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琴子 5
買い物袋をたくさん抱えて部屋に戻った。
いろいろ買ったけど、何と言ってもお気に入りは、マグカップ。
すぐに使いたくなっちゃう。
おおっと、でも、これは入江くんが神戸に行ったら使うんだもの。
一人でマグカップを見ていたら、すっと手が伸びてきて、マグカップを取り上げた。
「しまっとけよ」
「うん」
そう返事したけど、視線はマグカップの方へ。
すると、横から強引にキスをされた。
「ちょ…ん…いり…」
な、なに?
急にキスされて、マグカップどころじゃなくなった。
もちろん入江くんはそのつもりなんだろうけど。
あたしは少し苦笑いしそうになりながら、マグカップから目をそらして、入江くんの目を見た。
入江くんは目を開けてこっちを見ていて、その強い瞳にあたしは慌てて目を閉じた。
直樹 5
琴子の手からマグカップを取り上げて、無理やりこちらを向かせる。
俺と離れることよりも、離れた後のことを考えている琴子に少しだけムッとする。
キスをして、取り上げたマグカップをしまう。
相当重症かな。
神戸に行っている間、琴子が何を見て、何を思うのか。
それを知らないでいるのはつらい。
俺を見ない琴子。
マグカップにさえ嫉妬する。
こいつは多分知らないのだろう。
いないということが、どれだけ俺にとって大きなことなのか。
きっと自分がいなくても、俺は平気だと思っているのかもしれない。
気づいていないのかもしれない。
神戸へ行くと決めてからの俺の胸の内を。
自分だけが寂しいと思っているに違いない。
昔からの仮面が邪魔をして、そんなそぶりは見せないが、俺が全く寂しくないとでも?
このにぎやかしい生活を離れることにせいせいするとでも思っていると?
そんないらだちを隠せずに、俺は強引に口づける。
有無を言わさずに。
そしてまた刻み込む。
俺のものである証を。
残念なのは、これが一年もたないってことだけだ。
琴子 6
明日はいよいよ入江くんが神戸へ行く日だった。
毎日暇さえあればあたしは買い物に出かけて、神戸へ送るものを選んで歩いた。
シーツの替えとかも必要だなぁなんて思いついたりもして。
…何で思いついたかはちょっと言えないけど。
それから細々としたもの。
本当は神戸で揃えればいいんだけど、入江くんは神戸へ行ったその足でそのままお仕事に行くらしいから、きっと買いに行く時間もないと思うの。
だって、研修医って、本当に忙しそうなんだもの。
入江くんがいつも使っているシャンプ−とか、選んでいると、あたしって入江くんの奥さんなんだぁという気がする。
入江くんは何でもできるから、必要以上に心配はないけど、本当はできることなら付いていきたい。
身の回りのお世話をしてあげたい。
でも、あたしにも勉強があって、入江くんのそばでお仕事を手伝うっていう夢があるから。
今ここでがんばらないと、入江くんの夢に追いつけない。
あたしは十分お荷物になることを知ってるけど、それでも入江くんのそばにいたいの。
あたしはこの数日間で本当に色々考えた。
何のために看護婦になろうとしたのか。
自分がこれから先どうしたいのか。
今付いていくのは簡単だけど、それじゃダメなんだってこと。
待っててね、入江くん。
あたし、絶対一年で看護婦になって見せるから。
直樹 6
連日ごそごそと荷造りをしている琴子。
一体そんなに誰が荷物を運ぶんだよ、と言ったら、あ、そうかと言って今度はダンボールに詰め始めた。
鞄にして三つもの荷物を俺に運ばせる気だったらしい。
冗談だろ。
どうせ最初はいろいろあってろくに部屋にも帰れないはずだ。
だから、一週間以内に荷物が届けば十分だ。
しかも宅配の荷物を受け取る暇があるかどうか。
四月一日から正式に働くのだが、前日には挨拶に行って、病院の中を把握しておかなければならない。
きっと忙しくて気が紛れる。
琴子がいないことに気づくのは、きっと仕事に慣れた頃になるのだろう。
以前一人暮らしをしたときは誰にも来てもらいたくなくて、親にさえ住所も教えなかった。
琴子はトラブルがあって部屋へ連れてくる羽目になったが。
今度はきっと大学が休みになったら琴子がやってくるのだろう。
それは楽しみでもあるし、心配でもある。
ただうっとおしかっただけの存在が、こんなにも俺にとってかけがえのない存在になるなんて。
あの頃は思ってもみなかった。
いや、本当は心のどこかで、いないと何か落ち着かない存在になっていたのを気づいていた。
「もう、いいよ」
「何が?」
「だから、荷物なんて明日また俺が詰めるから」
正確には、いらないものを出して、いるものだけ詰め直すのだが。
「うーん、でもぉ」
「あ、そう。じゃ、俺は寝るから」
「え、えー、もう寝ちゃうの〜?」
慌てて琴子がベッドに駆け寄る。
「ふーん。寝ちゃうと何か都合の悪いことでも?」
「えー、だって、しばらく二人でいられないんだよ。もう少しおしゃべりしたりしようよ」
俺はそこで笑って言った。
つい欲望が顔に出る。
「ベッドの中でなら聞いてやるよ」
「うん!」
何を考えているのか、元気に返事をしてベッドにもぐってくる。
ああ、もう、こいつは。
「あのね、入江くん」
「何」
「電話、いっぱいするから、忘れないでね」
「…どうやったら忘れられるんだ」
電話なんて頼まなくても、絶対毎日かけてくるだろうし。
「それからね。あの、それから…」
うつむいて一所懸命に話す横顔にキスをする。
潤んだ目で俺を見つめてくる。
「…忘れないようにさせてくれよ」
「いり…?」
そうささやいて、なおもしゃべろうとする琴子の口をふさぐ。
ああ、きっと、俺の方が忘れられなくて、一人きりの部屋に帰るのがつらくなるのだろう。
だから今夜は、ずっと抱きしめて離さない。
明日の夜がどんなに切なくても。
琴子 7
夜が明ける頃、あたしは不意に目覚めた。
暖かいぬくもりの中で、あたしはまた泣いた。
声を出さずに泣いていたのに、入江くんの腕が動いて、あたしの涙をぬぐった。
何で気づかれちゃったんだろう。
そんな優しさが切なくて、また涙があふれた。
涙を止めないと。
もう少しだけ眠っておきたら、お弁当を作ろう。
入江くんには当分お弁当を作ってあげられないから、とびきりおいしくて栄養のあるものにしよう。
入江くんを心配させないように、もう泣かないようにしなくちゃ。
あたしを抱きしめる入江くんの腕に力がこもった。
大丈夫だよ、入江くん。
今日も明日も泣いちゃうかもしれないけど、いつでも夜は明けるから。
それだけ入江くんに会える日が近づいていくってことだもの。
だから、大丈夫。
駅のホームは大きな荷物を抱えた人が結構たくさんいた。
あたしが詰めた荷物を持って、入江くんは新幹線の車両に向かう。
東京発博多行き。
神戸はずっと先。
「じゃあな」
「う…うん」
他の皆が全員乗り込んで、入江くんも新幹線の出入り口へ。
「つ…着いたら電話してね」
「ああ」
「あっ、お、お弁当を…」
「中で食うよ」
「お、岡山の次だからねっ、寝過ごさないで」
「…新大阪だろ」
入江くんの上着の裾をつかみながら、なかなか離すことができなかった。
さすがにあきれて入江くんが言う。
「もう行ってもいいか」
「う、うん」
離れがたいあたしは、何か欠けていることに気づいた。
「お、お別れのキスしてもいいよ」
入江くんは少し引きつった顔であたしを見た。
それでも素早くまぶたにキスをしてくれた。
周りに誰もいなくて見てもらえないのが残念。
『まもなくドアが閉まります』
発車のアナウンスが入った。
「じゃあな。勉強がんばれよ」
入江くんが乗り込むと、新幹線のドアが音を立てて閉まる。
多分もう聞こえないけど、あたしは言わずにいられなかった。
「い…入江くんもね。が、がんばって…」
ドアの向こうからあたしを見る入江くんが笑っている。
その笑顔が少しずつ遠ざかる。
「入江くん」
新幹線は速い。
どんどん駅のホームから離れていく。
「ガンバレ、入江くん!」
もう泣いても入江くんには見えない。
だからあたしは思いっきり泣きながら、神戸に向かっていく新幹線を見ていた。
新幹線のライトの光が遠く消え去っても、あたしはなかなかそこから動くことができなかった。
ガンバレ、入江くん。
ガンバレ、琴子。
ガンバレ、あたしたち…。
直樹 7
琴子の顔が見えなくなって、俺は席へと移動した。
流れる窓の外の景色を見ながら、しばらく東京を離れることに少しだけ感傷的になる。
泣きそうな顔の琴子。
今朝も泣いていた。
夜明けのベッドの中で、琴子は声も出さずに泣いていた。
本当はその少し前から気づいていた。
俺の胸に顔をくっつけて眠っていたのに、急に向きを変えて泣き出したのだ。
俺に気づかれないように向きを変えて涙を付けないようにしようとしたらしい。
一人で泣こうとする琴子が愛しくて、黙って涙をぬぐってやった。
それでもそのまま静かに泣いていた。
これからはどんなに泣いても、電話では涙をぬぐってやることもできない。
なるべく時間を作って東京にも帰ろうと思う。
それでも、確実な約束はしてやれない。
だから、俺はそのまま琴子をもう一度抱きしめた。
琴子の泣き顔を思い出す。
笑顔を思い出したいのに、今日は思い出せそうにない。
思ったより重症だ。
医者じゃなくてもわかる病気。
先が思いやられる。
名古屋を過ぎて、弁当を広げることにした。
あちこちから弁当を広げる音がする。
琴子特製の弁当は、覚悟していたが…。
開けた途端固まる。
白米の上に海苔で「LOVE」…。
隣の老紳士がさりげなく俺の弁当を見て微笑んだ。
「…愛のあふれる弁当ですね」
曖昧に微笑み返す。
「先ほどのかわいらしいお嬢さんかな。髪の長い…」
「…ええ、まあ」
どうやら見ていたらしい。
「駅で別れを惜しむのも愛があっていいですね」
危うくご飯を吹き出すところだった。
「私も若い頃は…。いやいや、あなたたちなら大丈夫でしょう。きっと離れた時間も大切なひと時になりますよ」
「そうですね。そうなると、いいですね」
俺は本心からそう思った。
きっと大丈夫。
泣いても笑っても、俺たちがお互いを必要とする限り、離れてもきっと変わらないものがある。
だから。
頑張ってみよう、俺も。
そして。
…ガンバレ、琴子。
頑張ろう、俺たち…。
その隣の老紳士と後日神戸の病院内のとある一室で会うことになろうとは、さすがの俺にもわからなかったが、それはまた別の話。
Start in my life−Fin−(2006/10/05)