Start in my life



二周年記念企画:ともはるさまリクエスト



琴子 1

よかった。よく晴れてる。
あたしは窓から外を見上げて背伸びをした。
入江くんはとっくに起きている。
入江くんと一緒に大学に行けるのも、きっと今日が最後。
それなのにあたし、まだ目が腫れてる。
毎日ベッドの中でこっそり泣いていた。
今日、ちゃんと入江くんに言おう。
そう、決めた。

下へ降りていくと、入江くんはもう着替えて準備をしている。
早めに行って教授陣に挨拶をするんだって。
あの入江くんの神戸行きの話から、あたしたちは言葉少なに波風を立てないように過ごしていた。
夜に聞いた話は、そっと胸にしまっている。
入江くんがあたしを想っていてくれていることがちゃんとわかったから。

「じゃあ、先に行く」

入江くんが新聞を置いて立ち上がった。
あたしが起きるのを待っていたかのように。
あたしは今できる精一杯普通の顔で言った。

「行ってらっしゃい。あたしも後からお義母さんたちと一緒に行くね」

入江くんはうなずいて玄関を出て行った。
パタン…と玄関のドアが静かに閉まった。


直樹 1

玄関のドアが後ろで静かに閉まった。
少しだけドアを眺める。
ドアの向こうの琴子の顔を少しだけ思い出す。
泣きたいのに泣けない顔。
一つため息をついてから空を見上げる。
澄んだ空はやけに気持ちがいいのに、
俺は胸いっぱいそれを吸い込めない。
吸ったそばからため息と共に吐き出してしまう。

今日くらい一緒に大学へ行くべきだったか。
そんなことを思う。
一人歩きながら空いている隣を気にしている。
確かに世話になった教授に挨拶は必要だが、こんなに早く出て行く必要はない。
琴子と離れること。
実は俺が一番つらいんじゃないかと気づいた。
そう気づいてから、決心がつかない。
神戸へ行くことには決めた。
決められないのは、一人で行くこと。
こんなにどうしようもない時期になってもまだ決められない。
一昨日相原の父に相談したことは、まだ考えている。
もう一度話すしかないか…。
ぼんやりと歩いているうちに駅に着いた。


琴子 2

入江くんは他の卒業生と一緒に並んで行ってしまった。
あたしが声をかける暇もないくらい。
やがて卒業式の会場へと人は流れ、あたしも移動することにした。
モトちゃんたちの姿もあったけど、遠巻きにあたしの様子を見ただけで、手を振って向こうに行ってしまった。

卒業式は進み、やがて入江くんの答辞が始まった。
入江くんはもちろんそつなく答辞を読んでいく。
あたしはぼんやりとその姿を見ながら思い出していた。
あの入江くんが、本当に一所懸命勉強していたこと。
医者になりたいと打ち明けてくれた日のこと。
一度はその夢をあきらめなければならなかったこと。
あたしはいつだって入江くんしか見ていなかった。
でも思ってたことは同じ。
入江くんが好き。
バカの一つ覚えみたいに、いっつも入江くんが好き。
昔も今もそれだけは変わんない。
でもそれだけで入江くんを縛りたくはない。
入江くんが自分で決めたことだから。

入江くんの答辞に、皆が泣いていた。
お義母さんもビデオを抱えながら泣いていた。
お義父さんもきっととても思い出深い卒業式だったと思う。
あたしはそっと会場を抜け出して、
誰もいない校舎を巡った。
理工学部。
テニス部の部室。
学食。
そして医学部。
講義室の中に入って、あたしは目を閉じた。
今でもはっきり目に映るのに、
もう大学生としての入江くんは見られないんだね。
入江くん…。


直樹 2

卒業式が終わったその足で、俺は琴子の姿を探した。
卒業生同士が肩を抱き合って別れを惜しんでいる。
俺はその間をすり抜けて会場の外を目指した。
保護者席にはおふくろとおやじの姿はあったが、琴子の姿はなかった。
声をかけてくるやつらに目もくれず、人の波とは逆の方向へひたすら進む。
やっとのことで会場を出ると、ざわめく音から遠ざかりながら、俺は校舎へと向かった。
琴子はどこにいる?
多分あいつのことだから、あちこち思い出をたどっているに違いない。
思い出に浸って今頃泣いているかもしれない。
最後に行くのは絶対に医学部だ。
俺は迷わず医学部を目指した。
いくつかの講義室の横を通り過ぎ、一つだけ扉の開いているところを見つけた。

「入江くーん」

琴子の声だった。
開いた扉からのぞくと、琴子が思い出に浸って叫んでいた。

「何だよ、でけぇ声で」

後ろから声をかけると、すっかり浸っていた琴子は、驚いたように振り向いた。

「わ、わっ、い、入江く…!ど、どうして」
「多分ここにいるだろうと思って」

俺の言葉に意外そうな顔をした。

「…お前に話があるんだ」
「入江くん」
「家で話すよりいいと思って。神戸の話」
「あたし!」

俺が話を続けるのを遮るようにして、琴子は話し始めた。

「絶対一年で看護婦になる!」

その瞳に涙を浮かべながら、琴子は勢い込んで言う。

「それから神戸に行く。絶対に行く」

そのときの俺の気持ちをどう表現したらいいだろう。

「だ、だからま…待っててね」

こらえ切れないように琴子の目から大粒の涙が零れ落ちる。

「う、浮気しないでね。ま…毎日電話しても、お、怒らないでね」

しゃくりあげながら、それでも続ける。

「それから、休みに…会いに…」

涙でぐしゃぐしゃになって、鼻水まで垂らしそうな勢いだったが、琴子自身が一大決心をして俺に告げたその顔は、他の誰よりも愛しくて…。
そんな琴子の顔を覗き込むようにしてキスをした。
涙はそれでも止まらない。
一度離した唇で、耳元にささやく。

「…ありがとう、琴子」

聞こえなかったかもしれないが、そのまま耳にキスをして、思いっきり抱きしめた。

遠くからざわめきが近づいてくる。
式が終わってから会場を出たやつらが移動してきたようだ。
何人かはこちらへ向かっている。

「い、入江くん、人が来るよ」

慌てたように琴子が言う。
堂々と講義室で抱きしめあってる俺たちをいったい誰が止められるんだ?
それに、俺たちは紛れもなく夫婦で、とがめられるようなことは何もないはずだ。
俺は慌てる琴子の唇にもう一度キスをする。

「いいよ。見られたって…」

俺があまりにも堂々としていたからか、琴子は少し戸惑いながらもキスを返してきた。
思い出の講義室でするキスも悪くないだろ?
もちろんその光景を運悪く見る羽目になったやつらには、多少同情はするけどね。


(2006/09/26)


To be continued.