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「今日から三週間皆さんと一緒に過ごすことになった教育実習の先生方を紹介します」
あたしはど緊張していた。
だって、壇上に上がったことなんて、卒業証書もらうときだけだし!
体育館が一望できるその壇上で、次々に教育実習生が紹介されていく。
「次は五年A組、相原琴子先生」
あた、あたしだ。
「よ、よろしくおねひゃいします」
途端に沸き上がる笑い声。
舌、噛んだ!
うー、恥ずかしい。
「お、おねひゃいって…」
隣でなかなか精悍な顔立ちの実習生が笑いを堪えている。
あたしは真っ赤になりながら下を向くしかできなかった。
先が思いやられる…。
教室では、先ほどのおねひゃいが効いたのか、A組の割には気さくにみんな声をかけてきてくれた。
坊ちゃまは一人窓際の席で窓の外を見ながらぼんやりとしている。
あたしの担当は国語だけど、今日は初日なのでA組の先生の授業を見ていることになった。
二時間目が終わると、少し長い休憩がある。
他のクラスは元気に外に出ていくようだ。
あたしの隣で笑いを堪えていた実習生は、どうやらC組の担当で、児童たちと一緒に外へ行ったようだ。すごく熱血…。
「相原先生、家は入江くんと一緒って本当ですか」
「え?えーと、それは秘密です」
「同じ家だから入江のやつ、成績いいんだろ」
「ち、違うわよ!ぼ…じゃない、入江くんは、もっのすごく頭がいいんだから、あたしなんかが教えなくても天才なのよ!」
あたしの勢いに、児童は引き気味だ。
…しまった、力入りすぎた。
坊ちゃままで驚いてこちらを見た。ご、ごめん、坊ちゃま。
男の子からは頭がいいというだけで妬まれるようだ。
「ねぇ、先生。家での入江くんて、どんな感じですか」
「え、そ、それは…」
家でもこんな感じですが…っと、それは言うわけにはいかないか。
「さ、さあ、よくわからないな」
とりあえず誤魔化した。
女の子は少し不満そうだけど、坊ちゃまが嫌そうな顔をしながらも何も言わないので、とりあえずセーフのようだ。
それにしても、さすが女の子はおませさんだわ。かっこ可愛い坊ちゃまは、女の子に人気があるようだ。
いけない、いけない。
あたしは確かに坊ちゃまの家の使用人だけど、ここでは先生。特別扱いはいけないわよね。
でもついつい視線を向けてしまうのは仕方がないと思うの。だって気になるし。
その日は何とかそれ以上失敗をせずに終わって、あたしはほっとした。
子どもたちは生意気ながらもそれなりに可愛さもあって、なんとかやっていけそうな感じ。
放課後になると、今日の反省について日誌を書かなければならない。あたしは頭が今一つなのは自覚しているので、当然のように明日からの実習計画表にもチェックが入ってやり直しもある。
基本自分の科目をちゃんとやればいいのだけど、見学となると自分の科目だけとはいかない。小学校だしね。
他のクラスも見学に行ったりするので、スケジュールはいっぱいいっぱいだ。
毎日日誌と格闘するので、他の実習生にはすぐに覚えられてしまったようだ。
そのうち一人は滅茶苦茶きれいな人…と思ったら、女のような男だった。えーと、つまりオカマちゃんってこと?
「失礼ね、ちょっと間違えて男に生まれてしまっただけよ」
…だそうな。
よく子どもたちにあれこれ言われなかったわね。
そして、やや派手めの…。
「あー、結局先生にいい男なんているわけないか〜」
就職のために来たのか、結婚相手を見つけに来たのかよくわからない感じ。
「子どもって、とってもかわいいわよね」
これこそ理想!という感じのかわいい実習生もいる。
「そっちのクラスはあまり外で遊ばないんだな」
そう言ったのは、あたしのことを笑った熱血君。
あたしと熱血君が五年生。
オカマちゃんが六年生。
派手めな人が四年生。
理想の人が三年生だったりするので、教えてもらうわけにもいかない。
かろうじて熱血君があたしの実習計画を見てすかさずダメ出ししたくらいか。
ああ、前途多難とはこのことね。
三週間、やっていけるかしら。
でもそう思った瞬間、坊ちゃまのバーカという声が聞こえてきそうだったので、あたしは意地でもちゃんと実習をやり遂げると決心したのだった。
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すぐにA組での授業も始まったけど、これは散々だった。
さすがに五年生で漢字の読みができないほどではなかったけど、さすがのA組。ちょっとした質問が小学五年の域を超えていて、毎日がゆううつなほど。うっかりゆううつなんて言おうものなら、漢字で書けるかと問われた。ゆううつなんて漢字で書けるわけない!そもそも学校で習う漢字じゃないし!
唯一張り合えるのは体育。若さゆえの賜物よね。
「えー、入江先生って、体育の先生ならよかったのにね」
そう言われたらちょっとだけうれしくなって「そう?」と言ったら、すかさず言われた。
「だって、体育なら難しい漢字も書かなくてもいいだろうし、とりあえずドジでも運動できればオッケーって感じ?」
そ、そりゃちょっと黒板に書く字を間違えたりもしたけど。
毎日あれこれと質問されて、答えに詰まって、担任の先生にフォローされて、子どもたちに笑われて、楽しいんだか苦しいんだかわからないくらい。
ちなみに坊ちゃまは、授業ほとんど聞いてない。
いや、ちゃんと前を向いているし、教科書も広げてるし、ちょっと意地悪でいきなり質問をしたりしても答えるけど、多分聞いてない。
別のことを考えている。
皆にはわからないだろうけど、あたしにはわかるのよ。
いつもあたしの話を聞いてるふりして流してる時の顔と一緒だもの!
それでも耳に入った情報はちゃんと処理してるんだから、それこそ聖徳太子か何かかと思っちゃうほど問題ないのだけど。
そして、必要のない情報はその場で消去って感じ?
「坊ちゃま、あたしの授業、聞いてないですよね?」
一週間が終わろうという頃、あたしは坊ちゃまにそう言った。
「聞いてためになるのか?」
う…、いつにもましてきついわ。
「なるかもしれないじゃないですか」
「おまえの失敗を今かと待ち受けてるやつらはしっかり聞いてるんだから、結局は皆聞いてるってことだろ。俺一人くらい問題ない」
「そうかもしれないけど」
うれしくない。
皆はあたしの授業の時にはワクワクしている。
どこを間違うのかと期待してる感じだ。
そうよ、結果的にはみんな集中してくれているから、あたしのダメージとは別に実習としては成り立っている。
担任の先生は「実習の時なんてそんなものですよ」と一応慰めてくれる。
そもそもこの先生もA組相手に授業準備が大変なんだそうだ。優秀な先生ではあるけど、優秀である分、あたしみたいに失敗が許されない。
ちょっと来ただけの学生が完璧な授業をしてしまったら立場ないわ、と言ったくらい。
「はあ」
大きなため息をついたところで坊ちゃまが言った。
「似合わないから、教師なんてやめればいい」
「似合うとか似合わないとかじゃなくて、適性があるとかないとか…」
「適性ならないだろ、そんなもん」
「坊ちゃま…ひどい」
「おまえに皆が群がるのは、いつバカなことをやるのかという暇つぶしだ」
ううっ、反論できない。
あたしが落ち込んだところで電話が。
「鴨狩さまとおっしゃる方です」
「えーと、あ、啓太だ」
渡辺さんに渡された電話に出ると、電話の向こうで啓太が驚いていた。
『おまえの家、お屋敷?お嬢様か何かだったか?』
「あ、違うの。居候で、お世話になっている家がちょっとした家なの」
『そ、そうか。ま、いいけど』
「で、どうしたの?」
『おまえ、実習の要綱ちゃんと読んでないだろうと思って」
「ちゃんと読んでるわよ〜」
『そうか?来週初めに公開授業の内容書いて提出だけど?」
「えっ、来週末じゃなくて?」
『やっぱりな。おまえの場合、人の倍かかるんだからもう始めとけって週半ばに言われただろ。その場その場で適当に返事だけしてるからそうなるんだ。
まだ間に合うから明日、学校図書館に集合な』
「…わかった。ところで集合ってことは啓太のほかにも来るってことよね?」
『ああ、幹とか真里奈とか』
「オッケー!じゃあ、明日何時に?」
『十時ごろ』
「十時ね。わかった!じゃあね」
やばいことを聞かされて、ようやく電話を切ると、後ろに坊ちゃまが立っていた。
「あの、あたし、明日実習生の皆と勉強してきますね!」
そう言ったのだけど、坊ちゃまは何も言わずに通り過ぎていった。
勝手に行けとばかりの態度は、勝手に電話を教えたことによる不機嫌かしら。
でも連絡先ってここしかないし。
本当はおばさまがあたし専用に回線をつなげようかと言ってくれたのだけど、女の子の一人暮らしと思われたら不用心なので、今までどおりでいいだろうということになったのだ。
どちらにしてもあたしもそうそう入江家の電話を滅多に教えることもないし。
あたしは明日の勉強会を考えると頭が痛くなりそうだった。
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翌朝十時、あたしは斗南小学部の図書室に行った。
土曜日は皆休みだから、小学部の図書室は使い放題。
そこに実習生ばかり集まって勉強会だ。
最終週に行われる公開授業は、他の実習生や先生方が大勢見学に訪れる。
もちろん実習の集大成。
これを乗り越えないと先生にもなれない。というか、実習終了のお墨付きがもらえない。
どこのクラスでの公開授業かは、たいてい決まってる。
どうせあたしはA組なのよ。そうよ、そうに決まってる。
そして、皆の前でバカにされて…。
あー、気が重い。
「もうやだ〜」
あたしはペンを放り出した。
やってもやっても終わらない。
何と言うか、どれもこれも皆にうーんとダメ出しをされて、もう限界。
「おまえは、何で先生になろうと思ったんだよ」
熱血啓太はあたしに怒りながら言う。
面倒見はいいんだけどね。
「だって、将来に何も見いだせないっていうか。坊ちゃまの家にずっと居候しているわけにもいかないし、お屋敷から近いところとか考えたら、そうしたらちょうど教育実習があって、先生に向いてるかもって」
つらつらと理由を述べると、啓太はものすごく怒った。
「おまえは、教師をなめるな――――!」
「啓太ってばうっとおしい」
真里奈がため息をつきながら言った。
啓太はあたしのためを思って言ってくれているのはわかるんだけど、熱すぎる…。
「おまえはどういう理由なんだよ」
真里奈は「あたし〜?」と磨いた爪を見ながら言った。
「上手くいけば公務員だし」
「その爪!華美にしすぎだ」
「やだ、小姑みたい」
オカマちゃん…じゃなかった、モトちゃん(と呼べと言われた)が言った。
「志望動機なんて人それぞれでしょ。だいたい教師やってる人がどれだけその使命に燃えてると思ってんの」
「それなら小倉、おまえならわかってくれるよな」
「そうね、ちょっと熱すぎるけど、啓太の言うこともわかるわ。
あたしは、子どもたちが楽しげに笑ってるといいなと思うけど」
「ほらな、小倉はわかってる」
「弱みを握ったり、さり気なくクラスを掌握するのも楽しいわよね」
さらりと言った。
こわっ。
啓太はさすがに脂汗を流して黙った。コメントできずって感じ?
「俺はな、俺は教師というものは…」
「…うるさい」
ぼそりと後ろから声が響いた。
この声は、と振り向けば、そこには本を片手に嫌そうな顔をした坊ちゃまがいた。
ここは高学年図書室だから、いてもおかしくはないけど、今日は土曜日で学校はお休みですよ?
「図書室で演説しないでください」
坊ちゃまそう言って手近な机に本を置いた。
「坊ちゃま、どうしたんですか、今日は」
「借りたい本があったから来たんだ」
「坊ちゃまが?」
「絶版になってる本があるんだよ」
「へぇ、さすが坊ちゃま」
あたしたちの会話を聞いて啓太が首を傾げた。
「坊ちゃまって…この子はA組の入江くんだろ」
「そうよ。あたしがお世話になってるお屋敷の坊ちゃま。A組だけど、ひいきはしてないわよ」
「へー、そうか」
啓太はまじまじと坊ちゃまを見た。
「確か、成績は一番よかったよな」
「そうね。坊ちゃまは天才だから」
「この年で坊ちゃまというのはどうかと思うけど」
「あ、これ、小さいときからの呼び方で、今更直せないの。教室ではちゃんと入江くんって呼んでるわよ」
「入江くんは、彼女が先生に向いていると思うか」
「…思いませんが」
「だよな。それでも実習を頑張るって言うんだから、クラスではもう少しお手柔らかにしてやってくれよ」
「ちょ、ちょっと、坊ちゃまに頼むことじゃないでしょ」
「そうは言っても、おまえ、クラスでは結構きついだろ」
啓太はあたしを心配してくれているのがわかった。
「きついって言うか、でもちゃんと皆騒がずに授業聞いてくれてるし」
「でもいつも揚げ足取りばっかりって聞くぞ」
「そ、それはあたしが至らないから…」
「そうだな。ちゃんと授業の準備をすればそこまでバカにされることもないはずだ。事実、今までの教生は無難にこなしてきたんだから」
「ぼ、坊ちゃま」
あたしと啓太の会話に珍しく坊ちゃまが意見した。
「そう思うなら、少しくらい陰で助けてやろうとか思わないのか」
「啓太」
啓太と坊ちゃんがにらみ合っている。
なんでここでにらみ合うの。
「ぼ、坊ちゃま、本は借りたんですか」
「司書がいない」
「あ、あたしが手続しておきますよ」
「じゃあ、頼む」
「はい、坊ちゃま」
「帰る」
「それじゃ、坊ちゃま。夕食には間に合うように帰るつもりですから」
本を片手に坊ちゃまは図書室を出ていった。
図書室の外では渡辺さんが待機していた。
あたしは頭を下げて坊ちゃまを見送った。
再び啓太に向き合うと、あたしは口を開いた。
「もう、坊ちゃまは授業に関して関係ないんだから、あまり余計なこと言わないで」
「関係なくはないだろ、同じA組なんだから」
「そうだけど、そうじゃないのよ」
「ねえ、どうでもいいけど、痴話げんかやめてくれないかしら」
モトちゃんがうんざりといった感じで言った。
「ち、痴話げんかって」
「ちょっと、変なこと言わないでよ」
あたしたちは慌てて否定する。そりゃそうだ。どこをどう聞いたら痴話げんかに聞こえるんだろう。そもそも付き合ってないし。
「それにしても将来有望な子よねぇ」
真里奈はため息をついた。
「あたし、今から光源氏並みに有望な子をキープしておこうかしら」
「坊ちゃまはダメですよ」
「えー、社長の息子であれだけ優秀で、顔もいいとくれば、これからどんどんもてるわよ」
「そ、そうかもしれないけど」
「すごく不機嫌だったけど、怒ってたの?」
先ほど怖いことを平気で言った小倉智子は、かわいらしく首を傾げた。
こんな感じで普段はすごいモテモテなのよね。
もちろん子どもたちからも大人気。
あの発言さえ聞かなければ。
「不機嫌なのは結構いつもよ、坊ちゃまなら。でも、確かにちょっと怒ってたかな?」
あたしは坊ちゃまの態度を思い返してみる。
初対面(とは言えないけど)の人に対してあそこまで敵意をむき出しにするのは珍しいんだけど。
あ、でもいくら他に人がいないからって図書室で騒ぎすぎたせいかな。坊ちゃま、そういうの嫌いだし。
うん、そうかも。
「まあいいや。静かに真面目に勉強しよう」
あたしは時計を見ながらそうつぶやいた。
夕食の時間までに終えなくっちゃね。
「ふーん、夕食も一緒なんだ」
啓太の言葉はひとり言なのか、静かになった図書室でよく響いた。
だって坊ちゃまはずっと一人だったし。
そりゃ今はおばさまが帰ってきているけど。
何か、おかしい?
あたしは居候だけど、できれば坊ちゃまが大きくなるまで見守りたいと思ってる。
それって、おかしいことなのかな。
どうしてか、それは当たり前だと思っていたのに、ちょっとだけ胸に刺さった。
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授業は、思ったより無難に過ぎていく。
A組の皆はあたしをからかうのを楽しみにはしていたけど、そのうち飽きてきたのか、それなりに流してくれるようになった。
坊ちゃまは相変わらず聞いているのか聞いていないのかわからない。
授業以外なら、あたしも少しは馴染んできた気がする。
今まで運動場に出て遊ぶ子などいなかったA組の子が、一緒に外で遊ぶようになったと言われた。
女の子たちはいろんなおしゃれにも関心が出てきたみたいで、時々服装チェックまでされる。
坊ちゃまの家での話を聞きたがったりもしたけど、そこはあたしもあまり知らないと言い通した。そうでないと坊ちゃまの後からの報復が怖いし。
家でもなかなか時間が合わず、夕食時には一緒に食べるようにしていたけど、前のように会話してくれない。
「坊ちゃま、何かあったんですか」
そんな日々が辛くてあたしは坊ちゃまに聞いてみた。
「何も」
坊ちゃまは取り付くしまもない。
これが思春期ってやつかしら。
明後日はいよいよ研究授業だ。
実習生は皆ピリピリしてきて、あたしもうかつに声を掛けられない雰囲気になってきた。
啓太はその中でも聞けばちゃんと答えてくれる優しいやつ。
そうは言っても啓太だって自分の授業の準備があるので、そう頻繁に聞くわけでもない。
坊ちゃまは全然構ってくれないので、自然とあたしも坊ちゃまとの会話が少なくなっていて、いつのまにか坊ちゃまが平然とあたしを無視するのもどうしていいのかわからなかった。
あたしはそれも気が気じゃなくて、坊ちゃまが不機嫌なのを気になりながらも今まで放っておいたのがいけなかったんだろうか。
勉強もはかどらない、坊ちゃまともどうしたらいいかわからない。
あたしは気を使ってお茶を持ってきてくれた渡辺さんに愚痴ったりもした。
思い切って夕食後には坊ちゃまを捕まえた。
だってこのままじゃ明日の研究授業に絶対差し支えるってわかってたし。
「坊ちゃまが話してくれないと、さみしくって」
あたしがため息をつくと、坊ちゃまはあたしを見た。
「本当にそう思ってるのか怪しいけどな」
「今までいろいろお話してくれていたのに、しなくなったのは、やっぱり思春期だから?」
坊ちゃまはふんと鼻で笑った。
「これが思春期なら、永遠に続くぞ」
「えー、坊ちゃま、そんなに反抗期なんですか」
「思春期と言ったそばからなんで反抗期なんだ」
「え?だって、思春期と言えば反抗期じゃないですか」
「…おまえと話してると頭痛くなるな」
「え、ひどい」
坊ちゃまはすたすたとそのまま歩いて部屋に行ってしまった。
最近は部屋にもあまり入れてくれなくてつまらない。
渡辺さんはそんなあたしを見て「うーん」とうなった。
「やっぱりあたしが何かしたんでしょうか」
「…直樹さまの気持ちが落ち着くまでは今のままでよろしいかと思いますよ」
「やっぱり反抗期なのかな」
渡辺さんは少し笑って言った。
「…そうかもしれませんね」
あたしは渡辺さんの笑顔に癒されて、ようやく落ち着いた。
坊ちゃまがあたしに今までのように話してくれることはなくても、できればそばにはいたいなぁ。
大きくなるのをちゃんと見守って、いつかおじさまの会社をちゃんと継いで立派な姿を見られたらいいな。
そんなふうに言ったら、なぜかぽろぽろと涙が出てきた。
「琴子さん…」
あまり驚かない渡辺さんが慌てた。
そっと渡辺さんがなぐさめてくれて、あたしはただぐずぐずと泣き続けた。
それはちょっとあたたかくて、安心した。
こんなお兄さんがいたらよかったのに。
ちょっとの間泣いたらすっきりして、あたしは授業の予習を行うことにした。
その向こうで、まさか坊ちゃまが見ていたとは、あたしも渡辺さんも知らなかったのだった。
そして、いよいよ実習の集大成でもある研究授業は始まった。
坊ちゃまは今朝も盛大に反抗期中で、教室の中にいても全く目を合わせない。
あたしの授業はもうすぐで、何度も頭の中で授業内容を繰り返す。
大丈夫、あれだけ頑張って仕上げたし、昨日は何度も繰り返して進めたし。
どんどん緊張してきて、心臓が飛び出しそうだ。
そんなあたしに坊ちゃまは言った。
「今さら失敗怖がってどうする。少々の失敗なんて今更誰も気にしないだろ」
ずっと無視されたり、目を合わせてくれなかったりしたのに、直前でちゃんと励ましてくれるのだ。
自分より年下の坊ちゃまに励まされてどうするって感じではあるけど、それこそ今更よね。
坊ちゃまだって自分のところの居候が大きな失敗されても困るわけだし。
それに小さい失敗なんて今までたくさんあったから、少しくらいなら見逃してくれるかもしれないし。だいたい、あたしまだ教生だし。
そう開き直ると、あたしはひとつ深呼吸をして授業を始めた。
思ったよりも落ち着いてできたと思う。
意地悪な質問もあったけど、そう来るだろうと予想して答えもばっちり…とまではいかなかったけど何とかこなした。
これも協力してくれたみんなのお陰よね。
見学していた先生たちは、相原にしてはまあまあという評価をいただいて、あたしの三週間の実習は終わろうとしていた。
何よりあのA組で逃げ出さずに真っ向勝負したのもあたしらしいって評価付きで。
実習生たちともこれお別れだ。
…と思ったら、皆斗南の学生だった。あたしが知らなかっただけみたい。
皆からは「今頃そこ?あんたは別の意味で有名だったわよ」と言われてしまったくらい。
どういうふうに有名だったのかは、その時には聞かなかったけど。
坊ちゃまはしばらく不機嫌だった後、「あと八年も待ってられねーな」とだけあたしに言った。
「八年?何を待つ予定だったんです?」
そう言ったら、「ああ、そのうちにな」とちょっとだけ少年の顔から大人びて見えたのだった。
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「坊ちゃま、良かったですね!」「いいも悪いも中学に上がるのは当たり前だろ」
「何を言ってるんですか。中学ですよ、中学。坊ちゃまも立派になって」
「琴子、おまえ、俺が進学するたびに泣いてんじゃねーよ」
桜舞い散る中、坊ちゃまは斗南中学に進学した。
…で、ついでにあたしも斗南大学を卒業して、奇跡的に斗南中学に就職した。
なんで斗南中学だったのか。
それは、多分、きっと、確実に、入江家の意向と中学側の意向が合わさったものと思う。
いわゆるコネよね、コネ!
あたしはコネなんて使わずに就職するのだと息巻いていた。途中までは。
どれだけ受けても就職戦線は厳しく、あたしはどこからもいらないって言われて、もうどん底まで落ち込んだのだった。
おばさまは優しくて、このまま入江家に永久就職しなさいって言ってくれたのだけど、入江家に就職といっても何をしたら役に立つのかさっぱりだったし。
坊ちゃまはもう中学で、かなり世間的な常識も身について、自分を守る術も手にして、おばさまも下の裕樹坊ちゃまに掛かりきりで、その裕樹坊ちゃまは健やかに育っていて、あまりあたしの手を煩わせることもない。
つまり、入江家に就職しても何もすることがない。というか、あたしのできることがない。
優秀な執事の渡辺さんはいるし、シェフもいるし、女中さんはいっぱいるし、皆優秀だし、あたしなんて、あたしなんて…!
…という思考ループに陥って、散々だった。
とことん自分がダメ人間に思えて、就職活動って心が荒むわね。
最後は鶴の一声で、斗南中学に教員補助として就職することになったのだった。
もちろんA組担当なんてもってのほか、と思っていたら、あたしのバカさ加減でもちゃんと滞りなく進んでいけるA組の方がクラス運営に支障がないそうで。
あたしはA組の副担任になった。
つまり、坊ちゃまのクラス担当、ということに。
もちろんひいきはしないわよ。
ひいきするほど坊ちゃまはバカじゃないし、むしろどうでもいいくらい頭良すぎてクラスに馴染めないから、あたしがクラスの子たちとの懸け橋に…。
なんか違う気がするんだけど。
ま、いいか。就職は出来たことだし。
お父さんなんて泣いて喜んでたし。
そういうわけで、あたしは新任の先生ということで教壇に立つことになったのだった。
「一年生を担当されます、相原琴子先生。A組副担任です」
「相原です。よろしくお願いいたします」
噛まずに言えて良かった…、と思ったら。
「あ、おねひゃいしますの相原先生だ」「あ、琴子先生だ」という声が一年生から聞こえた。
頭のいい子たちは、すでに二年前の教育実習時の自己紹介を忘れてはいなかったらしい。
あたしは顔を真っ赤にしてうつむきながら早くこの時間が終わってくれないかと思っていた。
当然三年生はあの実習の時にいなかったので、何がおねひゃいなのかわからないだろうけど、そのうちばれるのかも。いいもん、今回はちゃんと言えたんだし。
早速一年A組に担任とともに入っていくと、顔ぶれは教育実習の時とほとんど変わっていなかった。
隅の一番前に坊ちゃまの姿もある。
「あ、琴子センセ―、よく先生になれたね〜」
「えー、コネでしょ〜」
…正直本当のことなので、言葉もない。
「え、えへへ、迷惑かけると思うけど、またよろしくね」
「こら、相原、初っ端から教師が迷惑かけるけど、はないだろ」
「あ、はい、すみません」
教室がどっと沸く。
坊ちゃまは無関心を装って、窓の方を向いている。でもその顔は少しだけ苦々しい。
あたしが斗南中学に就職すると知ったとき、ため息だけついて「ま、仕方がないか」とだけ言った。
ダメともいいとも言わなかったので、坊ちゃま的には諦めたのだと思っていた。
でもこうして居候が笑われては、坊ちゃまの立場としては辛いかも。うん、気をつけよう。
あれこれと会議や明日の準備を終えてようやく帰宅すると、坊ちゃまが仁王立ちに立っていた。
「坊ちゃま、ただいま。どうしたんです、そんなところで」
「おい、あいつ、気をつけろ」
「あいつって?」
あたしが首を傾げると、坊ちゃまはぼそりと言った。
「新任の…」
「えーと、もしかして、啓太?じゃなくって、鴨狩先生ね」
坊ちゃまはぷいっと「わかったな」とだけ言って部屋に戻っていった。
何をどう気をつけるのか言ってくれないと、と思ったけど、また明日聞くことにした。
結局、斗南中学にはあたしと啓太が就職した。
小学部じゃなくて中等部だっていうところは、あたしの成績ならそれもありかと思う。だって、全部の教科を教えたりなんてやっぱり無理だし。
でも啓太…えっと、鴨狩先生は、自分で中等部を希望したんだって。あたしと違って二年生の副担任になっている。
それから、実習で会った三人は、意外にも斗南の小学部に運よく就職したらしい。退職者が多くてラッキーだったらしい。真理奈なんて学校の先生なんか嫌だ〜って言っていたのに、人生わからないものよね。
そうして、あたしの教師一日目は終わった。
To be continued.