私は駅からの道を学校に向かって歩いていた。
それというのも駅からのバスに乗り遅れたからだ。
街路樹はまぶしい新緑の葉を広げ、風に揺れている。
あたしは一人バス線路沿いに歩いていた。
周りにはほとんど人はいない。
住宅街にぽつんとあるはずの高校は、思ったよりも交通に不便で自転車通学の者のほうが多い。
家の事情で引っ越すことになり、慌てて編入試験を受けたのが3月。
幸い受かったけれど、せっかく勉強して入った高校には一年しか通えなかった。
普通こういう場合父の方が単身赴任でもして、子供の環境に配慮してもいいはずなんだけれど。
母の反対でそれは叶わなかった。
もちろん親子が一緒にいるというのは重要かもしれない。
それでも、結局父は忙しくていつも家にいない人で、逆に家にいると落ち着かなくて家族が気を使うくらいなのだ。
要は、私は高校を変わりたくなかっただけ、と言うのが本音なのだけれど。
それなりにこちらでも普通に話すクラスメートとかはできた。
まだ、馴染めないだけ。
しかも、急に編入を受け入れてくれる高校はそれほどなくて、選ぶ間もなく自宅から少し離れた高校に通うことになった。
今までの高校は駅の沿線沿いだったから、あまり歩くこともなく高校にはたどり着けた。
今度は駅からさらにバスを乗り継がないとたどり着けない。
不満と言えばただそれだけ。
高校の雰囲気も先生も悪くはない。
それでも、こんなに足が向かないのは、さすがの私も五月病、と言うところだろうか。
街路樹を見上げて少し考える。
どうして私はバスを待たずに歩き出してしまったのだろう。
通学時間を過ぎると激減するバスの本数を見て驚いたのは確かだった。
これでは遅刻できないな、と思って通学しだしたのだけれど、実際に遅刻すると不便で仕方がない。
腕時計を見る。
高校の入学祝いに父が買ってくれた時計。高級ではないけれど、一応名の通ったメーカー製のいかついフォルム。
もう少しかわいらしいデザインのを選んでおけばよかったかもしれない。
いまさらそう思う。
時計はすでに9時を回っている。
授業の始まり。
今日遅刻したのは、さほどの理由はない。
ただいつものように歩いて駅まで行き、つい人ごみにうんざりして電車をやり過ごし、バスに乗り遅れたせいだ。
いつもだったら必死に乗り込む電車も、今日はその気がなかった。
バスに乗り込もうにも、あと30分は来なかった。
歩いた方が確実に早く着く。
そう思ってぷらぷらと歩き出した。
ところがこの1ヶ月、何も構わずにバスに乗っていたせいか、確かどこかで曲がるはずの場所を見失ってしまった。
多分、この辺と曲がったのはいいけれど、確かに同じ街路樹のその通りは、どうやら1本違ったようだ。
戻ればいい。
それほど難しい道ではないのだから。
でも。
5月の新緑の下で、私は道に迷っていた。
* * *
なんとなく後ろめたくて、街路樹のある大通りを避けるようにわき道に入った。
もう、なんだか今日はとことん遅刻してもいい気がしてきた。
多分そういう気分のときは何をやってもうまく行かない気がする。
どんどん迷子になって、本当に帰れなくなると困るので、わき道からはあまり曲がることなく歩いた。
古い住宅と新しい住宅が入り混じった通りだった。
小さな公園とかコンビニとかあればまだましだったのに、何もない。
途方にくれた私の目の前を着物姿の女の人が通り過ぎた。
涼やかな薄い水色の着物。
その人は少し先のガラス扉を開けて入っていった。
ドアに取り付けられた何かがカランと軽く鳴った。
私は十分時間を置いてからその場所に近づいた。
古いガラス扉の横には小さなショーウインドー。
その中に飾ってあったのは、いくつかの写真。
それも古いセピア色の白黒で、写っている人も少し懐かしい感じ。
きりっとまとめられた髪の女の人。
軍服らしいものを着て写っている男の人。
小さな子どもの写真。
ガラス扉には「斎藤写眞館」。
それもその字もちょっと読みにくい。
多分今は使われないその字は、さらに右から書かれていて読みにくい。
しばらくその写真を眺めていた。
今は営業していないだろうその写真館に飾ってある写真には、どんな思い出があるのだろう。
この女の人と男の人、子供はそれぞれ関係がないのだろうか、とか。
しばらく無言で眺めていたら、カランと音が鳴ってドアが開いた。
驚いて飛びのく。
鞄を抱え、ドアを見つめる女子高生は、傍目に凄く怪しい。
しかもこの時間、とっくに学校の授業は始まっている。
逃げるべきかと一瞬考えた。
後ずさりした私に構わず、その人は言った。
「その写真、気に入ってくれたの?」
柔らかく微笑んだその人は、顔に柔和なシワを重ねた女の人だった。
どちらかというとおばあさん。
多分私のおばあちゃんと同じくらいの歳だろう。
声をかけてくれたのに、うまく声が出なかった。
本当は警戒するべきだろうか。
それでも、私は返事をするほうを選んだ。
「…はい」
小さな声でそう言うと、その人はうれしそうに笑った。
「よかったら、お茶でもいかが?」
その言葉に誘われたのは、ただの気まぐれ。
もちろん声をかけてくれたのが上品そうなおばあさんでなければ断っていただろう。
それから、その写真館の中への興味。
いまだ写真館なんて入った覚えがない。
小さな頃は入ったのだろうけど、うちでは家族そろって写真をとるような習慣もなかったので、物心ついてからは覚えがない。
中に入ると、なんだか懐かしいにおいがした。
必要以上にきょろきょろしながら、あたしは挙動不審の女子高生そのものだ。
「写真館は、初めて?」
「はい、え…と、小さな頃のことは覚えていないので」
「そう。うちも今はやっていないのだけれど、機材だけはまだ残っていて」
それでもその機材にほこりはかぶっていない。
きっと大事にしているんだろう。
そっと出されたお茶を飲みながら、私は聞いてみた。
「表の写真は、どなたですか」
おばあさんは微笑んだ。
「若い頃の主人と私。それから息子」
ああ、やっぱり。
なんとなくそんな感じがしたけれど、写真が古すぎて今のおばあさんの面影を想像するしかなかったから。
「自分たちの写真を飾っておくなんて、きっとおかしなおばあさんだと思うでしょう」
「いえ、そんなことは」
むしろ、この写真館の雰囲気にあってる気がする。
「あなた、時間はあるのかしら?」
そう言ったおばあさんの言葉に、私は思わずうなずいていた。
学校があるというのに。
(2007/05/26)
To be continued.