、車で移動というのは少ない。電車が止まれば皆同じように動けずに立ち往生だ。
駅には人があふれ、黙々と歩きだす人々。チェーンを巻いたタクシーが来ないかとタクシー乗り場にも人が並び、バス乗り場に来ないバスを待つ人々が想像できる。
学生の時、帰れなくなった琴子を一人暮らししていたマンションに泊めたことがあったなと思い出した。
「入江先生、なんやうれしそうですね」
通りがかった同じ研修医にそう声をかけられた。
「雪が好きですか」
「いえ、特には」
「その割にはええ顔してはった」
「そうですか。妻を思い出したので」
「うわー、こんな時にノロケでっか」
そうからかいながら研修医は歩き去っていく。
「ああ、はい、ごっそうさん。雪に埋もれてまえ」
これには直樹も声を出さずに笑った。
窓の外はただゆっくりと確実に雪が降り積もっていく。
白く、冷たい。
温度を感じさせない建物の中で、直樹は窓の外をぼんやりと眺めた。

 * * *

「あー、兵庫県も雪だって」
テレビ天気予報を見ながら琴子が言った。
それを言ったからといって、誰かが応えてくれるわけではない。今は部屋に一人だ。
関東は明日の夜から雪が降るかもしれません、と続けて天気予報は告げる。
琴子の場合、明日学校へ行くのは急がなくてもいい。
それよりも大変なのは週末に行われるセンター試験だろう。
この分では明後日からのセンター試験の朝、雪で受験生は大変かもしれない。
琴子は直樹が受けたセンター試験のことを思い出した。
「あの時は、大変だったなぁ(入江くんが)」
何よりも苦労したのは琴子ではない。
御守りに阻まれて電車を乗り過ごし、御守りを拾おうと階段から落ち(受験生なのに!)風邪薬で試験中に眠気に襲われたのだ。
「それでもトップだったんだから、さすが入江くんよねぇ」
思い出しながら、あの頃の気持ちも思い出してしまう。
毎年センター試験はやってくる。
そのたびに少々後ろめたい思いをしながらやり過ごすのだ。
あの時は大変だったわね、と家族にも話をふられるとただただ肩をすくめるしかない。
あの頃の気持ちと一緒に懐かしく思い起こされる。
琴子はまだ降ってもいない窓の外をカーテンをめくって眺めた。
もしもセンター試験で雪が降ったなら、雪で大変だったと思い出に残ることだろう。
「もう今頃は、神戸も雪、かなぁ」
口に出してみると一層寂しい。
直樹がいない夜は、こんな寒い夜に実感する。
広いベッドに一人、布団と毛布にくるまって一人で暖めなくてはいけない。
そう言えば入江くん、体温高かったっけと琴子はまた思い出す。
冬場は直樹にくっついて寝るとそれだけで暖かい。
夏場はくっつくのを嫌がるのはそういうことだろう。男の人はたいてい体感温度が女よりも高い。それでも寝室のクーラーは琴子に配慮してくれていた、と。
「こっちでも積もったら」
積もっても、どうということはない。
子どもの頃のようにはしゃいで雪だるまを作ってみようか。
いや、高校生の裕樹ですら雪だるまづくりにも雪合戦にも付き合ってくれないだろう。
「あ〜あ、入江くん、何してるかなぁ」
東京の外にはまだ雪はない。
それでも、見えぬ雪が舞っているように琴子には見えた。
こんな寒い夜には、自分を思い出してほしい、と思わずにはいられない。
雪で帰れなくなったあの夜の気持ちも。
どんなふうに思っていたんだろうと何度か問いかけてみたが、いまだ答えはない。

「ただいまぁ」

陽気な声が玄関から響いてきた。
出かけていた紀子と裕樹が帰ってきたようだ。
「おかえりなさぁい」
琴子は気持ちを切り替えて玄関に出迎えに行った。

 * * *

外に出ると、すでに雪は足元で踏みしめられるほどだった。
一足一足慎重に歩きながら、白い息を弾ませる。
雪は次第に激しさを増しているようだ。
雪は音を吸収し、辺りは静かすぎるくらいだ。
直樹はもうすぐ見えるはずのマンションを見上げる。
雪が襲い掛かるように降っているのがわかる。
ようやく着いたマンションの入口で雪を払い落とし、冷えた身体を一刻も早く温めるために部屋に入った。
電気をつけるより前に留守番電話のメッセージボタンが光っているのわかる。
電気をつけ、メッセージボタンを押して溶けた雪で濡れたコートを脱ぎかけたが。

『もしもし、入江くん?もう雪降ってる?こっちはね、明日の夜くらいからだって。寒そうだよね。でもね、雪が降った朝って、あたし好きなんだ。しんとして、この世に自分たちだけみたいな気がしない?あ、今入江くんいないんだけどね。そりゃ入江くんがいたらいいなって思うけど。センター試験も雪だと大変そうだよね。あ、自分から言っちゃった。入江くんが大変だったこと、忘れてないよ。反省もしたし。それから、泊めてもらった時のこともね。あの時もすごく降ったよね。それにあたし、あの時…』

とりとめのないメッセージを聞いているうちに、自分の手が止まっていることに気が付いた。
一刻も早く温まりたいと思っていたはずなのに、まだ暖房器具のスイッチも入れていない自分に気が付く。
一通りメッセージを聞き終わってから、ようやく血が巡ったような気がしていた。
琴子がいなければ、この世は雪の日のように静かで冷たい。
こんな夜には、あの温かい身体をベッドの中で抱き締めて眠りたい。
それも叶わない夜は、シャワーでも浴びてさっさと寝てしまおう。
シャワーの温もりで誤魔化されているうちに。

(2017/01/30)