坊ちゃまとあたし




         【注意書き】
このお話は、とある企業の直樹坊ちゃま(始まりは五歳)、入江家執事渡辺、教育係琴子(始まりは十五歳)という設定話です。
この設定に拒否感のある方は、ここで読むのをやめてお戻りください。
最初は五歳児設定のため、入江くんの人格に無理があります。
思いっきり原作より逸脱しています。
それを了承の上でお読みください。






広大なる屋敷にいらっしゃったのは、御年五才になられる坊ちゃまでございました。
坊ちゃまのご両親は海外での御仕事のため、屋敷には留守を守る執事と使用人だけで、利発で見目も麗しい坊ちゃまの遊び相手兼教育係として私が選ばれたのでありました。
それは私が十五の歳のことでした。

 * * *

大きな門を前にして、スーツケースを両手にしたあたしは、呼び鈴を押す手が期待と緊張で震えたのを感じた。
時代がかった呼び鈴をゆっくりと押すと、若い男の人の声がした。

『相原琴子さんでいらっしゃいますね』

まだ名乗ってもいないのに、インターホンからはあたしの名前が聞こえた。

「はい、そうでございます」

慣れない言葉を使おうとした挙句、自分でもどうかと思う返答をしてしまった。
どうやらそれは男の人のツボにはまったのか、一瞬だけくくっと笑い声が漏れた。

『…大変失礼いたしました。柵沿いを西側に回っていきますと、裏門がございます。どうぞそちらからお入りくださいますようお願いいたします』

そう言われて初めて気がついた。
使用人は表の門から入ってはいけないのだと。
納得してぐるりと柵に沿って歩き出した。
やけに広い敷地を囲っている柵はどこまでも続く。
西側はどこだろう…。
ようやく曲がり角らしきものが見え、そこを曲がるとまた柵が続く。
裏門までの道のりは長い。
ようやく見つけた裏門の通用口がタイミングよく開いた。

「おいでなさいませ、相原琴子さん。ようこそ入江家へ」
「あ、はい」
「初めまして、執事の渡辺でございます」

今時こういう人もいるんだと思わず口を開けて見てしまった。
黒のスーツ。
そういう言い方しか言えないけど、想像より随分と若い執事だった。

タイミングよく迎えること、それもきっと執事のなせる技なのだろう。
そのまま裏門を閉めて鍵をかけた執事は、あたしを促して歩き出した。

「お持ちいたしましょう」

そう言って出された手は、あたしが両手で持っていたスーツケースを軽々と持った。
そのまま執事の後について歩き出す。

「歩きながらで失礼いたします。
ただいまは直樹様のお稽古の時間でございますので、後ほど、お昼時にお目通しいたします。それまで相原さんには部屋で荷物の整理などをしていただきましょう。
今からご案内がてら屋敷の必要な部分を説明いたしますので、追々覚えてくださいませ」
「はい。あの、執事さん」
「渡辺とお呼びください」
「…では、渡辺さん」
「はい、何でございましょう」
「あの、私を雇ってくださった奥様は…」
「はい、奥様はあれからすぐに海外へお戻りになりましたので、このお屋敷にはいらっしゃいません。
このお屋敷の主はただいま直樹様にございます」
「そう、なんですか」
陽気な奥様と面接をしたのは、ほんの一週間ほど前のことだった。
「相原さんの場合は、直樹様がいっしょであれば表玄関を使用していただきますが、私用の場合は全てこちらのドアからの出入りになります」
「はい」
「後ほど鍵をお渡しいたしますね。その鍵は肌身離さずお持ちください。この屋敷を守る大事な鍵でございます」
「そんな大事な鍵を雇ったばかりの私に渡しても大丈夫なんですか」
「…その質問をする方は、決してこの屋敷を裏切らないものと確信しておりますよ。奥様の見る目を信じておりますので」
「わかりました。その信頼にお応えできるように頑張ります」
あたしは気持ちを新たにして屋敷の中に入った。
渡辺さんに屋敷の中を案内されながら自分の部屋に向かった。
必要な部屋だけ、と言うことだったにもかかわらず、あたしの頭は既に許容範囲を超えていた。
「お父様は、お元気でいらっしゃいますか」
不意にそう聞かれた。ため息をついたのを見られたせいかな。
お父さんのことを尋ねられ、驚いて答えた。
「はい、元気で働いていますし、お店は十分に繁盛していると思います」
お父さんは日本料理の店を営んでいる。
「そうですか。いまだに旦那様と奥様は相原さんを手放したことを時々後悔なされておいでです。海外では腕のいい日本料理の板前は重宝されるので」
「おとう…いえ、父はあの経験があったからこそ、今もなお腕を磨き続けることができるのだと常々申しております」
「そうでございますか。その娘さんがこちらのお屋敷に来ることになるとは。縁というものの不思議を感じますね」
物静かだけれど、そう言って渡辺さんは微笑んだ。
お父さんは若い頃、結婚したばかりの頃の入江夫妻の食事を作っていたらしい。
基本的な和洋中とデザートも全て作れるけど、本当は日本料理の店をずっと開きたかったらしい。
海外でも数年付き添った後、役目を辞退してお店を開いたのだという。
あたしが生まれる前のことだけど。
やっとのことで自分の部屋として案内された部屋に入ると、あたしはほっと息を吐いた。
スーツケースの他にわずかな荷物が置かれた部屋は、今日からあたしの部屋となるのだ。
あたしは今日から坊ちゃまのために生きることになるのだ。




どきどきしながらお昼を待った。
荷物を取り出してはどこへしまおうか考える間に坊ちゃまの姿を想像する。
部屋はあたしには広すぎて、ちっぽけな荷物なんてすぐに片付けられる。むしろ広すぎるので、どこにしまったら使いやすいのか考えるのに費やした。
お腹がぐうっとなる頃、再び渡辺さんが呼びに来た。
他にも使用人はいるようだけど、慣れるまでは、と渡辺さんがじきじきに迎えに来てくれたらしい。
広い食卓には、あたしともう一人の分の席しかない。つまりお坊ちゃんの分だ。
こんな広い食卓で一人きりで食事をするのはさぞかしさみしいだろうと想像する。
あたしはいつも板前さんたちと食事を囲んでいたから。
渡辺さんの先導で男の子が入ってきた。
無表情なその顔は整った顔立ちで、既に五歳にしてお屋敷の当主然としている。

「そいつか」
「そうでございますよ」
「名前は?」
「相原琴子嬢です、直樹様」
「…馬鹿そう」

渡辺さんと坊ちゃまの会話を黙って聞いていたあたしは、思わず「な…!」と口を開きかけて一応思いとどまった。

「相原さん、ご挨拶を」
「は、はい」
あたしは思わず立ち上がって今まさに座ろうとしていた坊ちゃまの傍らに立った。
「初めまして。相原琴子です。今日からいっしょに楽しく遊びましょうね」
しゃがんでそう言ったら、坊ちゃまは一瞬きょとんとした顔をして、それからぷっと吹き出した。

な、なに、あたし変なこと言った?

「渡辺、俺といったい何で遊ぶって?」
「直樹様、その態度は失礼ですよ。相原さんは、私たち使用人と同列にしてはなりません」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「ですから、遊び相手です」
「…必要ない」
「いいえ、必要です。お屋敷には、直樹様と遊べるような者はおりません。ここにおりますのは、直樹様のお世話をさせていただく者達です。
同年齢では当然同じようには遊べないでしょうが、彼女なら、きっと楽しく過ごせると思いますよ」
「ふうん。そんなこと考えたのは、どうせ母だろう」
「はい。もちろんでございます」
「今さらだよな」
「そんなことはございません。前々からずっと人を捜しておりましたが、奥様の御めがねに適う者が見つからなかっただけです」
「へえ。じゃあ、こいつは」
「相原さん、もしくは琴子さん、ですよ」
「…琴子は、俺の暇つぶし、というわけだ」
「その言い方はどうかと…」

呆然と会話を聞いていただけのあたしは、そこでようやく我に返る。

「あの、坊ちゃま」
「…その呼び方やめろ」
「あ、はい、でも、えーと、とにかく、私はお相手をするためだけにこのお屋敷に雇われたんです。嫌がってもお相手いたしますからね」

それだけ言うと、坊ちゃまはこれ見よがしにため息をついて席に着いた。
第一印象、五歳にしてこの気難しさ。
先が思いやられる…。
あたしは顔に出さないように努めながら、食卓の席に戻り、とんでもなく素晴らしい昼食をいただくことになったのだった。

昼食の後、部屋へ戻るという坊ちゃまと一緒に食堂を出た。
自分の部屋へ戻るのに、いくつか角を曲がったらすっかり元の食堂の場所もわからなくなった。
おまけに自分の部屋はうろ覚えだ。
仕方がないので坊ちゃまの後ろをついて歩く。
「どこまでついてくるつもりだ」
そう言って後ろをちらりと見た。
顔はとても可愛い。
可愛いだけに、その愛想のない言葉はとても胸に突き刺さる。
「あの、まだ来たばかりで、お屋敷の中をちゃんと覚えていないんです」
「つまり、自分の部屋がわからない」
「ええ、まあ、そうです」
「おまえの部屋は多分俺の部屋のある階だろう」
「とは言っても、どこも似たようなドアが並んでいて…」
「右に曲がったのか左に曲がったのかすら覚えていないのか」
「…申し訳ありません」
五歳児に叱られて、呆れられて、あたしは面目なくてうつむいた。
「相原さん」
後ろから追いかけてきてくれたらしい渡辺さんが、あたしを呼んだ。
少しほっとして振り向くと、不覚にも涙が出た。
「ど、どうされたのですか」
「い、いえ、何でもありません」
「…直樹様、どうぞこの家を案内がてら、相原さんを部屋に連れて行ってあげてください」
「何で俺が」
「相原さんの部屋は、直樹様のお部屋の右隣にあります」
「隣かよ…」
「そうです。本来ナニーが入るべきお部屋です」
「…ナニーって感じじゃないよな」
「ナニーって何?」
「駄洒落かよ」
「え、べ、別にそんなつもりでは」
本当にそんなつもりではなかったのだけど、改めて口の中で繰り返すと坊ちゃまのいうとおりに駄洒落に聞こえる。
「あら、ホント。あたしって凄い」
「凄くねーからっ」
坊ちゃまはあたしより先に駄洒落に気づいたことがちょっと恥ずかしかったのか、薄っすらと顔を赤くして怒鳴った。
こうして見るとちょっと可愛い。
文句を言われながらも、あたしは坊ちゃまに連れられてようやく自分の部屋へ戻ることができたのだった。




基本的に五歳の坊ちゃまとはいえ、天才児と名高い坊ちゃまの勉強に、あたしは何の役にも立たなかった。
五歳児なのに既に小学生の勉強は難なくこなす。
だから、本当なら幼稚園や保育園に通っている年齢でも普通の子どもとは話が合わないのだと思う。
いったいその頭の中にどんな脳みそが詰まっているのかと思う。
実際に結構何でも知っている。
でも、坊ちゃまの親である入江夫妻はこうも言っていた。
知識で知っているのと体験は違う。
知っていても感じること、実際に目にしたものを学ぶことは大変だ、と。
だからあたしは雇われたのだ。
あたしがお役に立てるのは、世間で流行っていること、一般庶民の生活に関してだ。
執事の渡辺さんは常識のある方だけど、教育するには坊ちゃまに甘すぎるのだ。
坊ちゃまは家の中ではやりたい放題。
ワガママだけど、世間で甘やかされた坊ちゃまのワガママとはちょっと違う。
外へ出るには一人では無理だ。
それは普通の五歳児でも無理だろうけど、親と一緒にスーパーへ行ったり、デパートに行って何かを選ぶという楽しみはしたことがないようだった。
当然のことながら、スーパーでお菓子をねだって泣く子どもに遭遇したこともないし、クリスマスや誕生日にプレゼントにわくわくすることもないようだ。
些細なプレゼントなんていつでも手に入る環境なんだから当たり前と言えば当たり前か。
坊ちゃまはとある企業の文字通り坊ちゃまだ。
誘拐されてもおかしくはない。
周りにはいつもガードマンのような人が付いている。
一見としてそれとわかる人が付いていては、なかなかスーパーも行きにくいだろう。
いや、そもそもスーパーになんて用事はないか。
あたしはお父さんが食材を選ぶためにスーパーへ行くときに付いて行くのが好きだった。
時々は好きなお菓子も買ってもらって、百円でそのとき自分が一番食べたいお菓子を選ぶのも楽しみだった。
このお屋敷では百円のお菓子なんてものは出ない。
専属のシェフがおやつを手作りするのだから、必要ない。
でも、時々はスナック菓子だって食べたくなるのが一般庶民の胃袋だ。
あたしはお屋敷にお世話になって一週間でスーパーへ行った。
ポテトチップスが食べたくなったのだ。もちろんシェフにそう言えば立派な手作りポテトチップスが味わえるだろう。しかも熱々の、今まで食べたこともないようなやつだ。
でも、あたしは袋菓子が食べたかった。
食堂で気取って摘むおやつじゃなくて、部屋に寝転がって漫画を読みながら食べるようなやつ。指に付いたカスをちょっとお行儀悪く舐めてしまうような。
あたしはちょっとだけ外出の許可をもらうことにした。
まずは渡辺さんに許可をもらって、午後の坊ちゃまの休憩時間に素早く行ってくることにした。
渡辺さんはあたしがスーパーに行きたいと言った途端に少しだけ苦笑してうなずいた。
「だめ、ですか」
「いえ、ここに来るお手伝いの80パーセントは、一週間もするとコンビニやスーパーに行きたいと切望するのです」
「…はぁ」
見透かされたような物言いに、あたしは小さくなった。
「いいですよ。その代わり、坊ちゃまに何か買ってきてあげてください」
「坊ちゃまにですか」
「ええ。何でもいいのです。その分の代金はもちろんお支払いいたします」
「いえ、そんなに高いものは近所のスーパーにないはずですけど」
「お使いだとお思いください」
「それはいいんですが、坊ちゃまが欲しいものなんて」
あたしは全く思いつかなかった。
どれを買ってもふんと鼻で笑われそうな気がする。
でも、そこであたしははたと気付いた。
笑われることを前提にしてはいけない。
坊ちゃまには普通の庶民の生活を知ってもらうのも勉強だ。
それは多分本当の庶民のあたしにしかできない。
お手伝いさんたちは、坊ちゃまにあれこれ言える立場ではないと渡辺さんは言っていた。
笑われようが、馬鹿にされようが、坊ちゃまが知らないこと教えるのが役目なのだからとあたしは考え直した。
「わかりました、任せてください!」
あたしは胸を思いっきりどーんと叩いて言った。
思いっきり過ぎて少しむせてしまったけど。
渡辺さんは「…お願いします」と少し笑いを堪えて言ってくれた。
「はい、これはお小遣いです」
そう言って差し出された千円を受け取って、あたしは意気揚々とスーパーへ行ったのだった。



一応スーパーに行く前には坊ちゃまに一言声がけはしておいた。
スーパーに行ってくると言ったら、「いちいち報告しなくていい」だった。
本当は一緒に連れて行きたかったところだけど、それはまたの機会に考えることにして、あたしは早速出かけた。
歩いて十分ほどのところに庶民的なスーパーがある。
本当はもう一つ高級スーパーもあるのだけど、あたしのお小遣いで買えるほうはやはり庶民的チェーン展開スーパーマーケットだ。
お父さんと暮らしていた頃は、夕方によく買い物に行っていた。
このざわめきはなんだか懐かしい。
お屋敷はそれはそれは静かで、周囲の音もあまり聞こえないし、そもそも坊ちゃまは騒がない。
およそ子どもらしくない子どもだけど、それも躾の一つかもしれないとあたしは思っている。
お金持ちのお坊ちゃまは、パーティに呼ばれる機会もあるだろうし、きっとおとなしくしていないといけない機会も多いんだと思う。
きっと庶民と同じようには生きられない。
庶民には庶民の良さがあるのだとあたしは思うけど、坊ちゃまのご両親や周りの方がそう思うとは限らない。
だからあたしは、未だどうしていいのか迷っていた。
坊ちゃまは庶民の生活をほとんど知らない。
加えて、坊ちゃま自身があまりそれを望んでいない気がする。
奥様の言うとおりに庶民の生活を教え込んでいいものか。
あたしは『今日の広告の品』なんかを物色しながら歩いた。
とりわけお菓子コーナーを念入りに見ながら、適当にお菓子をカゴに放り込む。
こうやってカゴに放り込むような買い物も、きっとしたことがないんだろうなぁ。
チラシなんてものも見たことがなかったりして。
チョコレートをコーティングしたプレッツエルなんてものも、厨房のシェフに頼んだら、出来立てのものが出てくるかもしれない。こんなふうに工場で作られた形の整ったものじゃないかもしれないけど。
安物だけど心惹かれる庶民菓子を選んでいく。
もちろんポテトチップスは欠かせないわよね。
あたしは自分の買い物に夢中になって、坊ちゃまへの土産を忘れていた。
いろいろ迷った挙句、ふと目にしたものを手に取った。
こんなもの、あたしの小さな頃にはなかったけど、面白いかもしれない。
あたしはそれを手に取ると、ふふと笑いながらカゴに入れた。
これなら渡辺さんにもらった千円でお釣がくる。
しかも厨房のシェフにはきっと無理よね。
結構かさばってしまったお菓子の入ったカゴを手に、あたしはレジに並んだのだった。

 * * *

「なんだ、これ。食えるのか」
「食べられるのか、ですよ」

すかさず渡辺さんが言葉遣いを直す。
意外にも坊ちゃまは口が悪い。
もちろん言おうと思えばそれはそれは素晴らしく話すこともできるけど、あたしの前ではかなり口が悪い。
それでよしと思われてる感じもあるけど。
渡辺さんも少しだけ不思議そうに見ている。
あたしの買ってきたお菓子は、なんとお菓子なのにお寿司だ。
見た目はお寿司なのに、食べるとお菓子。
しかも自分で作る。
他にも昆虫のグミができたりするものもあったけど、作るのはともかく、あたしが食べるのに躊躇するのでやめた。

「ま、まあ、とにかく、作ってみようよ。
この成分とか作る過程を見ると、きっと科学的で面白いと思うし」
「科学的、ね」

少しだけあたしの物言いに興味を引かれたのか、坊ちゃまはお菓子のパッケージを開ける。
中にはスポイトとか、お皿とか粉とかが入っている。
一通り作り方を見てから、「渡辺、水だ」と偉そうに命令した。

「はい、用意してございます」
「じゃ、じゃーん、あたしの分も買ってきたの」

あたしも気になって、自分の分も買ってきたのだ。
がさごそと同じようにパッケージを開けると、中身を取り出して開けようとした。…が、そこでぱしっと坊ちゃまに手を止められた。

「ちょっと、待て」
「え、だめですか。あ、もしかして俺が先とか言う?」
「ちがうっ。おまえ、作り方も読んでいないだろ。そうして間違えるんだ」
「…まだ間違えてないし」
「いいや。おまえのようなやつは適当にやった挙句、結局失敗するんだ、絶対に」

随分と確信を持って断言されてしまった。
しかも五歳の子に、十五のあたしが。
ちょっと口を尖らせて反論しようと思ったのだけど、作り方を読んでいないことは確かだったので、「そんなに難しくないはずだし」と小さく言い訳しながら作り方を眺めた。
作り終えるまで、何だかんだと口出しされそう。
あたしは何となく作り方を眺めながら坊ちゃまを横目で見た。
坊ちゃまは、あたしがちゃんと読んでいるか、疑わしげに見ていた。
もしこれで間違えたら、すっごくバカにされそう。
あたしは箱をしっかり握って、真剣に読むことにしたのだった。




ぶつぶつ言いながらも、あたしはちゃんと作り方を読んだ。
「えーと、まずはご飯ね」
容器に線のところまで水を入れて…って、水入れにくい…。
「うわっ」
隣で坊ちゃまは冷たい目であたしを見る。
「水が他のところに入っちゃったよ。…ま、いいか。どうせ後でそこにも水入れるんだし」
坊ちゃまはほれ見ろとばかりに自分の分を進める。
よく見れば、坊ちゃまは慎重に付属のスポイトで水を移している。
…な、なるほど。
ご飯は何でできてるのか知らないけど、ご飯っぽく柔らかく仕上がる。
「へぇ、凄い」
あたしは感心してこねこねした後、今度は卵にとりかかる。
卵の粉を入れて…。
どうでもいいけど、この粉を溶かすのも結構難しいかも。

「そんなに勢いよく混ぜたらこぼすぞ」

一応坊ちゃまから忠告が来た。
「え、でも、これなかなか溶けない…」
何とか混ぜ終えると、ぺたぺたと表面を平らにならす。既に固まりつつあるし。
卵の次はマグロだ。
赤い粉を同じように混ぜ混ぜ。

「坊ちゃま、これ、本当にマグロ色になるんですかね」
「…坊ちゃまはやめろ」

むすっとして坊ちゃまは続ける。

参考画像→作りかけ画像

すでに坊ちゃまはのりの素になる黒色キャンディを伸ばしている。
あたしがキャンディを伸ばす頃には既にイクラに取り掛かっている。
う、早い。
イクラの素になるものを溶かした後で、スポイトで吸って、もう一つの粉を溶かした水の中にぽとぽと落とすだけなんだけど。
坊ちゃまは先に終えて、あたしのやることを見ている。
そうじっと見つめられるとやりにくい。
渡辺さんも眼鏡の奥の目を微笑ませながら見守っている。
スポイトを握ると、いくらの素が…。
「あ、あれ」
イクラがどう見て赤い物体Xに…。

「もっと上から少しずつ落とさないからそうなるんだ」

そ、そうか。
あたしは今度は慎重に一滴一滴落とした。
「わあ、凄い!ちゃんとイクラみたい」

参考画像→いくら

あたしは一人で感動してぼたぼたと続ける。
すっかりイクラの素がなくなるまで、作り続けてしまった。
はっと気づくと、坊ちゃまは呆れて見ていた。

「…おまえのために買ったようだな」

あ、えへへ…。
あたしは笑って誤魔化すと、いよいよおすしに仕上げるぞとご飯を手に取った。
むぎゅむぎゅとこねておすしの形にして…。

「…大きすぎないか」

坊ちゃまはあたしの握ったご飯を見てぼそりとつぶやいた。
…そうかな。
ちょっとだけ悩んだけど、そのまま握って置いておく。
その上に卵とマグロを乗せるのだけど…。

「あ、ちぎれた」

固まった卵をスプーンで取り出そうとしたら、柔らかすぎてちぎれてしまった。

「…ちゃんと真ん中で切ってから乗っけろよ」

あたしは坊ちゃまの言葉に思わずポンと手を打った。
「ああ、なるほど。これ一つきりじゃなくて、二つできるんだ。どうりでご飯足りないと思った」
「おまえ、本当に作り方読んだのか…?」
「読みました」
「それなら何で二つできることに気がつかない」
「…そ、そこは読んでなかったか、な…」

あたしの言葉に顔を無表情にして、坊ちゃまは最後の仕上げをした。
茶色の液体を作って、それを先ほどのスポイトで吸い上げて、おすしにかけている。これはしょうゆのつもりよね。
あたしは先ほどの大きな塊になっているごはんをもう一度手に取ると、二つに分けた。
このままじゃ大きすぎるものね。

そうして出来上がった作品を見ると、…五歳児に負けているあたしの作品。
手の器用さなのか、性格なのか。

参考画像→お寿司屋さん完成


「そのどっちもだろ」

ボソッと響く声にあたしは軽く睨む。
気を取り直して、あたしはおすしをつまんだ。
「いっただきまーす」
当然一口で口に入れると、おすしのような見かけなのに妙に甘ずっぱい匂いのする卵をかみしめる。
う、これは…。

「えーと、これって、グレープ味、だっけ」

箱の表示を改めて見直す。

「………渡辺、これやる」

一口食べて坊ちゃまは残りを渡辺さんに差し出す。
あたしのは多分坊ちゃまよりまずいかもしれない。
粉っぽさが口に残る。よく混ぜなかったせいかもしれない。
グミのような、それでいてキャンディっぽい味わい。
でもこれが添加物なしって凄いよね。

「味はともかく、これで無添加って凄いよね。色とか、形とか」

気を取り直すように坊ちゃまにそう言うと、坊ちゃまは箱の表示をじっと見て言った。

「…味を否定したな」
「え、いや、大人にはちょっと甘いかなとか」
「誰が大人だよ」
「………十五歳は大人料金です」
「未成年には違いないだろ」
「でも、もったいないから全部食べます。坊ちゃまだってずるいじゃないですか」
「坊ちゃま言うな。直樹だ」
「もう、今そんな細かいこといいじゃないですか、直樹坊ちゃま」
「…もういい」

五歳児に似合わないため息をついてから、用事は終わったとばかりに席を立つ。
うーん、口に合わなかったか。
ただ、出て行った部屋からは、お菓子の箱がなくなっていた。

「あれ、箱、どこいったかな」

片付けようと思ったあたしは、周りをきょろきょろと見渡す。
渡辺さんはにこにこしながらおすしを眺めて、口に入れている。

「…直樹様が、お持ちになったんではないかと思いますよ」
「箱を?」
「ええ。興味をお持ちになったのだと思います」
「そうですか」
「非常に興味深いものをありがとうございました」
「…いえ」
「琴子さんが買ってきてくださらなければ、一生口にすることもなかったかもしれません」
「そ、そうですか」

少し失敗したかなと思ったのに、渡辺さんはあたしを持ち上げるようにそう言ってくれた。
そして、坊ちゃまが作った作品を、渡辺さんはとてもうれしそうに見ていた。

To be continued.