デート前夜





不意に入江くんに呼ばれて、思わず返事をしたら、つい「入江くん」と答えていた。
だ、だめだなぁ。
でも、明日のデートのためだもん。
そう思っていたけど、夕食時、お義母さんたちの前でどうしても呼べなくて、つい「あの」とか、「ねえ」とかで呼びかけてしまった。
そうしたら、入江くんはわざと聞こえない振りをしたり、答えてくれなかったりしたのだ。
お母さんはそんなあたしたちの様子に気がついて、またけんかしたんじゃないかと心配してくれた。
慌ててあたしがわけを話すと、またビデオを撮りたいと立ち上がりかけた。
入江くんのにらみでどうにかやめてくれたけど。
裕樹は「お前なんか一生かかっても無理だ」みたいなことを言った。
裕樹!と簡単に呼び捨てできるのに、どうして入江くんにはできないのかな。
入江くんは、どうしてあたしのこと呼び捨てにできるのかな。
あたしの中では、入江くんは、入江くん。
子どもとか出来たら、名前で呼ばなきゃだめかな。
あ、やだ、子どもだなんて。
入江くんの子ども、かわいいだろうなぁ。


 * * *


「お兄ちゃん、またなんか考えてるよ」
「…放っておけ」

どうせ、俺が呼び捨てにしてる理由だとか、またいらない心配してるんだろう。
風呂の後、書斎にお茶を持ってきたとき、またもや失敗した。

「はい、お茶持ってきたよ、いり…。な、な、な、…。きゃっ」

言い方のほうに集中して、琴子はお茶をこぼした。

「お、お前はっ。やけどするだろっ」
「ご、ごめんなさい。すぐに新しいの持ってくるから」
「もう、いい。書類にまでこぼしそうだ」
「ごめんなさぁい…」

俺はため息をついて、琴子の手を見た。
やけどしたか?

「手、見せろよ」
「へ?」
「手、少しかかっただろ、お茶」
「あ…、だ、大丈夫」
「冷やしてこいよ。薬塗ってやるから」
「え…。う、うん」

琴子は書斎を出て行った。
ったく、仕方がないやつだな…。
俺はこぼれたお茶をふき取ると、薬を用意しに立ち上がった。


 * * *


…また失敗した。
名前を呼ぼうとして呼べなくて、お茶をこぼしてしまった。
入江くんは怒っていたにもかかわらず、あたしの手を心配してくれた。
心の中でさえ、どうしても呼べないのに、どうしたら呼べるんだろう。
入江くんが寝てしまうまであともう少し、どうしても呼ばなくては。
だって、明日のデート、行きたいんだもん。
今回は何も計画はないけど(入江くんが怒るから)、ほんの少しの時間、あたしのために使ってほしい。
たとえ、一日中じゃなくたっていい。1時間でもいいの。
それが、あたしの願い。
水で手を冷やしながら、思いついた。
そうだ。おやすみ、直樹、なんてどうかしら。
これなら、言ってすぐに寝てしまえば、照れくさくっても言える。
入江くんがからかう間もないくらいに、さっと言って、寝てしまおう。
約束は約束だから、入江くんはきっと明日どこかへ付き合ってくれるに違いない。
うん、そうしよう。
あたしは十分に冷やした手を拭いて、2階へと戻った。
あ、お茶もそのままだった。落とした湯のみも。
じゅうたん、しみになっちゃうかも。
急いで書斎に戻ると、こぼしたお茶も湯飲みも片付けられていた。
片付けてくれたはずの入江くんもいない。
あ、そうか。救急箱持ってきてくれるんだ。
あたしはとりあえず寝室に行って、先ほど計画した言葉を用意することにした。
本当は書斎で勉強している入江くんの背中に向かってさりげなく言うつもりだったのに。
入江くんがいないんじゃ仕方がないから、ここは予定変更で、言ってすぐにベッドに潜り込んでしまおう。
寝室に行くと、すでに入江くんが薬を持って待機していた。
ちょっとそれで何も言えなくなりそうだった。
入江くんがあたしを怪我のためとはいえ、待っててくれるなんて。
しかも、丁寧にやけどのあとを処置してくれる。
冷やしたので赤みはほとんどなくなっていた。
ぼんやりと見つめすぎて、言うべきせりふを忘れた。

「もう、寝ろ。湯飲みはいいから」
「う、うん。ありがとう、入江くん」

途端に入江くんはプッと吹きだした。

「お前、デート行きたくないの?」
「…行きたい。行きたいよ!」
「全然名前、呼ばねーのな」
「だ、だって」
「ま、さっき聞いたし。行ってやってもいいけど?」
「ほ、ほんと??」

どうしたんだろう、入江くん、妙に優しい。
でも、「さっき」って?
あー、でも、デートしてくれるんだ、うれしい。

「うれしい!うれしい!」
「変なプラン、立てるなよ」
「大丈夫、服買いに行くだけだもん」
「ぜひそうしてくれ」
「ありがとう…、な、なおき」

い、言えた!
あたしは精一杯がんばって、入江くんの優しさに答えてみた。
くすぐったいような、変な気分。
でも、なんだか幸せな気分。

「ほんと、お前って、あきねぇな」
「何?あきないよ。誰のこと?」
「いや、いい」
「じゃあ、あたし、寝るね」
「うん?ああ」
「おやすみ、入江くん」

そう言うと、入江くんはなぜか爆笑した。
きっと、あたしの言うことなんてお見通しだったんだろう。
いいもん、明日デートさえできれば。
あたしは幸せな気分でベッドにもぐった。


 * * *


寝室へ行き、薬箱を持ってベッドへ行く。
ちょっと油断すると、すぐにこれだ。
琴子は俺が寝室で待っていたことに驚いている。
…薬箱は寝室の続きにあるだろ。忘れてるのか?
水で冷やしてきたらしい琴子の右手は、赤みが消えた代わりに少しひんやりとしていた。
たいしたことはないから、ここまで大げさにしなくてもいいかもしれない。
だがこいつは、きっとやけどしたことを忘れて無理をするので、これくらいでちょうどいい。
…さすがに味噌味噌と騒がなくなったな。
ほんと、あの時は、片足全体にお茶をぶっかけやがって…。
正直、あの時苦しかったこと、こいつには話していない。
何で俺が黙ってやけどの手当てをしたのか、わかってるんだろうか。
もう寝るように言うと、返ってきた言葉は「ありがとう、入江くん」だった。
…バカだな、こいつ。
結局寝る前まで言えないみたいだ。
俺はそのバカさ加減がこいつらしくて、ついデートに行ってやってもいいと思った。
別に本当に名前で呼んでほしくて言ったわけじゃない事、わかってるんだろうか。
時々、琴子の考えていることがわからないことがある。
まあ、そういう時はろくなことを考えていないという結論に達したけどね。
デートを承諾すると、飛び跳ねんばかりに喜んでいる。
何でそんなに出かけたいかな、女ってやつは。こればっかりは、よくわかんねぇ。
薬箱を片付けようと立ち上がったら、不意打ちを食らった。

「ありがとう…、な、なおき」

少し尻すぼみの小さな声で、確かにそう言った。
妙に新鮮な響き。…たまにはいいかもしれない。
ゆでだこの様になりながら、必死で言った感じだ。
この間も無理に言わせたのに、何で慣れないんだろう。
ああ、忘れてるかもな、こいつのことだから。
ほんと、こいつって、予想外のことをしてくれる。

「じゃあ、あたし寝るね」
「うん?ああ」
「おやすみ、入江くん」

普通にそう返した。
きっと無意識なんだろう。
俺はおかしくなって笑った。
まったく…。
俺をここまで笑わせる女ってのも、もしかしたら琴子だけかもしれないな。

デート前夜 −Fin− (2004.9.29)





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