Start in my life




琴子 3

あたしは浮かれ気味で入江くんと歩いていた。
それも今日は新婚気分でショッピング。
雑貨屋なんかを巡って歩くのは本当に楽しいっ。
それも入江くんがいるとなれば、これほど楽しくて幸せな買い物なんて当分ないかもしれない。
…当分。
そう、入江くんは神戸へ行くのよね。
あたし、一年離れてがんばるって、宣言してしまったのよ〜。
だから、だからっ、その分、今をうんと楽しまなきゃ!
だって二人だけでデートもあまりしたことないし、あたしたちって、普通の恋人がするデートも行事もほとんどしていないのよね。
いつも入江くんはお義母さんに言われていやいや付き合うか、もしくは何かの交換条件だったり。
でもね、今度こそ実行するの。

遠距離恋愛のカップルのように、時々はお泊りして、お揃いのカップでコーヒーを飲んで。
そうそう、もちろんパジャマもさりげなくお揃いよね。
狭いシングルベッドに二人並んで寝たり、洗面所には二人の歯ブラシが並んでて、さりげなく口紅とか忘れちゃうの。
それから合鍵もらってお料理作って待ってて、
「あれ、いつ来たんだ。うれしいよ、琴子。いいな、帰ってくると料理ができてるなんて。
うん、おいしいよ、琴子。俺のために毎日味噌汁を作ってくれないか」
なーんてね。
(作者注:すでに結婚していることは今頭にない)
それから、シンデレラエクスプレスよね。
最終の新幹線に乗るために駅のホームで別れを惜しむの。
熱いキスなんか交わして、発車を知らせるベルが鳴る中、涙で別れを…。
い、いや、だめだめ。
そこはカット。
えーと、そ、そう。
長距離電話で月に電話代が何万といっちゃって、食費を削って電話代に当てるの。
お互いに電話を切れなくて、
「そっちから切ってよ」
「いや、そっちから…」
「じゃあ、二人で一緒に」
なーんてやりとりしたり。
時には手紙も書いたりなんかして。
それから…。
(作者注:妄想はさらにどんどんエスカレートして続くがカット)

あたしは入江くんの袖を引っ張ってあちこちのお店をのぞくことにした。
もちろん入江くんは少しうんざりしてきたみたいだけど。


直樹 3

「ねえ、こっちこっち」

琴子がまた袖を引っ張っている。
神戸で一人暮らしをするのだから、いろいろ揃えなくちゃと琴子は張り切っている。
以前一人暮らしをしたことがあったから、ほとんどのものは揃っていると言っても聞いていない。
だいたい先ほどから琴子が選んでいるのは、どう見てもお揃いのパジャマにペアのカップ。
何で琴子の物がいるんだよ。

「ねぇ、入江くん。こっちの模様とこっちの模様、どっちがいい?」

両手にパジャマを持ちながら、琴子がうれしそうに聞いてくる。
正直、どっちでもいい。
でもそれを言うときっと泣くんだろう。
琴子が今朝言うまで気づかなかったが、こんな風に何かお揃いのものを買ったりした事はない。

「右のストライプ」
「あ、やっぱりこっちね。うん、わかった。これにしようっと」

琴子の足は、今にも空中に浮きそうなほど浮かれている。
俺たちは同居からそのまま結婚したせいで、新居に移ることもなかった。
学生だったし、二人とも別居することは考えていなかった。
と言うより、おふくろが許さねぇよな。
もっとも本当に言ったとしたら、泣いて許したかもしれないが。
だから新婚旅行から帰ったら、すでに部屋はおふくろの趣味で彩られていたし、何かを二人で選んだりすることもなく過ぎていた。
おふくろの趣味は俺としては願い下げだが、生活自体は別にそれでかまわないと俺は思っていた。
だが、琴子には理想の新婚生活妄想というものがあって、それがどうやらペアのパジャマにペアのマグカップというわけだ。
わかりやすいが、俺の神戸行きをそれに近づけようとしているのかもしれない。
しばらく離れることを考えたら、この際どんな要求もできるだけ飲んでやろうという気にはなっている。


琴子 4

新しいパジャマを選んでそれをかごに入れたら、今度は二人のマグカップね。
入江くんは素直にパジャマ選んでくれた。
それがとてもうれしかった。
少し不機嫌になりつつある入江くんだけど、今日はため息もつかないし、いやそうなそぶりも見せない。
はっきり言って、すっごく珍しい。
せっかくだから、気づかない振りして甘えてしまおう。
あたしのわがままもしばらくは封印するから、今だけ、ね?

あたしはまた入江くんの袖を引っ張って、今度はカップが置いてあるコーナーへ移動した。
『春からの一人暮らしに』とか、『新生活応援』とか、新しく住まいを移す人が多い春は、そんな文字が売り場に躍っている。
家を新築したとき、その家が壊れたとき、あたしはそれぞれ身の回りのものを持って引越しをした。
新しい生活が始まることへの期待と不安。
入江くんが家を出て一人暮らしをしたとき、どんな風に思ったのかな。
静かな環境にうれしく思ったのかな。
それとも急に静かすぎて寂しくなったりしたのかな。
でも今度はすぐには帰ってこられない。
新幹線でも3時間。
あたしにとっては地球の裏側にだって等しい距離。
…浮気したりしないよね?
いつも女の人には目もくれない入江くんだから、きっと大丈夫だと思うけど、女の人の方が放っておかないの。
それが何よりも心配。


直樹 4

コーヒーカップを手にじっとこちらを見つめている。
何かよからぬことを考えているときの顔。
頼むから余計なことは考えないでくれ。
…なんて言ってもこいつには無理な話だ。
なぜか一つため息を落としてカップを棚に戻す。
…買わないのかよ。
今日だけは文句もつけずに
買い物に付き合ってやろうという俺。
琴子の笑顔が見たい。
ただそれだけなのに。
何を考えているんだか知らないが、神戸に行っている間にも何かやらかしそうで、本当は気になって仕方がない。

「こっちだな」

俺は手前にあったカップを取る。
クリーム色の下地に伸びる青のライン。
隣にはピンクのラインのカップ。
カップを手に取った俺を目を丸くして見る。

「え、何が?」
「何って、買うんだろ。カップ、お揃いで」

途端に笑顔満開の琴子。

「じゃあ、入江くん、こっちね。あたしはピンクのほうにしようっと」
「落として割るなよ」
「大丈夫、大丈夫」

両手にそれぞれ青のラインとピンクのラインのカップを手に取り、さらにもう一つ青のラインのカップを付け足した。
ペアじゃないのか?

「三つもいらないだろ」

思わず琴子にそう言った。

「一つはもちろん入江くんの。もう一つはあたしが神戸に行ったときに使うの。
それから、もう一つは…」

琴子は俺の顔を見た後、少しうつむいて笑った。

「あたしが家で使う分。入江くんが同じのを使ってコーヒー飲んでるんだなぁって、楽しみにするの」
「ふーん…」

俺はなんとなく琴子の頭をくしゃっと撫でた。
柔らかい髪の感触が手に残る。

「だ、だからね、あのね。ほ、他の人に絶対使わせないでね」

そう言って上目遣いに俺を見た。

…ノックアウト。

神戸へ一人で行く自信が揺らいだ。


(2006/09/30)

To be continued.