夢のまた夢




3日目

入れ替わり見舞い客が続いて、さすがに疲れた。
研修医らしい俺に治療方針を聞きに来る医者たち。
他の見舞い客。
さすがに看護婦連中は琴子が抑えたらしい。
こういうときはそのパワーも役に立つ。
しかし、誰も俺が記憶をなくしているだなんて疑いもしない。
中には知らない顔もいたのだが、なんとかうまくやり過ごした。
裕樹だけは、何事か気付いたようだ。それでも、あえて何も言わない。
ただ一言、「お兄ちゃん、無理しないでね」とだけ言って帰っていった。
周りの様子からすると、俺の琴子への態度は、どうやら結婚する前も結婚したした後もさほど変わらないようでほっとした。
琴子には気づかれたくない。
これ以上琴子に泣かれたくない。
ただ、それだけだった。
今朝、目が覚めると俺は病院に入院していて、琴子は俺を追いかけて看護婦になっていて。
確か俺の記憶では医学部に学部を変更したところだったはず。
それに親父が倒れて…、大学を休学して…。
今朝見た夢は、最悪だった。
いや、考えようによっては幸せな夢なのかもしれない。
どこかで否定したい未来。
どこかで望んでいる未来。
しかし、俺に残っている記憶は、琴子と結婚するなどと言う生易しい状態ではないので。
結局親父の病気は回復してるし、会社も立ち直っているらしい。
沙穂子さんと見合いした俺は、会社を立て直すために働いていたはずだった。
それが、理想の世界。何もかもうまくいくはずだった世界。
現実がどうであれ、記憶の中の俺はそれしか選べなかった。
琴子の顔が見られなかった。
俺を見てうれしそうに笑う琴子の笑顔がつらかった。
記憶の中で俺は、琴子の笑顔を消していた。
とてもその先の未来を考えることができなかった。
20歳の俺は、自分の未来を選べなかった。選べなかったはずだった。
だから、俺はこれ以上にないくらい疲れている。
夢なのか、現実なのか、ただの記憶喪失なのか。
ため息をついた俺をどう解釈したのか、琴子の笑顔が曇る。
せめて今だけ、優しくしてやっても罰は当たらないだろう。

「入江くん、疲れてるよね」
「まあな」
「あたし、失敗してばかりだし」
「いや、お前のせいばかりじゃないよ」
「あたし、ちゃんと入江くんの役に立ってるかな?」

あまりに期待に満ちた笑顔を向けるのやめてくれ。
こんなとき、結婚した後の俺はなんて言うんだ?
ここで嘘でも役に立ってると言えば、きっと琴子は安心して喜ぶのだろう。
しかし、記憶があってもなくてもこの俺は、嘘でもそんなことは言わない気がする。
実際琴子の看護ぶりはかいがいしいには違いないが、ほかの患者だったら苦情の一つや二つでは済むわけがない。
すでに琴子のドジ振りに慣らされた俺だから、多分文句を言いながらでもとりあえず受け入れることができるのに違いない。
俺は額に汗が吹き出る思いだった。
そんなバカなこと言えるわけがない。

「どうでもいいが、せめて注射の一つくらいまともにやってくれ」
「だ、だって、入江くんに注射するなんて緊張しちゃって…」

そして琴子は泣きそうになり、うつむく。
別に泣かせようとしたわけじゃないのに、俺はどうも琴子を泣かせてしまうらしい。

「お前から一所懸命とったら何が残るんだよ」
「そ、そうだよね…」
「俺の腕、これ以上腫らすなよ」
「うん、あたし、がんばる!」

…単純だ。
琴子は笑顔を取り戻して、病室を出て行った。
琴子は良くも悪くも俺の言葉一つで一喜一憂する。
今の俺にはそれがつらかった。
俺は盛大にため息をつくと、少し眠ることにした。


 * * *


…電話が鳴っている。
俺は電話に手を伸ばしながら、同時に白衣にも手を伸ばす。

「はい、入江です」
「入江先生?術後の山下美和ちゃんの吐き気が止まらないみたいで…」
「すぐに、行きます」

受話器を置くと、白衣を着ながら当直室を出る。
いまだ何だかわからない夢は続く。
夢の内容は切れ切れにしか覚えていない。
ただ、琴子を泣かせないようにしようと必死だった俺。
今頃琴子は家で高いびきに違いない。
午前3時。
病院内は静まり返り、ナースステーションからのモニターの音だけが響く。

クスッ。

人知れず笑う。
20歳の頃の俺は、他に未来があるなんて思いもしなかった。
自分で選んだ医者への道。
親父が望む会社を継ぐ道。
会社のために結婚する道。
他の誰でもない、琴子を選ぶ道。
あまりにも未来は単純で、どれを選んでも人生に大差ないと思っていた。
それが間違いだと気付いた俺は、今満足か?
ただわかるのは、未来は単純だが、決して決まっているものではないということ。
そう、琴子を選んで平穏な毎日のわけがない。
ま、いいか。
今ならそう思う。
そう思える自分をあの頃の俺に知らせたかった。自分で選んだことなのに苦しくて、行き場のなかった俺に。
そんな思いから頭を切り替えるべく、俺は術後の患者のいる回復室へと足を踏み入れた。


 * * *


4日目

目が覚めると、足が動かなかった。
骨折して、固定されていた。

「入江くん、おはよ」

朝食が終わった後、琴子が病室に来た。
病室にかかっているカレンダーは、1998年。
…1998年?
俺の記憶は21歳の俺、1994年のはずだった。
確か夏に九州に行って…。
いや、今が1998年なら、それはもう4年も前なのか。
この4年の間の記憶はどこへ行ったんだ?

「入江くん、足、痛い?」
「あ?ああ、まあな」

あいまいに答えながら、頭の中は疑問でいっぱいだった。

「俺、仕事のほうはどうなってるんだっけ?」
「え…。そ、それは、うん、ちゃんと他の先生がやってくれてるよ」
「そうか」

何か隠し事をしているらしい琴子の様子だったが、俺の記憶がないのを気づいたのか?
いや、俺自身さえ記憶がないのを気付いたのは今なんだから、そんなわけないか。
俺は無事に国家試験にも受かって研修医になっているらしい。
それは当然と言えば当然だが、まだ2年も先の未来がわかってしまうのもつまらない気がする。
まさか、記憶がないのはタイムスリップしたせいだなんてことは思わないが、妙に不安を誘うものではあるらしい。
ああ、琴子ならタイムスリップしたんだと言っても信じるかもしれないが。
まあ単純に考えて、骨折した原因のときに転んで頭を打って、一時的に記憶が喪失してるくらいのものだろう。
琴子は無事に大学を卒業したんだろうか。
今は専業主婦なのか?
俺の視線を感じたのか、琴子は俺を振り向いて笑った。

「あ、あたし今日は夜勤だから」
「は?」
「だからね、今日は夜勤なの」
「ああ、そう」

夜勤?
夜勤のある職業で、琴子がなりそうなものと言ったら…。
看護婦か。
俺は少しめまいがした。
俺が医者になると言ったときからなんとなくそんな気がしていたが、本当に看護婦になるとは。
よく看護科に受かったな。いや、それよりも国家試験によくぞ受かったと言うべきか。
まあ、琴子の根性なら、それもありうるかもな。こいつの凄いところはそういうところだから。
俺は改めて琴子を見る。
ふーん、4年たっても全然変わっていないな。
ま、こいつはこんなもんだろう。
それとも、この4年の間に何か驚くようなことでもあっただろうか。
琴子の様子からして、別に子どもができてるわけでもなさそうだし、特に他に変わったことはなさそうだ。
俺は少しほっとしていた。
琴子が琴子であることに。
俺も少しは変わったのだろうか。
変わっても、変わらなくても多分琴子は傍にいる。
俺はそんなことを思った。


 * * *


「お客さん、着きましたよ」

心地よい揺れが止まった。
いつの間にか眠っていたらしい。

「あ、ああ。ありがとう。じゃあ、これで」

俺は料金を支払いタクシーを降りた。
家の前で少しだけたたずむ。
辺りは真っ暗だった。
門柱の明かりだけが俺を照らしている。
リビングにはとうに明かりはなく、寝室のカーテンの隙間から薄明かりが見える。
琴子はまだ起きているらしい。
もう夜中を過ぎている。
何をやっているんだ?明日、また起きれなくても知らないぞ、俺は。
ゆっくりと門を開けて中へ入る。
玄関に立つとライトが自然に点いて、更に俺を明るく照らす。
鍵を開けて中に入ると、待ちかねたように琴子が階段を降りてきた。

「入江く〜ん、お帰りなさ〜い」
「ただいま。まだ起きてたのか」
「う、うん。あのね」
「なんだ?」
「うん、あの…」
「…だから、なんだよっ」

疲れて帰ってきたにもかかわらず、何かろくでもないことを頼むつもりらしい。

「えーと、看護計画が…」

俺はさっさと玄関から寝室へと移動して、風呂の準備をする。

「おねがいっっ、入江くん!
どうしても明日までに仕上げなきゃいけないんだけど、どうしてもうまくできなくて!」
「そりゃ大変だ」
「だから、ね、お願い、少しだけ、教えてほしいのっ」

俺は構わず風呂場へと歩いていく。
琴子は必死らしく、そんな俺に気付かず後からついてくる。
いったいどこまでついてくる気だ?
脱衣所まで来て、ようやく自分がどこにいるか気付いたようだった。

「あわわ、ご、ごめんなさいっ」

脱衣所を慌てて出て行こうとする。

「ふーん、一緒に入るのかと思った」

俺は脱衣所のドアを琴子の目の前で閉めた。
琴子は引きつった顔で俺を振り返る。

「ち、ちがっ」

俺は琴子をドアに追い詰めて言った。

「一緒に入って背中でも流してくれたら教えてやってもいいけど?」
「え、そんな」

顔を真っ赤にして俺を見返す。

「あ、あたし、一人でがんばってみる!!」

そう言ったが早いか、ドアを凄い勢いで開けて出て行き、階段を駆け上がっていった。
そのあまりの素早さに俺は呆然として、開いたドアを見つめた。

…くっ。

全く、琴子はいつまでも変わらない。
それがいいことか悪いことかはともかく。
俺は脱衣所の壁にもたれて笑った。


To be continued.