坊ちゃまとあたし




46


職員会議で遅くなると、坊ちゃまの機嫌が悪い。
坊ちゃまはまともな部活に入っていない。
すぐに帰っている。
帰って何をやっているのかと言えば、とりあえず宿題。もちろんそんなの考えもせずにすぐ終わるらしい。一応提出しないと成績に響くものね。
それから何やら難しい顔をしてパソコンに向かっている。
時にはイギリスにいるおじさまと話していることもある。どういう仕組みなんだろう。
そんな毎日を送っているせいか、あたしの生活の乱れが気になるのかしら。
あたしは要領が悪い。
悪いから、指導要綱なんかもなかなか仕上がらない。それは実習の時からわかっていることだけどさ。
おまけに集めたノートやテストなんかもある。
中学になると、小学生のように簡単ではない。

今日も居残ってノートの一つ一つに赤を入れていると、隣で同じように居残っていた啓太が大きく伸びをした。
「まだやってたのか」
「う、うん。でもあともう少しだから」
「早くやっちゃえよ」
「そうね」
それだけの会話の後、啓太は帰らずに何かやっている。
なんで帰らないのかしら。
あたしはようやく終えて机の上を片付けると、ノートを机の引き出しに入れて鍵をかけた。
こうでもしないと情けないことに、あたしはどこへやったのかもわからなくなるからだ。最近は個人情報も厳しいし。おまけにお金持ちの坊ちゃま嬢ちゃまたちだし、慎重に行かないと。
携帯を取り出すと、電話をかける。
『はい』
「琴子です。今から帰ります」
『無事にお帰りくださいませ』
それだけのやり取りで、あたしは早速職員室を出ることにした。
今日は幸い他の先生も残っていて、あたしは戸締りをせずに済むようだ。
「帰るか」
啓太も荷物を持って帰るようだ。
あたしたちはなんとなく一緒に玄関まで行き、靴を履き替える。
「そう言えば、啓太は何で通っているんだっけ」
「おいおい、もう四月も終わりだぞ。今まで何見てんだ」
「え、だって、それほど一緒になる機会もないし」
「これだよ、これ」
「ああ、自転車」
「本当はバイクでも欲しいところだけどな。もう少し金貯めないと。でもバイクと言ったら教頭にちょっと嫌な顔されたんだよな」
「危ないから、かしら」
そんな会話をして校門を出ようとしたところ、見慣れた車がやってきた。
「あ、来た」
「おい、お迎えかよ」
「うーん、何かの用事があるときなんかについでに乗せてくれるくらいだから、毎日じゃないわよ。それに今日来るとは言ってなかったし」
「へー、さすが金持ち」
「あたしはお金持ちじゃないわよ。そりゃコネかもしれないけど」

「琴子さん、どうぞ」
運転手がドアを開けて待っているので、啓太に「それじゃあね、鴨狩先生も気を付けて」とだけ言って、あたしは遠慮なく車に乗り込んだ。
初めは遠慮していたんだけど、それをすると運転手の人が逆に叱られてしまうとわかったから、迎えに来てくれた時は遠慮なく乗るようにしたの。
「鴨狩先生…か…」
そんな声も聞こえてあたしは振り向いたけど、その瞬間に車のドアが閉まった。
入江家まではほんの短い距離で、すぐに着いてしまうから、こんなお迎えはぜいたくと言えばぜいたくなんだけどね。

入江家に帰り着くと、あたしは急いで裏口に回る。
さすがに表から入ったりはしない。
裏口の鍵を開けると、そこには居残っていたシェフがいた。
いついかなる時も用意ができるように当番のシェフは残っているのだ。
夜遅くにおじさまが帰ってきたり、突然来るお客様のためでもある。
「お帰りなさい、琴子さん。すぐにお食事を用意しましょうね」
「いつもすみません。後は自分で…」
「失礼ながら、結構です。料理は私に、運ぶのは当番の女中にお任せください」
きっぱりとシェフは言った。
ああ、はい、あたしがやるとかえって手間なのね…。
「さあ、いつものようにモリモリと食べてくださいよ。今日は琴子さんの好物のはずですから」
「はあい」
あたしはそう返事をして、急いで部屋に戻る。
荷物を置いて、坊ちゃまの部屋に向かう。まだ起きているはずだけど。
「坊ちゃま、ただいま帰りましたよ」
部屋をノックすると、意外にも今日は中から自分で開けてくれた。
「意外に早かったな」
「そ、そうですか。ちょっとは慣れてきたのかな」
「で、鴨狩先生と一緒だったって?」
「え?ああ、うん、偶然一緒になって」
「偶然ね」
「でも暗い夜道だし、誰もいないよりはマシかなとか思うけど」
「あいつのほうが危ないんじゃないか」
「へ?」
「いいから、夕飯食べてこいよ。おまえの好物だってシェフが張り切っていたからな」
「うん、そう言われたから楽しみ〜」
「俺の好物作る時よりも張り切ってやがる」
「だって、坊ちゃまはめったにほめないし、表情変わらないから、作りがいないんじゃないのかな〜」
笑ってそう言うと、坊ちゃまはふんとばかりにあたしを追い払った。
身支度を整えて食堂に行くと、今か今かと待ち構えていたように夕食が出された。
いつも本当においしくて、あたしはこの家に来てからダイエットなんて考えることすらできない。
渡辺さんが様子を見にやってきた。
「お帰りなさいませ、琴子さん」
「ただいま、渡辺さん。いつも遅くなってすみません」
「いえ。きょうの坊ちゃまの様子はいかがでしたか」
「えーと、数学の小テストも満点ばかりだと絶賛されてました。お弁当は、今日は一人で食べていたみたい。あたしが昼休みに会議があって抜けられなくて」
「そうですか」
「そう言えば、おばさま、今度は本格的にイギリスに戻るんですよね?」
そう聞くと、渡辺さんは「はい」とうなずいた。
坊ちゃまの中学入学を見届けた後、今もイギリスのおじさまのもとに裕樹坊ちゃまごと渡航中で、長期滞在のめどがついたら、今度は半年とか一年とか長い間いなくなってしまう。
屋敷はまたもや坊ちゃまとあたし、それからお屋敷で働く人たちだけに。
「さみしいなぁ」
「そうですね」
「坊ちゃまもさみしいだろうな」
「…そうですね」
珍しく返事に間が空いて、あたしは首を傾げた。
渡辺さんは少し笑って、付け足した。
「琴子さんがいらっしゃるのであれば、直樹さまは大丈夫でしょう」
「そう?そうかな」
あたしは渡辺さんの言葉に気をよくして、おいしいご飯をモリモリ食べて、当番のシェフを喜ばせたのだった。







47


中間テストや期末テストもあっという間に過ぎ、坊ちゃまはもちろん学年一位のまま、一学期が終わろうとしていた。
これと言って何かあるわけでもなく、夏休みがやってくる。
ところが、学校の先生ってば、夏休みも仕事なのよー!何でー?!
あたしは途中から頼まれたテニス部に顔を出すことになった。でも、正直ちっとも役に立たない。
まず、ルールがよくわからない。
確かに坊ちゃまがかつて教えてくれたわよ。
テニスラケットだって、テニスウエアだって、ちゃんと持ってるし、夏は清里の別荘で一度くらいはテニスで優雅にってやってみたわよ。
ああ、そうそう、テニス部にも入ったことあったわ。ついて行けなくて、教育実習の準備が忙しくて、おまけに坊ちゃまに難色を示されて行けなくなっちゃったんだけど。
難色というのはこれはまた遠回しな言い方なんだけど、行くなとも言えないし、行ってほしくないという希望をやんわりと渡辺さんが伝えた結果、ということなんだよね。強要したら、教育係で居候してるからってあたしの自由を奪うのかってことになりかねないけど、坊ちゃまが行ってほしくないってことだから、きっと何かあるんだろうって思ったの。さみしかったのかしら。
お屋敷にだってテニスコートくらいあるし、練習しようと思えばいつだって使えるわ。だけど、あたしはちっとも上達しなかった。
反対に坊ちゃまは、その腕を見込まれて、テニス部の助っ人に。
でも、坊ちゃまも忙しいので、滅多に出てこない。
試合も滅多に出ないし、気が向いたときしか行かなくてもオッケーなの。なんて好待遇。

「暑いから気をつけろよ」
そう言って啓太はグラウンドに向かう。
啓太は張り切ってサッカー部の顧問として、大声を張り上げている。
そのせいなのか、今年の斗南はサッカーがそこそこ強い。
あたしは自分の道具を一応持って、テニスコートに向かった。ま、道具なんてほとんど使わないんだけど。
しばらく練習させたら、暑さで倒れないように水分を取らせて注意しなければならない。
あたしは時間を見て声をかけるようにしていた。
テニスコートって、ほとんど日影がない。
時々は気分の悪くなる子なんかもいて(主に一年生)、それも気をつけなくては。
ところがその日、あたしは少しだけ寝不足だった。
一学期のまとめをして、新学期に向けてもう指導要綱をまとめなければならなかったからだ。
他の先生の締め切りはもっとずっと先なんだけど、あたしだけ異様に早いのは、出来が悪いからなんだよね。
そんなふうにちょっと暑いなぁと思いながら新学期のことを思っていたら、なんと珍しく坊ちゃまがやってきた。
「キャー、入江君よ!」
「ああ、入江君、よく来たね。早速ちょっとお相手を…」
先輩であるテニス部の三年生がこの歓迎だもの。さすがよね。
女の子には黄色い声を上げられ、ちょっとした妬みと尊敬、うらやましさの混じった視線を受けている。
坊ちゃまはテニスラケットを出しながら、あたしをちらりと見た。
「ぼ…じゃなくて、入江くん、さすがに今度の試合の練習?」
「…琴子」
「ちょ、学校ではちゃんと先生って…」
「昨日、何時に寝たんだ」
「え?えーっと、その、何時だっけ。って、今そんなこと関係ないでしょ」
「ちゃんと水飲んだか」
「飲んでるわよ。でもそれほどのど乾いてないし」
「本当に?!」
「大丈夫です!」
そう言って立ち上がった瞬間だった。
「あ、あれ、世界が斜めに…」
「何言って…琴子!」
どさりという音を聴いたのは、確かに自分の耳だったのだけど、人の声は遠く、あたしの目の前は真っ白だ。
「どうしよう、目が見えなくなっちゃった〜」
「何言ってんだ、おまえが倒れたんだ!だから言っただろ、早く寝ろって」
「坊ちゃま、あたしがいなくなっても…」
「琴子!くだらないこと言ってんじゃねー!」

「どけ!」

あたしの世界はゆらゆらと揺れだして、やがて本当に何も感じなくなった。

 * * *

「あ、あの、お騒がせして申し訳ありません」
「全く、監督の先生が倒れちゃ話にならないだろ」
目覚めたあたしがいたのは、保健室のベッドの上だった。
そばにいたのは坊ちゃまだったけど、あたしを心配してくれたのか、部活も終了というところでやってきたのが啓太だった。
誰があたしを保健室まで運んだのかと言えば、当然啓太で、目覚めるまで見守ってくれた坊ちゃまは能面のように黙っている。
…こ、怖い。
言いつけを守らなくて怒られる寸前の子どものようにあたしは怯えた。
「熱中症かと思えば、寝不足かよ。ま、暑くてまいったのもあるんだろうけど。今度からは気をつけろよな。まだまだ暑いぜ」
「あ、はい、ありがとうございました、運んでくれて」
「じゃあな。今日はもう帰れよ」
そう言って啓太は戻っていった。部活が終わったままのかっこうだったから、本当に申し訳ないことをした。
あたしが目覚めたのを機に、坊ちゃまは静かに言った。
「帰るぞ」
「あ、ぼ、坊ちゃま、その、ついててくれて、ありがとうございました。そ、それから、ただの寝不足で、すみません。気をつけますから」
あたしがやっとのことで言うと、「別に」と坊ちゃまは不機嫌な様子で言った。
「運んでもらったお礼も言わずに帰れないだろうと思って」
「…坊ちゃまが運んでくれたかと思った」
そんなわけないか。結構背が伸びてきたとはいえ、まだあたしの背丈に追いつくかつかないかくらいだもの。
「…無理だった」
「うん、ごめんなさい」
「…重すぎて」
「う…それはごめんなさいね!」
あたしがふくれてそう言うと、坊ちゃまはあたしを見てようやく少し笑った。
「渡辺に運ばせようかと思ったけど」
「うん。でもそれもちょっと…」
恥ずかしいよ、それも。だって、重い!とか思われたら…。
あ、啓太も重かったとか?!
うわあ、あたし、ダイエットでもしたほうがいいかしら。でも、お屋敷の食事、おいしすぎて残すなんてもったいないし。
「…琴子」
「はい?」
「おまえなんかすぐに抜いてやる」
「な、何を?大食い?」
「…何言ってんだ」
「え?違うの?」
「おまえなんかすぐに見下ろしてやるからな」
「は、はあ。すでにいろいろ見下ろされてますけど。えーと、楽しみにしてますね」
何だかよくわからないまま、あたしはそう言って坊ちゃまに笑いかけた。
坊ちゃまは腕を組んでふんとあたしを見ている。
でも近い将来、偉そうにあたしを見下ろした坊ちゃまが、あたしにあれこれ命じている図が容易に想像できて、あたしは思わず目を瞬いた。
目の前の坊ちゃまが、一瞬、渡辺さん並に成長していて、これまたとんでもなくきれいな顔で、意地悪な、それでいて楽しそうな表情をして立っていたように思えた。
それは何年後だろうか。
成長著しい坊ちゃまは、きっとそう遠い未来のことではないだろう。
その時あたしは…どうしているだろうか。
…できることなら、坊ちゃまのそばで成長を見守っていられたら。







48


夏休みも過ぎ、斗南中学は体育祭の時期になった。
小学部の時は何となく過ぎ去った運動会。
だって、坊ちゃまってば、適当なんだもの。
あたしの時のようにダンスに一所懸命なわけじゃないし(それでもちゃんとやっていただけマシってところ)、今は徒競走じゃなくて全員リレーだとかで、坊ちゃまの真の実力はよくわからない。多分速いんだろうけど。
何で坊ちゃまはあれこれ面倒そうなのか。
おばさまに聞いたところによると、小さいとき…というか、まだ坊ちゃまが嬢ちゃまだったとき(ふふっ、これ言うと怒られそうだけど)、それはそれは何でもできる素晴らしい子だったのだという。
いや、今でも何でもできるけど、何でもできることを隠したりはしなかったという。
言われるがまま、ピアノも勉強も皆の前で披露することに躊躇がなかったのだと。
それが、いつからか、坊ちゃまは屋敷の中で閉じこもりがちになり、おばさまたちのいるイギリスへ行きたがることもなく、ただ淡々と物事をこなすようになった、らしい。
あたしが来た時はすでにそんな坊ちゃまだった。
嬢ちゃまの姿から坊ちゃまの姿になった理由はわかったけど、それも別に坊ちゃまが悪いわけじゃない。
それに関してはおばさまは、悪いとは思ったけどかわいかったのよ〜と言っている。ちょっと罪なおばさまとかわいそうな坊ちゃま。
多分、嬢ちゃまから坊ちゃまの姿になった後にさらに何か嫌なことがあったに違いないんだけど、今はもうそれも追及しても仕方がない。
この先、坊ちゃまが何かに興味をもって続けていけるなら、それに越したことはないのだと思う。
もちろん社長であるおじさまは、坊ちゃまがいずれ会社を継いで経営してくれることを望むのだろう。それくらいの価値のある会社だ。
幸い坊ちゃまは利発で、今はイギリスにいる裕樹坊ちゃまだってなかなかお利口な子だった。
兄弟二人で会社を盛り立ててくれれば、と思う親心はわかる。
坊ちゃまもこのままいけばきっと会社を継ぐのだろうってことは思っているだろう。
でもそれが坊ちゃまのやりたいことである可能性は…どうだろう。
あたしはそこまで坊ちゃまに聞いたことはない。
それは、あたしの役目だろうか。
教育係兼遊び係だと言われていたあの頃の肩書は、今でも有効だろうか。
今はただ、こうやって間借りしている同居人という感じになってしまっているあたし。
学校で坊ちゃまの姿を見守るのもあたしの役目ではあるけど、もしかして坊ちゃまの将来を握っているのかも?!

「…おい琴子、またろくでもないこと考えてるだろ」
「いえいえ、そんな、坊ちゃま」
「そういう返事をするときは一番怪しいな」
「そう言う坊ちゃまは、今度の体育祭、ちゃんと、できる限り、がんばってくださいね」
「…誰が得するんだよ」
「クラスの皆ですよ!」
「…くだらねぇ」
「そんなこと言わずに!坊ちゃまが百メートル走で予選通過してくれれば、それだけクラスに点が入るんですから」
「陸上部のやつらばっかだろ」
「大丈夫ですよ、坊ちゃまが本気出せば」
「それなら、本気出して予選通過したら、何かおまえは俺に対する褒美をくれるんだろうな」
「ほ、褒美…?」
坊ちゃまがにやりと笑った。どうせ無理だろという顔だ。
「えーと、教科で特別いい点をつける…のは教師としてちょっと…というより坊ちゃまそんな必要ないし。えーと、勝利のご褒美って…なんだろう」
「ほらな」
「えーと、えーと、わかりましたよ!何か…何か考えておきますから!」
「へー、楽しみにしてる」
坊ちゃまはほとんど棒読みのようにそう言うと、坊ちゃまは「後は邪魔すんなよ」と言い置いて部屋に入っていった。
廊下に残されたあたしは、ひたすら考えていた。

えーと、坊ちゃまに褒美って…何?

その疑問には、誰も答えてくれなかった。







49


坊ちゃまと約束させられた体育大会まであと少し。
学生の時はあまり気にしなかったけど、学校って次から次へと行事があるのよね。
体育大会とかが済めばすぐに中間テスト。
その後はマラソン大会だっけ。
それから期末テスト。
冬休みがあって、全国テストがあって、受験生は本格的に受験の準備で。とは言っても斗南は大半の生徒が付属高校に進学する予定だけど。
あたしは行事一覧表を見ながらため息をついた。
クラス担任ではないから、そこまでクラスの行事に力を入れる必要はない。
その代わり、準備運営に駆り出される。
いろいろなものを運んだり、設営したり、あたしはせっせと準備をしていたけど、ラインマーカーで線を引くのがどうしてもうまくいかなかった。
「先生、先生、曲がってますって」
通りすがりの実行委員の生徒に注意される始末。
その生徒だって他にやることがあって、じゃあお願い、と言えるような暇はない。
「うーん、どうして曲がるのかしら」
微妙に曲がった線を見ながらあたしはラインマーカーの調子が悪いのかと思った。
「おいおい、道具のせいにするなよ」
そう言いながら啓太があたしが持っていたラインマーカーをひょいっとつかんだ。
「相変わらず不器用だな。どうせできないんだったら他の先生に任せれば」
「そ、それはちょっと。他の先生だってみんな忙しそうだし」
そう言うと、啓太は器用に一気にラインを引いてしまった。
「うーん、さすが。ありがとう、鴨狩先生」
「いいえ、どういたしまして」
啓太はラインだけ引くとさっさと行ってしまったけど、それを見ていた女生徒は「鴨狩先生ってちょっとかっこいい」と話題になっていた。
「ね、そう思うでしょ、相原先生」
「あー、うん、そうね」
そう曖昧に答えたつもりだったのだけど。


「相原先生、鴨狩先生とはいつから付き合ってるの?」
「はい?」
体育大会の朝、あたしは出勤した途端に同じ一年生の担任の先生に聞かれた。
「付き合うってどの付き合うですか」
真面目に答えたあたしに「またまた〜。噂になってますよ、生徒の間でも」と肩を小突かれた。
「う、噂って?え?あたしと鴨狩先生が?どうして?」
「違うの?」
「ち、違います!誤解です、誰がそんな噂を」
「あら、違うの。お似合いだと思うんだけどな」
「確かに教生の時も一緒でお世話になって気安いですけど」
「残念。でも結構噂になってるから、大変よ、これから」
「やめてください、そんな」
あたしはそんな噂があるなんて知らなかった。
だいたい最近はいろいろ忙しくて、坊ちゃまとだってまともに話してもいないのに。
…はっ、坊ちゃま!
やばい。
何だかわからないけど、怒られる気がする。
こんな噂流れてると知ったら、入江家の恥よね。だって、付き合ってないんだもの。
ちゃんと付き合っているなら噂くらいどうってことないだろうし、仕方がないってことになるけど、ただの噂でここまでからかわれるようじゃ、坊ちゃまの耳にも入って、ふしだらな噂が流れる家庭教師兼遊び係なんてお払い箱に…。
「坊ちゃまに怒られる…」
そうつぶやいてあたしが青ざめていたら、その噂話を教えてくれた先生は、「あー、入江くんね、そう、怒られちゃうのね」とちょっと同情してくれた。
「だって、坊ちゃま…じゃなかった、入江くんって怖いんですよ」
「ああ、もう今更いいわよ、坊ちゃまで。今までだって結構呼び間違えてるから」
そう言って笑っているけど、話は聞く気満々だ。
「居候だからって門限にはうるさいし、あたしの指導要綱こっそり見てダメ出しするし」
「家を出れば解決じゃないの」
「それはちょっと。一応保護者代わりですし」
「いや、どちらかというと入江くんの方が…」
「とにかく、誰かに同じこと聞かれたら、全力で否定してください!」
「え、あ、うん」
「全力でお願いしますね」
「わかった、わかった」
そう言った会話をした数時間後、あたしはさらに噂を盛り上げるようなことをしでかしたのだった。







50

体育大会は、滞りなく進んでいく。
思ったよりもスムーズでびっくりしたくらい。
ちなみに坊ちゃまはどれか一つは出なくちゃいけないので、すぐに終わる百メートル走を選んでいた。
あっという間に終わって、陸上部とかがだいたい決勝に上がるくらいで、そのほかの生徒はあまり注目もないという理由で。
確かに坊ちゃまは本気で走れば速いと思う。
でも本気で走らないからね。
クラスの皆にも練習の時はあれこれ言われていたけど、さすがの天才も足までは速くないかとか、あたしが悔しくなるようなことを言われても平気なの。
保護者もセキュリティの関係で事前申請しないと見られないとかで、渡辺さんも坊ちゃまに来るなとか言われていて、断念したそう。
でもあたしはこっそりビデオ撮っちゃうもんね。
人波に隠れて、本部横でこっそり坊ちゃまにわからないようにしてビデオを構えた。
ビデオはおばさま仕込みよ。
坊ちゃまは予選がぎりぎり落ちるくらいのところを狙っていたらしく、今までの練習も決勝に上がる寸前のタイムに調整したりなんかしてるの。何だか一所懸命走ってる子に失礼な感じよね。
そんなあたしの小言もろくに聞いてなかった坊ちゃまだったんだけど、百メートル走を前に声をかけたら、思いっきり無視された。
これって、あの噂のせいかしら。
あたしはちょっとそれ以上突っ込めなくて、無視されたまま見送ってしまった。
もちろん聞いてくれたらあれは噂だって言えるんだけど、今この時点であれは噂なのよなんて言ったって、坊ちゃまはそれがどうしたふーんて感じだろうし。それがただの噂なのは坊ちゃまが一番知ってるだろうし。
いや、つまり、あたしに付き合う暇なんかないし、坊ちゃまが言うにはバカ正直なあたしがそれを隠せるわけもないと思うの。
それなのに無視ってひどいわよね。
というわけで、あたしは坊ちゃまをビデオのレンズ越しにとらえていた。
あともう少しでゴールというときに、ビデオの前を通り過ぎた人がいた。
あー、肝心なところが!
「もう、誰よっ、せっかくのベストショットを!」
そう言ってビデオから目を外すと、「ああ、悪い」と啓太が謝ってきた。
「もう、せっかくおばさまに坊ちゃまの晴れ姿を見せようと思ってたのに」
「悪かったって」
「もう、だいたい変な噂まで出回ってるし」
「あ、ああ、あれな。大丈夫、ちゃんと否定してやるから」
「…お願いね」
そう言うと、啓太は苦笑した。
そうだよね、啓太だって困るよね。

体育大会も大詰め。
メインは各クラス対抗リレーだ。
これにはなんと教師チームも参加だったりする。
体育教師だけでは人数も足りないため、若い教師は否応なくチームに入れられていて、あたしも出ることになっている。
あたしだってそれほど足が速いわけじゃないけど、他の教師だってそれは同じわけで。
いざ始まると、そりゃもうすごい盛り上がりだった。だって、これがクライマックスだもんね。
教師チームの最後の方でバトンが回ってきたのはいいけど、意外に他の先生も頑張っちゃって、生徒たちの声援の中なんと三位。
え、ちょっとこれって、もしかしてあたしが転んだり失敗したら順位がすぐに入れ替わるくらい接戦よね。
しかもアンカーの啓太が頑張ったら、もしかしてもしかしたら一位も取れちゃうんじゃないかってくらい。
やばいわ、やばいわよ。
あたしは興奮して真っ赤だった顔色が青くなるのを感じた。
遠くに琴子センセーイと聞こえた声援を最後に、あたしは必死に走り出した。
バトンを落とさないようにひたすら走る。
とりあえず順位さえ落とさなければと必死で走った結果、啓太には何とかバトンを渡せた。
「啓太!」
「おう!」
渡し終えたあたしは、足の力が一気に抜けてその場で転がった。
後続の生徒もいるから、その辺にいた生徒たちに引きずられるようにしてコースアウトさせられた。
もうダメだ〜。
うっすらと意識の遠くで歓声が上がっていたのがわかったけど、土ぼこりにまみれたまま転がっていた。
「先生、琴子先生、退場ですよ」
生徒の一人がそう声をかけてくれたけど。
うう、立ち上がれない…。
『おや、相原先生、あまりの激走にいまだ立ち上がれない様子です』
そんなアナウンスで生徒たちが爆笑しているのがわかる。
のろのろと立ち上がりかけていたら、そこに手が出てきた。
「ほら、邪魔になるぞ。おまえのお陰でちゃんと三位キープしたんだ。まあ、ちょっと三年生のクラスには負けたけどな」
そう言って啓太が笑った。
「そっか、よかった」
あの歓声は一位じゃなかったけど、少なくともちゃんとそのまま三位でゴールできた快挙だったわけだ。
啓太の手を借りて立ち上がり、なんとか退場できたあたしだった。
『先生チーム頑張りました。今、アンカーを走った鴨狩先生の手によって支えられ、満身創痍の相原先生も退場です』
あたしはがんばった。
うん、頑張った。漢字で言っちゃおう。
でも、これが噂をさらに盛り上げたことにあたしは気づかなかった。
美しい友情じゃないの。
でも世間から見れば男と女で、しかも噂の二人となれば。

あの二人、付き合ってないなんて嘘でしょ?

噂が噂を呼ぶ。
でもあたしは翌日、筋肉痛で出勤どころじゃなかった。
いいや、学校休みだし。
そう思って自主的に休みにした日曜日、一本の電話が。
「琴子さん、鴨狩様よりお電話が入っております」
「はいって、何の用事だろう。って、あいたたたた…」
この部屋に個別の電話はない。
昼間はほとんどいないし、逆にお手伝いさんたちがメッセージを受け取ってくれる自宅電話の方が何かと都合がいいので、かかってきた電話はコードレスで受ける。
部屋の外から声をかけてくれたので、全身筋肉痛の身体を動かして、なんとか部屋のドアを開けて電話を受け取った。

『悪い』
開口一番啓太がそう言った。
「何が?って、いたたた…」
『…筋肉痛か?』
「うん、全身ね」
『だから今日はいなかったのか』
「そう。で、何が『悪い』なの?」
『それが…』
「何?」
『お、俺は、ちゃんと否定したからな」
「…うん?」
『…詳しくはまた明日来たら…わかる、から』
珍しく歯切れの悪い啓太の言葉になんだかよくわからないまま、あたしは「うん、わかった」と返事をして、電話は切れた。

結局、どういうこと?

あたしはコードレスの電話機を返すと、またベッドに転がった。
「あたたたた…って、あたしはケンシ○ウかって」
そんな自分にツッコミを入れたところであたしは考えた。
明日になったらわかるって?
ケンシ○ウなだけに世紀末が来るぜ!とか?
いや、それはシブガ○隊だっけ?
えーっと、何だっけ…。
えーっと…。

あたしの思考は寝息とともに沈んでいったのだった。






To be continued.