夢のまた夢




琴子が目の前で階段から落ちそうになった。
俺はとっさに琴子を引き上げたが、寝不足がたたったのか自分の身体までは支えきれなかった。
視界が暗転する。
琴子が無事でよかったと思う反面、あいつは本当にドジだな…と腹立たしい気持ちもおこった。
いや、琴子を怪我させるほうが自分が怪我をするよりきっと何倍もつらいから、これでいいのかもしれない。
また、あいつ泣くだろうな。
仕方がないな…。
琴子…。
ひどくどこかをぶつけた気がするが、それはもう意識の彼方だった。


 * * *


1日目

目覚めると、そこは病室だった。
泣きじゃくった琴子がいた。なぜ看護婦の格好をしているのだろう。
なんだか裕樹が一回り大きくなっている。
オカマの看護士と主治医らしい医者が入ってきて、病状を説明してくれた。
寝ている間に足を手術したらしい。
どうでもいいが、この親しげな医者はいったい誰だろう。
琴子はいつも以上にうっとおしい。
看護婦の格好までして、俺はそんな趣味はないぞ。
おふくろの差し金か?

「ちょっと待ってくれ」
「何、入江くん?」
「…なんで琴子が…」
「入江くん、あたしをかばって階段から落ちたの。ゴメンね、あたし、いっつも迷惑かけてばかりで」

ああ、本当に。

「だから、あたし、毎日お世話するから!」
「…いや、それだけはやめてくれ」
「お兄ちゃん、琴子ちゃんが看護してくれるのよ。いい奥さんじゃないの」

…かなり聞き捨てならないことを聞いた気がする。

「誰が、誰の、奥さんだって?」
「あら、お兄ちゃん、いやねぇ。琴子ちゃんは、大事な奥さんでしょう?」

俺は、事の重大さに逃げ出したくなった。
いや、足さえ怪我をしていなくて、手術の直後でなければぜひこの場を去りたかったが。

「…ちょっと、琴子と二人にしてくれ」
「あら。はい、はい。私たちはお邪魔だったわね。いいわよ、行きましょう、裕樹。
それじゃあね、琴子ちゃん。お兄ちゃんをよろしく頼むわ」

心なしか、裕樹は心配そうな目を俺に向けて、病室から他の医者と看護婦共々おふくろに押されるようにして出て行った。
琴子と二人きりになり、俺は何と切り出したらいいか迷った。

「入江くん、あたしのせいなの。階段から落ちたのは」
「ああ、そう。今日は、何年だ?」
「えーと、1998年だけど…」

ベッドに横になっているというのに、俺は軽いめまいがした。
おいおい、7年後の世界かよ。
俺の記憶は18のままだった。

「どうしたの、入江くん?」

で、琴子は俺と結婚してるって?
いったいなんで…?
どうしたらこいつと結婚する羽目になったんだ?

「俺の担当は、お前なのか?」
「もちろん!入江くんのお世話は任せて!!」
「あまり任せたくないな…。できれば変わってくれ」
「ひどい、入江くん」

琴子は泣きながら、ひとしきり何かわめいている。
どうやったら看護婦の国家試験に受かるんだ、こんなバカが…。
いや、その前によく看護科の試験に受かったな。
先ほどの話からすると、俺はどうやらここの外科で医者をしているらしい。
…怪我をしていて助かった。
こんな記憶のまま医者なんてやってられない。
それよりも、こいつと結婚してるっていうのも、何とかしてくれ。
おふくろの陰謀か?
記憶がないなんてうかつにしゃべらないほうがよさそうだ。
琴子はうっとおしく泣くだろうし、おふくろは今までのビデオを全部持ってきそうな気がする。
記憶を戻さないと仕事にも差し支えるのはわかっているが、なんとなく戻したくない気もする。
いったい俺はどんな生活をしてたんだ?
俺の周りでかいがいしく世話をしようと動き回る琴子を見ながら、深いため息をついた。

俺は入江直樹。
この記憶に間違いはないらしい。
18歳までの記憶しかないが、どうやら今は25歳らしい。
いつの間にか大学も卒業し、研修医として仕事をしているらしい。
俺自身の今の記憶は、まだ理工学部の1回生なんだが。
当然琴子と付き合った覚えもないし、ましてや結婚した覚えもない。
琴子は何か言いたげにこちらを見ている。
…だめだ。
どうしても琴子と結婚したという実感がわかない以上、こいつにかける言葉さえ浮かんでこない。

「少し、眠りたいんだ」
「うん、ごめんなさい。まだ手術が終わったばかりだもんね。また、来るから…」

以外にあっさり病室を出て行った。
俺は一人になったところで考えてみる。
琴子が相原父と同居してきたが、一度家が完成して出て行ったよな。
テニス部の合宿に行って戻ってきたら、おふくろの陰謀で再び同居することになってて。
須藤さんと琴子が付き合っているという噂があり、俺は松本とデートして、琴子に池に落とされて…。
いったいどこをどうしたら結婚まで結びつくんだか。
おまけに、理工学部なのに医者になっているということは、学部を変更したはずだ。
それはいつだ?
しかし、まさか記憶喪失なんてあるわけがない。
いや、実際今、この俺が、そうなんだから、ありうるのか。
もしこのまま記憶が戻らなかったら…?
医者としての勉強は、少し仕事を休むしかないな。
それよりも、俺は実感のないまま琴子と夫婦としてやっていくのか。
誰かに相談するべきか。だが、いったい誰に?
大げさにされるのも迷惑だ。
そうだな、案外記憶喪失なんてものはすぐに治ることもありうる。
ただ、本当に大事なことを忘れていなければいいのだが。
よりによって動けなくて、しばらくこのままだとはついてない。
あの琴子の看護を受けるだなんて、冗談じゃないぞ。
ふと洗面台の鏡が目に入った。
そこに写る顔は、紛れもなく俺。ただし、25歳の顔。
あまり変わらないが、多少これでも老けたか。
ああ、めんどくせぇ。
俺はこれから起こりうることを考えて頭が痛くなってきた。
手術の影響なのか?
まあ、いい。
とりあえず眠ろう。眠って起きたら、記憶も戻っていたりしてな。


 * * *


「入江くん、風邪ひくよ〜」

琴子の声と共に俺は薄目を開けた。
肩にかけられた毛布。
完全に目を覚ますと、そこは書斎だった。

「ねえ、まだ仕事残ってるの?でも、こんなところで寝てると風邪ひくよ」

なんだか夢を見ていたみたいだ。
今の俺は何歳だ?
机に広げられた書類は、今度学会で使う資料。
ああ、今の俺だ。
琴子はそんな俺を覗き込んでいる。
なんだかおかしな夢だった。
18歳の俺になっていたようだ。
あの頃の俺は、まだまだ琴子がうっとおしくて…。

「琴子…」
「なあに、入江くん」

不思議そうな顔で俺を見ている。
そうだ、おかしいのは俺だ。

「いや、なんでもない」
「ねえ、コーヒー、飲む?」
「…そうだな」
「じゃあ、持ってくるね!」

琴子はうれしそうに階下へコーヒーを取りに行った。
足を怪我した俺は、夢か。
なんだか今も夢の中のようだ。
頭を振って、学会の資料に目をうつした。
それっきり、その夢の話は忘れることにした。


 * * *


2日目

「おはよー、入江くん!」

琴子の声と共にカーテンが開けられた。
なんで俺の部屋にいるんだ。
いや、なんだか違う。
…病院?
琴子が看護婦の格好をしている。
俺はなんで入院なんかしてるんだ?
足を骨折してるのか。
なんだかよくわからない。
ああ、そういえば、妙な夢見たな…。
そう、書斎で琴子が…。

「今日は朝で交代だから、仕事が終わったらまた来るねー」

まだすっきりとしない頭をなんとかはっきりさせようと目を閉じた。
だが、琴子はまだ部屋を出ようとしない。
まだ何かあるのか?

「あの、入江くん」
「なんだよ」
「あの、ね」
「だから、なんだよっ」
「採血が、あるの」

少し青ざめた琴子の顔から、俺はなんとなく目をそらした。

まだ腕がじんじんしている。
悪夢のようだった。
俺の腕はすでに青く腫れあがり、まるで薬物中毒者のようだ。
記憶のない俺のほうが絶対にうまく採血できる自信がある。
いや、今ここで断言しても意味がないか。
俺の記憶…。
覚えている限りの俺の記憶の中でも、琴子はドジばかりだった。
ただ、俺にも手に余るパワーは、今でも健在らしい。
同居することになって、宿題手伝わされたり、F組の面倒見させられたり、大学受験でひどい目にあったり。
大学に行っても、下手くそなくせにテニス部でペア組まされたり、大学祭で無理矢理クイズに参加させられたり。
自分の将来に疑問を感じて家を出ても、バイト先に現れるし、倒れて迷惑掛けられたり。
結局バイトも一緒になるし、清里にまで来やがって…。
ああ、だめだ。
なんだか余計なことばかり覚えているみたいだ。
19歳の俺は、まだ将来を決めかねていた。
漠然とした未来が、こうもはっきりと目の前に突き出されると、正直この俺でもうんざりする。
琴子と結婚した未来、医者になった俺。
それ以外の未来はありえないのか?
たとえば、親父の会社を継いだ俺、他の誰かと結婚した未来。
運命なんてものは別に信じてはいないし、そんなロマンチシズムもないが、こんな現実なら夢のほうがましかもしれないと思うことはある。
俺は、いったいどんな風にして今の未来をつかんだのだろう。


 * * *


俺は、記憶がないんだ!

そう叫んだところではっと気がつく。
目の前にはよだれを垂らしそうなくらい平和な顔で寝ている琴子。
俺は髪を無造作にかきあげながら、起き上がった。
なんだか最近夢見が悪いのか、起きても疲れが取れていない感じだ。
いったい何の記憶がないんだか…。
あくびを一つすると、俺はいつものように朝の支度をするためにベッドから抜けだした。
琴子が起きる気配はない。
まあ、いつものことだが。
琴子は急にふふふふと笑い出した。
…不気味なやつ。
思わず何気なしに琴子の鼻をつまむ。

ふ、ふふ、ふぐっ、ぷはー。

息が詰まったのか、真っ赤な顔をして俺の手を払いのけて起き上がった。
ボーっとした顔でわけがわからず俺の顔を見ている。

「…入江くん?」
「よお」
「なんかねー、入江くんと海に行ったら、巨大なタコが出てきてあたし捕まっちゃったのー。
おぼれちゃって、入江くんが…じ、人工呼吸をしてくれようとしたのに〜」
「ふーん」

なんで巨大なタコなんだか。

「ちぇっ」
「なんなら、今する?」
「えっ」

俺はそのまま琴子の鼻をつまんでやった。

「い、いたっ、もう、入江くんてば!」
「いつまでも寝ぼけてんなよ。ほら、起きろ」
「もう〜」

鼻をさすりながら、琴子はベッドから降りた。

「ああ、人工呼吸だったな」

そう言うと、俺は立ち上がった琴子の頭を引き寄せてキスをした。
朝からキスをされるとは思っていなかったらしい琴子は、俺を凝視したまま何も言えないでいる。

「うまいコーヒー、入れてくれよ」

俺はそれだけ言うと、寝室を出て行った。


To be continued.