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Side 直樹
西垣医師が知っていて俺が知らないと言うのが不快だった。
桔梗がその気になるわけがないことはわかっていた。
多分琴子が何かやらかしているんだろうと走った。
走りながら、先ほどまで忘れていたことに気がついた。
今日は結婚記念日だった。
確か手術室に入るまでは覚えていた。
桔梗からの電話のときにも
桔梗と出かけて何かトラブルがあったに違いないと決め付けたが、俺がここまでして走る理由は多分何もない。
その日にわざわざ琴子が出かける理由、そんなものは決まってる。俺に内緒で何かを計画してるときだけだ。
それでも、俺は店を目指して走った。
呼び込みの増えた通りを走りながら、バカみたいに息を切らして。
店に入ると琴子は俺が来たのがさも意外で、困ったように驚いて見せた。
走ってのどが渇いたのでビールを注文した。
これから賭けが始まるという。
案の定無謀なやつ。
琴子の意地をかけているという。
どんな意地だよ、全く。
おまけに俺とのデートまで勝手に賭けている。
そりゃ負けるわけにいかないよな。
俺は出してもらったビールを飲みながら、横目で賭けの行方を見守った。
おそらくその賭けを桔梗は止めてほしかったに違いない。
止めてどうする?
琴子がわざわざ結婚記念日にここまで来て、賭けをしてでも手に入れたいものがあるというのだから、止めたって仕方がないだろ。
それに、これまでのイライラの分、どんなに素晴らしい計画か披露してもらおうじゃないか。
コイントスで賭けをするという。
場合によっては女の思う壺じゃないか?
琴子は投げられたコインの行く末をじっと見つめていた。
裏だか表だか、ごちゃごちゃと迷っている。
そして、琴子は俺を振り返った。
俺だってこの距離で見極めるほどそんな動体視力持ってねーよ。
どっちだと思う?と聞くのかと思ったが、そうではなかった。
「裏にする。うん、やっぱり裏」
ただ単にデートさせないようにと自分に気合でも入れたのか?
「あら」
隣で桔梗が歯軋りする。
「ちょっと、早く言いなさいよ」
そうつぶやくのが聞こえた。
派手な格好のやつが開いた手の甲には、見事裏になったコイン。
「や、やったーーー!!やったよ、入江くん!!」
この静かなバーで大声を上げて飛び跳ねている。
迷惑だろと顔をしかめかけて周りを見渡すと、周りの客も大げさにため息をついたり喜んだり。
俺は苦笑する。
本当にいつも周りを巻き込むやつだな。
「ふー、仕方がないわね。約束どおりただであげるわよ。でも、ひとつだけお願い。ここで開けてもいいかしら?その極上の味でお祝いしてあげる」
そう言ってマスターが取り出したのは、1993年のワイン。
ああ、結婚した年のものか。
それなら、どうしてこんな苦労してるんだ?
俺の疑問はすぐに解けた。
「ほら、入江くんが飲みたがっていたやつだよ」
…正直、そんなことを言った覚えもなかったし、そんなことを考えたこともなかった。
「この間ずっとそのワインが載っているページ見てたでしょ?」
にこにこして琴子が言った。
俺は耐え切れず一人笑う。
同じページの違うところを見ていたなんて言ったら、こいつはどんな顔をするだろう。
ワインとは別の、ブルゴーニュの話を。
今までイライラさせられた分、俺は意地悪な気分になった。
ワインを開けて、気前よく皆のグラスに注いで、乾杯を交わして一口飲んだ後で琴子にささやいた。
「あれ、おまえは酒癖悪いからって、よそで飲まないんじゃなかったっけ?」
「………え?」
ワイングラスを持った手が口に運ぶ途中で止まった。
ぎこちなく俺を見る。
目は飲みたいと訴えている。
「まさか結婚記念日だからと言って、前に散々迷惑かけたこと、反故にする気じゃないよな」
「え…、そ…、あたし…、だって…」
…ホント、バカなやつ。
「後で味見させてやるよ」
「ほんと?」
その笑顔に免じて、とりあえず今日のことについては黙っていてやるよ。
そのかわりどんな味見かは、今は言わないでおくか。
Side 琴子
賭けに勝ってほっとした。
ほっとしたら、力が抜けた。
倫子さんはあらかじめマスターに預けてあったのよと笑った。
マスターはどうぞと神妙に入江くんに渡してくれた。
入江くんはワインを開けて確かめている。
結婚記念日おめでとうと皆が祝ってくれた。
入江くんはワインをじっと見て笑い、何か言いたそうだったけど。
乾杯したグラスを口に運ぼうとしたとき入江くんが言った。
「まさか結婚記念日だからと言って、前に散々迷惑かけたこと、反故にする気じゃないよな」
「え…、そ…、あたし…、だって…」
だって、こんなに苦労したのに。
ひ、一口も飲めないの?
それに、今日はあたしたちの結婚記念日でしょ?
「後で味見させてやるよ」
そんな風に言ったので、きっと後で持って帰って飲ませてくれるんだと思ったら、皆で分けたらあっという間にワインはなくなってしまった。
…あ、味見は…?
「あた…あたしの分…」
空になったグラスを見つめて、たっぷり飲んだらしい倫子さんとモトちゃんに詰め寄った。
入江くんはあたしの隣に座って、今気づいたように言った。
「ああ、味見だったな」
そう言ってあたしの頭を片手で抱えてキスをした。
ワインの香り漂うそのキスは、確かに味見した気分。
何も言えずそのままボーっとした。
「あー、やだやだ。もう帰ろうかしら」
モ、モトちゃん?
「まあ、見せつけてくれちゃって。いやあねぇ。飲みなおそうっと」
倫子さんはそう言ってあたしにウインクをして、店の奥へ。
他の常連だと思われる人たちと話し始めた。
「ところでおまえ、賭けに負けたらどうするつもりだったんだ?」
えーと、負けたときのことはあまり考えていなかったというか。
きっと入江くんデートしなかったと思うし。
「俺は男とデートする趣味はないからな」
「そ、そうだよね」
あれ?
………男?
「琴子、気づいてなかったんでしょ」
「り、倫子さんが男?!」
「おかまちゃんよ」
「えーーーーー!!」
あたしは倫子さんを振り返った。
あたしよりも女らしい倫子さんは、あたしの視線に気づいてきれいにウインクをして見せた。
勝ってよかった。
て言うか、あんな人が男だなんて世の中間違ってる。
「入江くん、ちょっと予定と違っちゃったけど、結婚記念日が一緒に祝えてよかったね」
「…まあな」
酒場のざわめきをよそに、あたしはもう一度入江くんに寄り添う。
良かった、入江くんが来てくれて。
西垣先生に感謝しなくっちゃ。
「…そう言えば西垣先生は?」
「…さあな」
そう言ってもう一度口づける。
グラスの底に光るワイン、シャトー・ル・パンの香りとともに。
Side 幹
すっかり琴子たちに当てられたあたしは、さっさと帰ることにした。
すでに外は夜の顔。
まあ、あの夫婦のバカップルぶりは今に始まったことじゃない。
多分西垣先生は、夜の呼び出しを一手に引き受けているに違いない。
それは半分あたしのせいだけど。
ま、あれくらいでまいるような人じゃないと思うので、いいわよね。
あたしはそう考えていた。
「誰か介助についてくれないか。…ああ、桔梗、頼む」
「…えっ。は、はい」
め、珍しいわね、入江さんが指名だなんて。
何だか不吉じゃなくて?
どきどきしながら介助につくと、
「桔梗、そこ、支えててくれ」
と入江さんに指示されたのは、足の処置。
むさくるしい足をずっと持たされること30分。
腰も腕も痛いのよっ。
もしかして入江さんのいじめかしら。
そう思って様子を伺うと、
「ああ、悪かったな」
なんて言われてしまったので、つい、
「いいえ〜、入江先生の介助なら喜んで〜」
なんて答えてしまったのよ。
それからというもの…。
「桔梗、これやっといてくれないか」
「桔梗、これ届けてくれないか」
…確かに入江さん直々の依頼となれば、あたしだってうれしいわよ。
うれしいけど、何でこうも面倒な仕事が多いのかしら。
おまけにあたしを指名してくれるものだから、
他の看護師の風当たりが強いったら。
琴子まで「モトちゃんばっかり!」とすねている。
…いじめ?これって、やっぱりいじめ?
あたしは入江さんを振り返った。
「あ、桔梗、ひとっ走り、これを検査室に」
そう言って渡された緊急検査依頼。
あたしは引きつりながらも笑顔で受けた。
いじめよね?やっぱり根に持ってるわよね?
そう問い返したいのをぐっとこらえて、あたしは検査室へ走ることにした。
入江さんがにやっと笑った。
あたしにだけ聞こえる声で。
「あの代償がこれくらいなら、かわいいもんだろ」
もう、入江さんをからかうのは絶対にやめるとあたしはそう決心した。
ええ、もう、絶対にね。
Friend or lover−Fin−(2007/02/28)