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その日、眠る場所を決めるのに、直樹と琴子は少々もめた。
リビングで寝ると、帰ってきた琴子の父に怪しまれる。
直樹は裕樹の部屋で寝ることにしようと部屋に入ったが、あまりにも違う裕樹の部屋に戸惑った。
それは、小学生の部屋ではなく、すでに自分と同じくらいに成長しているらしい高校生の部屋だった。
「…裕樹君、勝手に部屋に入ると怒るの」
横でつぶやく琴子をチラッと見る。
薄いピンクのパジャマを着て、直樹の隣でニコニコしている。
直樹が借りたパジャマは本人のお古らしいが、思ったよりもサイズは大きく、全く他人のもののようだった。
「入江くんの身長、高校生になってから随分伸びたんだね。あたしが会った時もそんなに背が低いとは思わなかったんだけど」
直樹は横にいる琴子の背に目を向けた。
目のすぐ下に頭がある。
しかし、どうやらこのパジャマの主は、どう見積もっても琴子の頭のかなり上に視線があるらしい。
「うんとね、これくらい」
琴子は背伸びして直樹の頭より10センチ上を指した。
ふわっとシャンプーの香りがした。
思えば、これほど身近に琴子くらいの年齢の女がいたためしはない。
いとこは皆自分より年齢が下で、どちらかと言うと琴子より精神年齢が上のようだ。
25だと言う琴子は、思ったよりも子どもっぽい。
自分と10年の年の差があることが信じられないくらいだった。
未来の自分がなぜこの琴子と結婚したのか、どうがんばっても理解できなかった。
子守するような女ではなく、頭もよくて、美人で、家事も完璧な女が理想だった。
「どうする?客間にお布団敷こうか」
「そうだな」
客間に寝ていれば、いくら琴子の父とてわざわざのぞき見るようなことはないだろう、ということになった。
「あ、それとも寝室で寝る?」
何気なく琴子が言った言葉に耳を疑った。
「…だから、俺は」
「あ、そうか。なんだか入江くんの顔してるから、あまり違和感なくって…」
悪びれた様子も、照れた様子もなく、琴子はさらっと言った。
年上の余裕でもなさそうだった。
なぜなら。
「ふーん。どうせ将来あんたと夫婦になるんだから、俺は別にかまわないけど」
直樹がそう言った途端に、首まで赤くした顔で慌てて言い返した。
「だ、だめよね。入江くんは将来ある身なんだし」
将来は結局琴子と結婚するなら、将来ある身も何もなさそうなものだが、とは突っ込まないでおいた。
夕食の後で風呂の用意ができるまでに聞いた話によると、大会社の才女で美人な社長令嬢をふってまで結婚したと言う。
自分の将来の妻と聞いてから、いったいどこにそんな魅力があるのかとずっと考えていた。
25にしては無邪気な態度と、処世術のなさそうなバカ正直な表情。
もしかしてその肉体が魅力的だったとか?
パジャマ姿を見て、その考えも却下した。
どう見てもAカップの胸。
肉感的とはいえないくびれと尻。
しかも、人を振り回す破天荒さ。
すでに自分のいつものペースを乱されていることを感じていた。
25の自分に会って聞き出したいくらいだった。
「ねえ、戻れなかったら、あたしと入江くんが結婚することもなくなっちゃうってことよね。今神戸にいる入江くんはどうなっちゃうのかしら」
「さあ、俺にもよくわからない」
「今日は何をしてたの?それがわかれば元に戻れる方法がわかるかもしれないし」
布団を敷きながら琴子が言った。
元に戻れなかったら?
そんなことあるはずがない。
これももしかしたら夢だったなんてことになるかもしれない。
あまりにも能天気な琴子を驚かしてやろうと、直樹は少し考えた。
「今日は普通に学校に行って、それから先輩の家でビデオを見た」
「あ、わかった、そのビデオがきっかけとか?」
「…なんでだよ」
「ほら、あるじゃない、映画とかで」
「AVでそんなことあるわけないだろ」
「どんなビデオだったの?」
どうやらAVの意味がわからないらしい。
直樹はにやっと笑って言った。
「アダルトビデオ」
「ふーん、アダルトビデオかぁ」
普通に返した琴子の反応にやや不安を感じて言った。
「…アダルトビデオ、知らないなんて言わないよな」
「うん、そういう題名の映画かなんかじゃないの?」
ガクッと力が抜けた。
「エロビデオだよ」
「エ…エロビデオ…!」
まさか入江くんが…!とでも言いたそうな顔をしている。
「そ、そうよね、入江くんも男の子だもんね」
先ほどみたいに首まで真っ赤にしながら、口ごもっている。
からかうのが楽しくなってきた直樹は、さらに言った。
「夫婦なんだろ、俺たち」
「そ、そうなんだけど、入江くんと結婚したのは21のときで」
思ったよりも早い結婚に驚いたのは確かだった。
もちろんそれを計画したのは母の独断だったとしても。
「…もしかして、俺しか知らない?」
「な、何言って…」
布団を敷くために座り込んでいた琴子は、シーツを無駄に直しながら少しずつ後ずさる。
「あたしは後にも先にも入江くんしか…」
「キスも?」
後ずさる琴子にずいっと直樹は迫る。
茶色に見える大きな目を見つめる。
「だ、だって…」
「ふーん。でも今は処女じゃないんだよな」
染めたわけではない茶色っぽい髪がさらっと流れた。
いまさらながら、昼のビデオを思い出した。
じりじりと琴子に迫る。
「で、最後に抱かれたのはいつ?あ、今は神戸に行ってるから、最近してないよな」
おどおどしている目と緊張している身体が、まるで小動物みたいだった。
そのまま逃げればいいのに、まるで金縛りにあったようにその場から動かない。
「何で動かないの」
「だ、だって」
琴子は泣きそうな顔をしていた。
あまりにいじめすぎたかと思いつつ、その体勢から動けなくなった。
すでに直樹は琴子の身体に半ば覆いかぶさるようにしていた。
この体勢から元に戻るには、少し困難だった。
後ろに下がって身体を立て直そうと思ったつかの間、緊張しすぎて耐えられなくなった琴子の筋肉が、後ろに反った身体を支えられなくなったらしい。
ぱさっと音がして、そのまま後ろに倒れこんだ。
図らずも琴子の真上に身体を覆いかぶせることになった直樹。
突っ張った腕をどうやって戻そうかと考える。
琴子はすでに半泣き状態で、目を涙で潤ませて直樹を見つめている。
頬はほんのり赤く、唇は今にも何かを話し出しそうに少し開いている。
知ってか知らずか、まるで誘われているような気さえしてくる。
「何、誘ってんの」
不意にまた意地悪な考えがよぎり、そのまま上から琴子を見下ろす。
「ち、違う」
琴子にとって、なまじ同じ顔をした直樹に迫られて、すぐに動けるものでもない。
いつも直樹(この場合は25歳の)に誘われ、拒むことすらできないというのに。
幾分若いとはいえ、紛れもなく直樹だった。
「入江くんと同じ顔でそんなこと言わないで…」
「俺も入江直樹だけど?」
「入江くんだけど、入江くんじゃない〜」
「へぇ、あんたに俺が拒否できる?」
さらに顔を近づける。
「…やっ、でも」
目をそらしてくれたら、この悪ふざけもやめようと思ったのに、琴子は一向に目をそらす気配がない。
しかも、上気した顔で直樹を見つめている。
直樹はその目を見つめながら身体が熱くなるのを感じた。
まさか今日見たビデオの影響でもあるまいし、かと言って琴子の目に吸い寄せられたなんて、自分では思ってはいなかった。
ただ、純粋な興味。
自分ではそう思っていたが、琴子から目をそらせないままだった。
そのままゆっくりと顔を近づけ、食いしばっているらしい唇に自分の唇を押し付けた。
突っ張っていた手は自然に琴子の頬をなでていた。
口づけられた琴子は、直樹の目を見たままだった。
すでに頭はパニック寸前だったが、口づけられた瞬間、懐かしい感触を呼び起こした唇に戸惑っていた。
この唇は知っている、という思い。
直樹だけど直樹じゃないのに、唇は同じ感触を与える。
食いしばっていた口を思わず緩めた。
しかも、頬は直樹に優しくなでられている。
手の大きさは違えど、この手も知っている、という感じがした。
当たり前だが、全くの他人ではない手。
一度離れた唇がもう一度押し付けられる頃には、見開いていた目を静かに閉じていた。
To be continued.