注意書き



この話に出てくる二人は、入江くんであって入江くんではなく、いつもの琴子ではない、とだけは申し上げます。若干矛盾する箇所も出てきます。
原作のイメージを大事にする方は、お戻りくださったほうが無難かと思います。












春の夜の夢




それは、切ない春のひと時の夢だった。



学校から駅への道を歩いていた。
どこからか舞い込んだ桜の花びらに、一瞬直樹は心を奪われた。
それで立ち止まったのがいけなかったのか、駅の構内に入りかけたところで、高等部の制服に身を包んだ老け顔の先輩が駆け寄ってきた。

「おお、入江!お前今日くるんだよな!」
「は?いえ」
「まあ、まあ、みんな待ってんだ。新入生歓迎会だと思って来いよ〜」

その先輩・須藤は有無を言わさず直樹を引っ張っていく。

「入部した覚えはありませんが」
「いやいや、助っ人としてまた出てくれるんだろ。それにな、今日は特別なんだよっ」

直樹は一つため息をついて仕方なく須藤の後をついて行った。
途中で帰ればいいか、と思いながら。
須藤は駅からすぐの二階建ての家のインターホンを押した。

「おう、須藤だ」
『どうぞ〜』

インターホンを通じても騒がしい様子が聞き取れる。
中へ入ると5、6人の靴が散乱していた。

「来たな、このスケベが〜。っと、入江もか〜?!」
「ああ、ぜひ今後の参考のために見せてやってくれ」

何が始まるのか、リビングの大画面テレビの前に陣取って騒いでいる男たち。
どの顔もテニス部で見たことのある顔だった。

「さあ、いくぞ〜」
「さ、さ、始めてくれ」
「入江もしっかり見ておけよ」

今度の地区予選の相手のテニスの試合ビデオだと思い、とりあえず後ろのほうにあったソファに腰を下ろす。
他の連中は皆食い入るように画面の前で、ソファは後ろに追いやられているのだ。
意外に研究熱心だな、などと直樹が思った瞬間、画面に現れたのは怪しげなタイトル。
『狙われた学園シリーズ・女子テニス部の淫乱合宿』
途端に直樹以外の面々が「おお〜!!」と叫ぶ。
直樹は眉をひそめて、誰よりも前のめりになっている須藤の袖を引っ張った。

「これのどこが歓迎会なんですか」
「何言ってんだ、入江。ちゃんとテニス部が出てくるだろう」
「…帰らせてもらいます」
「バカだな、入江。お前、家じゃこんなの見られないだろ。お前だって男なんだから、興味ないはずないだろ」

須藤は直樹の腕をしっかりつかみ、その場にもう一度座らせた。

「興味があるとかないとかじゃなくて、どうでもいいんですよ、こんな作り物」
「まあ、そう言うな」
「おい、そこうるさいぞ」
「ああ、悪い、悪い」

かくして、かなり不機嫌な顔をしながらも、直樹はその場から帰ることを許されず、まだ日の高いうちからアダルトビデオを3本も見せられたのであった。


 * * *


これまた極め付け趣味の悪いアダルトビデオを見せられて、さすがに頭がおかしくなりそうだった。
いったい誰の趣味で選んだのか、同じ選ぶならもう少しましなものにすればとの思いもあった。
先輩たちが交代でトイレに駆け込んだのも信じられないくらいだった。
直樹はただ淡々とビデオを見続けた。
途中からあまりの構成の悪さと結末の悪さに、自分だったらもっとこんなバカバカしい作りではなくもっとましに作るのに、などとも思った。
途中何度も帰ろうとしたが、立ち上がったのをトイレに行くと勘違いされそうになり、仕方がなく居座り続けた。
プライドにかけて、こんな面白くないビデオで欲情したと思われたくなかった。
最後まで見終わった挙句、
「つまらない」
と感想を漏らした直樹に対し、須藤はお前も経験すれば…などと笑って言った。
そういう自分も絶対に経験などしていないに違いない。
そう確信していた直樹だった。

「いいよな、お前はもてるから、よりどりみどりだろ」

直樹はそんな風に言われ、少し考えた。
どうして皆、そんなに女のことばかり考えられるのか不思議だった。
それに、自分のどこを見て寄ってくるのか知らないが、同級生から上級生、下級生から道を歩いているOLまで、なにやら欲求不満の塊のような目で見られることがあった。
それがあまりにも気持ち悪くて、辛らつに断りを入れていた。
相手に合わせるとか、胸が痛くなるほど誰かを思うとか、その感情そのものがよくわからなかった。
何ゆえバカな相手に合わせなければならないのか、自分の価値観に全く合わない相手とどうやって合わせればいいのか想像がつかない。
だから、自分が付き合う相手は、頭がいいやつ、と決めていた。
直樹は頭を振ってやっとのことでその家を出て、駅へと向かった。
途中、行きには気づかなかったが、桜が満開になっている通りがあった。
それもそのはず。
行きは違う通りを通ってあの家に行ったらしい。
実はこちらの道のほうが近道だったのだが、回り回ってようやくたどり着いたのは、どうやら須藤の勘違いに振り回されていたらしい、ということに直樹はようやく気づいた。
その時さっと風が吹き、桜の花びらが舞い散り、吹き上げて、砂埃とともに直樹の視界を奪った。
ようやく収まって目を開けたとき、そこが全く違う世界だとは思いもしなかっただろう。
何事もなかったかのように家に帰る直樹を待ち受けていたのは、直樹のいた世界から10年後の世界だった。


* * *


「ただいま」

家に帰った直樹を待ち受けていたのは、母の声より一段高い声だった。

「え、入江くん?!」

慌ててどこかですっ転んだらしいその人は、足のすねをさすりながら玄関まで出迎えて、そしてそのまま固まった。

直樹はというと、玄関に出でてきた若い女を見て、自分は知らない客だと判断し、
「あ、はじめまして」
と言う挨拶をしてから靴を脱ぎ、あっけにとられた女の横を通り過ぎて二階へと上がっていった。

「ちょ、ちょっと待って!!」

血相を変えた女に呼び止められ、直樹は階段の途中で振り向く。

「何で、入江くん、その格好?」

直樹は一気に不快さをあらわにしてその女を見た。
背中までの髪、目の大きな顔。
見ようによってはかわいいと言えなくもないが、まあ普通の女。

「何か用ですか」
「用も何も、入江くん、よね?!」
「…この家の人間はみんな入江で間違いはないですが」
「あ、そうか、あたしも入江だった。…って、そんなことじゃなくて、どうして高等部の制服着て、しかも今ここにいるのよ?!」

なんだかおかしなことを言う女だと思いながら、再び階段を上り始めた。
階段を上りきったところで、見慣れない風景に足が止まった。

俺の家はこんな風だったろうか…。

朝家を出るときにはなかった部屋がそこにはあった。
明らかに増築されている。
いったいいつの間に?などと思いながら、自分の部屋があったはずの辺りのドアを開けた。
そこには、大きなダブルベッドのある、趣味悪そうな装飾を施された誰かのための部屋だった。
その趣味は明らかに自分の母のものであり、間違いなくここが入江家である証拠とも言えた。
ただ、ベッドの周りに飾ってあるこれまた無数の写真立てには、信じがたいことに自分とそっくりな姿をした人間と、先ほど玄関まで出迎えた女がツーショットで写っていた。
そのまま無言でその部屋のドアを閉めた。
回れ右をして、足音も高く階段を下り始めた。
途中、上りかけていた女を追い越し、リビングへと急ぐ。

「おふくろっ」

開けたそこにはいつもいるはずの母の姿はなかった。
リビングのテレビだけがせわしなくしゃべっているばかりで、母も弟も父もいなかった。
もちろん父はこんなに早く帰ってくるわけはないのだが、少なくとも小学生の弟はいてもいいはずだ、と。
急いで引き返してきたらしい女が、いつの間にか直樹の後ろに立っていて、両手を組んでおろおろしている。

「今日はお義父さんもお義母さんも法事で帰ってこないの。それから、裕樹君は友達の家に…」

直樹はまだ抱えたままだった鞄をリビングのソファに投げると、ネクタイを緩めた。

「で、あなたは留守番の人?」
「確かに留守番ではあるけど、あたしはれっきとしたこの家の住人で…。
だいたい、入江くんこそ、どうしてそんな高校生になっちゃってるのよ〜〜〜」

困った顔で女はわめいた。
直樹にとってはそれが不快で、知らない間に訳知り顔でこの家にいる女をにらみつけた。

「おふくろの連絡先は?」
「…連絡先、どこやったかな〜」

慌ててメモの類を探し出す女にあきれ、直樹は大きなため息をついてあきらめた。

「入江くん、この間神戸に行っちゃったはずよね。何だって戻ってきているの?それに、なんだか随分と…」

そこまで言って、女は青ざめて直樹の顔をまじまじと見た。

「そういえば、入江くん、妙に若い…。まるで、そう、高校の入学式で会った時みたい」

新入生代表で挨拶をしたのは、つい数日前のことだ。
直樹は女の話に付き合いきれないと言うように、制服のブレザーを脱いでソファに腰掛けると、テーブルに置いてあった新聞を何気に手に取った。
朝読んだものと違うのか、読んだ覚えのない記事ばかりが目立つ。
あまりに知らない内容だったので、新聞の種類を確かめて驚いた。
冗談のように日付が10年後になっていた。

「嘘だろ…」

ついていたテレビのチャンネルを変える。
ニュースの中でアナウンサーがしゃべった日付に驚く。
ここまで大掛かりな引っ掛けは誰にもできない。
これがテレビがらみのドッキリ番組でもなければ、
テレビから新聞から、よく見たら、部屋にかかっているカレンダーまで、事細かに偽装ができるはずがない。
ソファに座ったまましばらく苦悩する。
いったいどこで何を間違えたのか、天才と誉れの高い直樹にも全くわからなかった。
念のため、そばに黙って立っていた女にも聞いてみることにした。

「…今日は、何年何月何日?」

女はやっと話しかけられたことにほっとしたのか、嬉々としてしゃべりだした。
そしてその日付は、やはり直樹のいた世界から10年が過ぎていたのだった。

「ね、ねえ、もしかして、入江くん、過去から来ちゃったなんてバカな話ないわよね?」

無邪気にそう言った女の言葉に頭を抱えたくなる思いだった。
この現代に、これほどまでに非科学的なことがあるだろうか。

「悪いけど、あんた、誰?」

直樹の発した言葉に、今度は泣きそうな顔で女は立ち尽くしていた。
リビングのドアから真正面、なぜ気づかなかったんだろうという位置に、バカでかい結婚式の写真が飾ってあるのを見て、ある程度の事情はわかった。

「…つまり、信じたくないけど、あんたは俺の奥さんだったりする?」

直樹の言葉に今度はうれし泣きする勢いでうなずく。
泣いたり笑ったり、一人で百面相をする女の名前を聞いていないことに気がついた。

「で、名前は?」
「…琴子」

こんな形で未来を知るほどつまらないものはない、と直樹はさらに眉間のしわを深くした。

「あのね、25歳の入江くんはね、今神戸にいるはずなの」
「…神戸?出張中か何か?」
「…ううん。研修のために入江くんが自分で決めたの。少なくとも一年は戻ってこないと思う」

なんだか知らないが、そうつぶやいた琴子はいっそう寂しげに見えた。
直樹は面倒そうにもう一度ため息をつくと、琴子に向かって言った。

「…少なくとも今の俺の状況は最悪だな。本人がいないなら都合がいいから、今日はここに泊めてもらう」

10年後とはいえ、とりあえず自分の家に間違いはないので、他に行くよりはずっとましに違いないとの判断だったが、25ですでに結婚しているという自分の未来にも少々興味があった。

「自分の未来を詳しく知るのは何だけど、俺はいつ結婚したんだ?」
「それはえーと…」
「それとも未来を知るっていうのは、ルール違反とかあるの?」
「さあ…」

さして驚いた様子も見せない直樹を、琴子は顔を赤らめてみていた。

「…何?」

琴子は慌てて頭を振る。

「だって高校生のときの入江くんにそっくり」
「当たり前だろ、本人なんだから」
「うん、でも、あたしが一目ぼれしたときの入江くんよね。うふふ」

直樹にとっては知らない女。
琴子にとっては懐かしい記憶の中の男。
そのギャップを感じて、直樹は考えを巡らす。
自分の知っているどの顔とも見覚えがないが、どうやら同じ高校にいるらしいことはわかった。

「あ、ねえ、アルバムでも見てみる?ビデオも山ほどあるんだけど」

アルバムと聞いて、直樹の顔が引きつる。
幼少時のあれは、できることなら二度と見たくはない。

「でも、正直、今日入江くんがいてくれてよかった。誰も帰ってこなくて寂しかったの。あ、お父さんは夜中過ぎには帰ってくるけど」
「おやじは帰ってこないんだろ」
「入江くんのお父さんじゃなくて、あたしのお父さん。一緒に住んでるんだよ。そもそもあたしとお父さんが入江家に同居したお陰で入江くんと結婚できたようなもんだし」

直樹は目の前の琴子をまじまじと見た。
自分はいったいどこにほれたんだ、と。
嫌、違うか。
未来の自分か。
なんだかややこしいと思わずにいられなかった。

「今、何やってるの」
「大学生」
「25で?」
「途中で看護科に移ったから」
「看護婦になるんだ」
「うん、そう」

うれしそうに琴子が答えた。

「25の俺は?」
「お医者さん」

直樹は自分でも意外な進路に返事をしなかった。
自分の可能性はいろいろあると思ってはいるが、まさか医者を選択するとは思っていなかったのだ。
何かきっかけがあったのだろう。

「腹減った」
「あ、ごめん。お母さんが作ってくれた夕食があるから食べる?裕樹君、いらないって言ってたから」
「じゃ、もらう」

ダイニングで琴子は夕食の準備を始めた。
琴子はいつも直樹が使っていた茶碗を何気なく取り出した。
ご飯をよそってからはっとする。

「これ、入江くんのだから」

琴子が手にしていた茶碗は、それが10年後であったにもかかわらず、変わらず直樹のものだった。
直樹の前に置くと、急にぽろぽろ泣き出した。

「何泣いてんだよ」
「だって、入江くん、今頃神戸にいるはずなのに、今目の前にもいるんだもん」
「あっちはあんたのだんなである俺かもしれないけど、俺は違うから」
「…そう、よね」

夕食を食べながら、このうっとおしい女を無視することにしようと直樹は決めた。
もちろんそんなことができるくらいなら、この琴子と結婚してるはずなどないのだが、琴子と知り合って間もない直樹がそのことに気づくわけがなかった。
おまけに、夕食を黙々と食べている直樹に、次から次へとどうでもいい話を続ける。
笑ったり、怒ったり、時には自分を見つめて赤く頬を染める。
短時間のうちに、直樹は琴子の頭の程度がわかってうんざりした。
ただ、今のこの状況は結構絶望的なものにもかかわらず、琴子と一緒にいるとどうにでもなりそうな気がするのが不思議だった。
こうして夜は更けていった。


To be continued.