坊ちゃまとあたし




51


日曜日の一日は、ほとんどを寝室で過ごした。
明日のために少しストレッチをしただけで悲鳴が出そうになる。
夜になってかなりましになったのは、若いからかしら、と勝手に思っている。
坊ちゃまは不気味なくらい音沙汰がない。
部屋にこもって何かをしているという話だけど、何をしているかまではわからない。
坊ちゃま、やっぱり怒ってるんだろうなぁ。
でも何に?

月曜日、恐る恐る出勤すると、職員室では普通だった。
隣の先生が「あー、何か昨日生徒たちが騒いでいた気がするけど」とだけ言った。
それならそんなに気にするほどではないかな。
早速一年A組に向かうと、坊ちゃまは本当に無表情で座っていた。
そもそも大会の前は、褒美を考えておけって言ったくせに、さっさと予選落ちしたじゃない。それもわざとよ、わざと。
あたしはそれに対して一言言いたかったのだけど、坊ちゃまが完全無視なんだもの。小言も言えやしない。
それでも放課後にはようやく帰る間際で捕まえた。
「坊ちゃま、何を怒っているんですか」
「……」
「まだ無視するんですか。そもそも、予選を通過したら褒美をくれって言ったのは坊ちゃまじゃないですか。それなのにわざと予選落ちしましたよね」
坊ちゃまはちょっと顔をしかめた。痛いところを突かれたという感じだ。
「おまえからの褒美なんて、俺が期待したほどにはもらえないと思ったからな」
「だいたいどんな褒美をご希望だったんです?」
そう言うと、坊ちゃまはあたしの顔をまじまじと見つめて言った。
「ま、ここじゃ無理だな」
「そんな難しいものなんですか」
「少なくともお前は無理だな」
「坊ちゃまなら大丈夫なんですか」
「そうだな、人に見られると多分おまえが困る」
「…何か変なことですか」
「…変…」
坊ちゃまは一瞬考え込んだ。
「変ではないが、世間的には変に思われることもあるから」
「…から?」
「やはりここでは無理だな」
「そうなんですか。じゃあ、家に帰…って、坊ちゃま、予選も通過してないし、褒美なんてあげられませんよ!」
あー、危なかった。うっかり乗せられるところだった。
坊ちゃまはそんなあたしにチッと舌打ちした。それに気づいたか、と。
「また、今度ですね。今度坊ちゃまが褒美をあげたくなるようなことをしたらにします」
「…ああ、今度ね。期待しないでおく、多分まだ無理だから」
坊ちゃまの少々投げやりな言葉にあたしは首を傾げる。
「それよりも、まずはあの鴨狩との噂を何とかしないとまずいぞ、おまえ」
「そ、そうですかね、やっぱり」
「このまま噂がおふくろの耳に届いたら」
「…届いたら?」
「強制的にやめさせられるかもしれない」
「ええっあたし?!」
「というより、鴨狩の方だな」
「え、け…じゃなかった鴨狩先生が?」
「俺としてはその方が…」
「それは大変!何とかしなくっちゃ」
あたしのせいで啓太がやめることになんてなったら、申し訳ない。
だって、あたし、コネの棚ぼたで教師になったっていうのに、啓太はちゃんと教師になりたくていろいろ頑張ったんだから。それにどちらかと言うと、あたしよりも啓太の方が教師に向いてそうだし。
あたしは坊ちゃまが止めるのも聞かずに、慌てて職員室に戻ったのだった。

あたしは職員室に戻るとすぐに隣の校長室に。
思わずその扉を開けて「鴨狩先生をやめさせないでください!」と叫んだ。
校長先生はん?という顔をしてあたしを見た。
「相原先生、鴨狩先生が何かしましたか」
「…いえ、あの、あたしとの根も葉もない噂でやめさせられたらどうしようと」
「根も葉もないんですか」
「付き合ってもいません!」
「そうですか。別に先生同士でどうかというのは構いませんが」
「はあ」
「生徒とはダメです」
「生徒…」
「気を付けてください」
「…は…い…。あの、じゃあ、やめさせられたりは」
「優秀な先生ですし、何も辞めさせる理由はないと思いますが」
「よかった〜」
あたしは校長室に突然飛び込んだお詫びをして職員室に戻った。
職員室にはまだ大勢の先生がいたので、突然校長室に乱入したあたしを何事かと見てきた。
「あの、お騒がせしてすみませんでした」
一応そう言って頭を下げると、他の先生たちがはいはいといった感じでまた通常に戻った。
席に戻ると、隣の先生が楽しげに聞いてきた。
「相原先生、本当に鴨狩先生とは何にもないの?」
「ないです、ないです、本当にないです」
「何もそこまで否定しなくても。鴨狩先生は結構イケメンだし、いいじゃない?」
「そうは言っても、鴨狩先生にも悪いですし」
「鴨狩先生も確かに完全に否定してたけど、満更でもなさそうだったけどな」
「そんな、まさか」
「生徒たちは完全に噂を信じちゃってるけどねぇ。まあ、わたしも聞かれたら否定はしておくけど」
確かに。
今日は一日生徒たちにからかわれっぱなしだったのだ。
そのたびに違うと言い続けてはいたけど、この噂が落ち着くまでにどれくらいかかることやら。
あたしは長々とため息をついたのだった。







52


斗南では文化祭自体はするっと終わってしまって、あまり重要視されていない。
それはともかく、坊ちゃまの誕生日がまたやってくる。
ようやく十三歳か〜。
「坊ちゃま、今年のお祝いは何がいいですか」
「…パス。そのうちまとめてもらうからいらない」
「去年まではそんなこと言ってなかったのに、どうしたんですか」
「物をもらうのはあまり好きじゃない。かろうじてお前からもらったものは一応置いてある。かと言っておやじたちのように現金もらうわけにいかないだろ」
「そりゃそうですけど」
「だから今年はいらない」
「…まとめてって、どれくらいまとめて…?」
「そうだな、今からだと五年分くらい」
「ええっ、五年もお祝いなし?!」
「いや、少しずつ利息はもらうつもり」
「…利息…」
よくわからないけど、物はいらないってことですか。
明日買い物に行こうと思っていたのに、出鼻をくじかれた感じ。
でもいいや。
久々に理美やじんこに連絡を取って遊びに行こうっと。

 * * *

本当に久々に理美とじんこと買い物に出かけた。
就職してから遊ぶ暇もなかったし。
自分の服を買ったり、少し早いけどもうクリスマスの模様替えになっていて、それを眺めながらお茶をすることにした。

「坊ちゃまも十三歳か〜。早いね」
理美の言葉に「でしょ〜。もう生意気なことばっかり言ってくるけど、頭いいから反論できないんだよねぇ」と返事した。
「どうせあたしらF組だし?」
じんこの言葉にうッと胸を突かれる。
「言ったっけ?あたしの受け持ち…あ、副担任なんだけど、A組なんだよね」
「F組のあんたがねぇ」
「理美、他人事みたいに。あたしら一蓮托生死ぬまでF組よ」
じんこの言葉にますます落ち込む。
「教えられることばっかりで。あ、でも、『相原先生みたいに根性で押し通すことも時には有効なんですね』だって」
「それ感心されてるのか、バカにされてるのか、微妙なところよね」
「え、ほめられてるんだと思ってた」
「琴子、いいわ、あんたはそのままで」
理美の言葉にどうせ根性しかとりえがないわよと思わずつぶやく。
あれ。えーと、そんな話をしたかったんじゃないけど。
「そうそう、それより、坊ちゃまがね、今はプレゼントいらない、あと五年後にまとめてもらうって。それって、何を要求されると思う?」
理美とじんこが二人で目を見合わせた。
何か言いたげだけど、言わない。
「五年後って言うと…それはやっぱり…」
理美はちらりとあたしを見て言いにくそうにした。
「なあに?何か思いついた?」
「えーと、ちょっと聞くけど、あんた、今恋人は…いるわけないか」
「いないわよ。でもいるわけないってちょっと失礼だけど」
「坊ちゃまはそろそろかっこよくなってきたわよね」
「まだ十三歳だし、かっこいいかどうかはともかく、外見だけなら女の子がキャーキャー言ってる。でも女の子に対して冷たいから」
「五年後って言うと十八歳よね」
「そうね」
「十八歳というと…」
理美はまたそこで言い渋る。
「ずばり、結婚のできる年齢よね」
じんこがあたしにずいっと迫った。
「え?あ、そ、そう、そう言えばそうね」
「まあ、坊ちゃまの気持ちはわからないけど、五年後、どうなってるかしらね」
ため息を一つついて理美が言った。
そうは言っても、坊ちゃまが十八歳になったって、結婚なんてまだまだでしょ。何と言っても跡取りなわけだし、お嫁さんは慎重に選ばなくっちゃね。
坊ちゃまのお嫁さんか〜。
どんな人なら似あうんだろう。
えーと、まずはかわいくなくっちゃね。坊ちゃまの隣に立つんだもの。ゆくゆくは大企業の社長だし。
それから、やっぱり頭が良くないと。
それから、性格ももちろん良くないとね。そりゃ坊ちゃまはちょっとばかりひねくれてるところもあるけど、あれで優しいところもあるし、それをわかってくれる人でないと。いっそ年上でもいいのかも。
でも、坊ちゃまの結婚式はどうしても思い浮かばない。
想像しようとするとちょっとだけ胸がもやもやする。
小さな頃から可愛がってきた坊ちゃまがって思うからかしら。
坊ちゃまが結婚するとき、あたしはまだ入江家に居候してるのかしら。
だって、その頃にはかなりいい年、よね。
ああ、あたしだっていつかは結婚したいし。

そんなことをぼんやりと考えていたら、二人が顔を見合わせて言った。
「それでね、琴子には申し訳ないんだけど」
「はい?」
「あたしたち、彼ができたから、今年のクリスマスのパーティはちょっと」
「ええ?!」
あ、そう、二人きりで過ごしたいわけね。
ええ、ええ、いいわよ、いいわよ。
あたしだって、入江家の豪華なクリスマスパーティに一人寂しく出席するから。
あたしは思いっきりため息をついた。
「あたしも恋人欲しい…」
そう言ったら、二人がすかさず言った。
「それは無理」
「何で?!」
「えーっと、坊ちゃまが許さない、とか」
理美が目をそらしながら言った。
「そうそう、坊ちゃまが」
じんこもそう言ってにんまり笑った。
坊ちゃまの許可がないとあたしはどうやら恋人も作れないらしい…。
何となく腑に落ちないけど、それがなんとなく本当のような気がするから、慣れって恐ろしい。
もしも坊ちゃまに聞いたら、くだらないって言うかな。
それとも本当に当たり前だとか言われるのかな。
ちょっとだけ悩ましい秋の休日だった。








53


坊ちゃまの誕生日は、とりあえず坊ちゃまの好物となけなしのケーキで終わった。
もちろんみんなからのプレゼントもあったけど、坊ちゃまは淡々と「ありがとう」と言ったのみで、喜んでいるんだかいないんだかよくわからない。
ケーキだってほとんどあたしとか渡辺さんとかお手伝いの皆さんのお腹におさまったわけだし。
ただ、その夜、坊ちゃまはあたしの部屋に来て、ごく真面目な顔でこう言った。

「とりあえず今年の利息分、もらおうか」

…来た!
利息利息って、取り立て屋みたいになってるけど。
「あ、あたしは借金はしてないわよ」
「バーカ。五年後までのお預け分の利息だから、利子じゃない」
「へ?利息と利子って何が違うの?」
「…もういい」
坊ちゃまは軽くため息をついて、あたしを見た。
「で、利息の内容は…?」
「まずはその坊ちゃま呼びだな」
「え、それ…?」
「今日からすぐにやめろとは言ってない。多分無理だろうから」
確かに。
でも坊ちゃまやめるとなると、やっぱり渡辺さんを見習って直樹様とか?
…直樹様、かぁ。
目線が同じになってきたとはいえ、十も下の坊ちゃま相手にはまだまだ言えないなとか思っちゃう。
渡辺さんなんて小さな頃からちゃんと直樹様って呼んでるのにね。
でも雇い主の息子さんだと思えば、様づけで呼ぶくらいなんともないわよね。
ああ、でもせめて学校で顔合わせないくらいになったらにしたいな。
今でも学校でうっかり坊ちゃま呼びしちゃったりして、嫌がられてるのに。
「もっと違うもの要求してもいいんだけど」
「それ、何?」
あたしは違う提案に飛びついた。
でも坊ちゃまは意地悪そうな顔で笑ったままだ。
「えーと、何か、無理そうなもの…とか?」
「試してみるか?」
そう言ってずいっと迫った坊ちゃまの迫力に、あたしはごくりと息をのんだ。
十三歳の迫力に負けるって、どうなの、あたし。
「…やめた」
「なんで?!」
「今はまだいい」
「前々から坊ちゃまそう言ってますが、あたしに無理なことって何ですか」
「………」
坊ちゃまはあたしをじっと見て、「やっぱいい」と諦めたように部屋を出ていったのだった。

 * * *

ちなみに学校では、あたしの否定が功を奏したのか、啓太との噂は程なくなくなった。…と思う。
でも、どうやらそう思っていたのはあたしだけで、陰では啓太のあたしに対する片想い説が定説になったようだった。正直、あたしは随分と長い間それを知らなかったのだった。

「ところでさ〜、琴子は啓太とどうなってんの」
「どうもなってないわよ」
久々に実習同期友の会と称して集まった面々は、とある居酒屋で顔を合わせたのだけど、久々に会ってみたら、桔梗幹ことあのオカマのモトちゃんは、ますます性別不明に拍車がかかっていた。すでに学校でもそれは有名だったけど、そのきめ細やかな指導に保護者父兄ももう何も言わないらしい。
そして、私立は転勤がないから失敗したと嘆いているのが品川真里奈だった。
「新しく入ってくる先生とか営業の人くらいしか出会いがないじゃないのよー」
そう言ってちょっとやけ酒気味。
ちなみに啓太は今トイレだ。
「毎年同じこと言ってて飽きないわねぇ」
あたしは半ば感心しながら真里奈の愚痴を聞いていた。
「だいたい学校でそんな噂になって、あんたたちよくお咎めなしで…」
「それが校長先生に呼ばれたんだけど」
「げ、呼ばれたの?」
真里奈がぎょっとしたようにあたしを見て、飲んでいる酎ハイを置いた。
「教師同士ならいいけど、生徒とはダメだって」
モトちゃんはあっはっはと笑って言った。
「あったりまえじゃないのぉ。だって、十も下の中学生なんて、淫行よ、淫行」
「…いんこうって何?」
「…おまえは国語の教師だというのに、もっと勉強しろっ」
後ろからごつんとげんこつが降ってきた。トイレから戻ってきた啓太だった。
「った〜。もう、そんな難しい言葉、大学でもやらなかったわよ」
「そりゃそうだろうけどな―」
呆れたように啓太は座席に着いた。
「でもさ、今は十も違うと法律でもやばいけど、これがあと十年もすると結構あるから不思議よねぇ」
真里奈は何かを思い浮かべたようにうふふと笑う。
「えーと、今の歳で十も違うとすると、執事の渡辺さんくらいかぁ」
「執事!さすが入江家。それに執事ってそんなに若いの?」
おっと食いつきがいい。
真理奈だったら渡辺さんとも釣り合いそうだけど。
「えーと、東京の家を管理しているのが、本来の執事の息子さんなの。いわゆるそのお父さんの執事さんは、イギリスの家を管理していて、あたしは会ったことはないの」
「ということは、十違うとはいえ、その執事さんと何かあっても不思議じゃないわよねぇ」
「えー、だって、渡辺さんって、そりゃ昔から優しいけど、どちらかというと坊ちゃま大事でまだまだ結婚しそうにないんだけど」
「でもいつかは結婚して後継ぎをもうけて、更にその子どもが執事にって感じじゃない?」
「そうかなぁ」
そういうものかな。
そのうち見合いして…って、そう言う話あったっけ。
「あの坊ちゃまだって、あと十年もしたら立派な青年よねぇ」
モトちゃんの言葉に思わずあたしは顔をしかめた。
「そうよね。うん、そうなのよね。だからって、モトちゃん、坊ちゃまはダメよ」
「あら、あたしにだってチャンスはあるかもよ?」
「坊ちゃまこそ後継ぎつくらなきゃだめだから、とんでもない!」
「いちいち琴子の許可をとるの〜?いやぁ〜、面倒くさい」
「モトちゃん!」
「はいはい、そんなムキにならなくても」
ふーっと、皆が一息ついたところで、啓太がふらりと立ち上がった。
「どうしたの、啓太」
「いや、そろそろ帰ろうと」
「へ?もう?」
「そう言うおまえこそ、そろそろ入江家から心配して電話かかってくるんじゃね?」
「えー」
と言ってるそばから、本当に電話がかかってきた。
お帰りの際は迎えに行きますが、とのことだった。
まさかそんなとんでもないと答えたら、坊ちゃまがぜひ行けと言うので、との言葉だった。
遅くなると悪いので、あたしも結局帰ることに。

「いいようにコントロールされてんな」
「うん、まあ、でも、あたし居候だし。迎えに来てくれるなんて、ぜいたくなことだろうし」
モトちゃんと真里奈はまだ飲んでいくというので、あたしは啓太とともに居酒屋を出た。
繁華街は車が入れる余地はないので、あたしは入江家の車が来るという場所まで歩いていくことにした。本当は渡辺さんが店の前まで迎えに来るということだったのだけど、さすがにそれは断ったのだ。
代わりにとでもいうように、啓太がその場所までついてきてくれることになった。
「あの噂だけどな…」
「え?どの噂?」
繁華街は騒がしくて、啓太の声があまりよく聞こえない。
「…いや、まあ、いいや」
「あ、渡辺さんがいる」
繁華街を抜けるかというところで、渡辺さんが立っているのが見えた。
「琴子」
「なあに?」
啓太はあたしの顔を見た。
「俺は、前からおまえのこと…」
「あたしの、こと?」
え、なんだか、ちょっと、もしかして…?

「うわっ」

その瞬間、あたしは酔っ払いに後ろから押された。
「こんなところで突っ立ってんじゃねー!」
酔っ払いに怒鳴られ、とっさに啓太が支えてくれたけど、確かに道の真ん中で立ってたあたしも悪いから文句も言えない。
啓太は盛大なため息をついてあたしを真っ直ぐに立たせると、「気を付けて行けよ」と背中をそっと押した。
あたしは啓太の言いかけの言葉も気になってはいたけど、通りの向こうでは渡辺さんが待っていたので、ちょっと後ろ髪ひかれる思いでその場を後にしたのだった。







54


いよいよバレンタインがやってきた。
あたしは毎年のように練習を重ねるけど、毎年のように失敗する。
既にあたし専用となっている地下のキッチンは、焼け焦げたりするのに気が付くといつもきれいになっている。
誰が掃除してくれているのか。それともやっぱり専門の業者の人がやってくれているのかも。
何で爆発みたいになるのか。
何で失敗するのか考えてもよくわからない。
シェフは教える気をとっくに失くして、あたしは好き勝手キッチンを占領している。
それでも、チョコを溶かすくらいはできるようになったのよ。時々焦がすけど。
中途半端に本を参考にしたりしないで、最後まできっち分量を量り、最後まできっちり本の通りに手順をたどれば、間違いなくお菓子は出来る。
…とこれは坊ちゃまの言葉。
でもね、本の通りって言ったって、ぐるぐるかき混ぜている時間はどれくらいなのかとか、どの辺りまで混ぜれば正解なのか、だんだんわからなくなるの。
何度かチョコケーキを失敗した。
チョコがもったいないので、残ったチョコで仕方なくトリュフを作ることに。
さすがにこれは失敗しない。
だって、毎年結局これなんだもの。
坊ちゃまと渡辺さんは、文句も言わずもらってくれる。

「で、今年のは何味だって?」
坊ちゃまに言われてむっとして言い返す。
「今年も味はついてませんけど?」
「ふーん。これはちょっと洋酒の味がするけど」
「あ、まさか、それ」
「…渡辺のが混ざったとか言うんじゃないだろうな」
「…その通りです」
ふうっとため息をついて、坊ちゃまは包みを見た。
「渡辺用、とでも書いておけば?」
「そんな無粋な」
「そう思うなら、中学生に洋酒入りを食べさせるようなことするなよ」
「…でも坊ちゃま酔っぱらったりしませんよね」
そうなのだ。
実は洋酒入りを間違えて混ぜてしまったのも一度じゃない。
それなのに、坊ちゃまは酔ったりもしない。あ、もちろんこんなチョコ一つで酔うかよ、とは坊ちゃまのセリフ。
でも実際普通にアルコールを飲んでも坊ちゃまなら酔わない気がする。
「で、本当のところは」
「え、何が」
「作ったチョコは、これだけか?」
バレンタイン用に用意したチョコは、既にない。
使い切ったの。というか、いつも足りないくらいなんだけど。
だから、坊ちゃまの分といつもお世話になっている渡辺さんのくらいしか用意できないんだよね。
シェフには丁寧にお断りされて以来、人数にも入っていない。当たり前か。あの破壊キッチンを見たら躊躇するわよね…。
坊ちゃまはものも言わずに渡辺さん用にチョコの包みを解いて、蓋を開けた。
「あ、それ、またそういうことを」
坊ちゃまは渡辺さん用のを勝手に開けることがよくある。
大事な渡辺さんに変なものを食べさせないためなのか。
一つ摘まんで口に入れると、「こっちも洋酒入りか。いったい洋酒の入っていない無味のチョコというのは存在するのか?」と首をひねった。
「えーと、だって、今年は洋酒入りを八つ、お父さんと渡辺さん用で、入っていないのを四つ作ったはずなのに」
「試作をおまえが食べた、ということは?」
「味見できるようなチョコの余裕はほとんどなかったはずだけどぉ。あれ?」
あたしは用意していた残りの箱を捜した。
「どこ行ったのかなー」

「裕樹坊ちゃま!」
階段の方から声が聞こえた。
「え、まさか」
「そのまさからしいな」
いつの間に?
いつ帰国したの?
あたしは坊ちゃまと一緒にキッチンを出て階段の方へと向かう。
階段の上には、口の周りをチョコで汚した幼児が座っていた。
その奥から裕樹坊ちゃまを捜しに来たらしい渡辺さんの声もする。
「にいたま」
「…裕樹」
「裕樹坊ちゃま、あの台の上のチョコ、食べたんですね?」
にまーと裕樹坊ちゃまが笑った。
「おいしくなかった」
…こ、この幼児は…。
おいしくないなら食べないでー!と叫びたくなるのを堪え、あたしは裕樹坊ちゃまを抱え上げた。
「はい、捕まえた」
「はなしてー」
「はいはい、お母さまも一緒よね?」
「にいたまたちゅけてー!ひとしゃらいー!」
「…裕樹坊ちゃま…」
そのやり取りを見ていた坊ちゃまが腹を抱えて笑っている。
「裕樹、こっちこい」
裕樹坊ちゃまは「はい」と素直に返事をしてあたしの抱っこから下りると、坊ちゃまの手を握った。
ちょっと悔しいけど、洋酒入りのチョコじゃなかっただけ良しとしよう。
「おまえな、勝手にキッチンに入るな。おまえが食べて毒になるものもたくさんあるんだ」
ちょっと考えて、裕樹坊ちゃまはうなずいた。
「そうよ。ちゃんと食べていいか聞いてくれなくっちゃ」
「裕樹坊ちゃま、ここでしたか」
「渡辺。こいつ、チョコをつまみ食いしたぞ。今日のおやつはなしだと母に報告してくれ」
渡辺さんはおやおやという顔をして裕樹坊ちゃまを受け取ると、ちょっと笑ってあたしに言った。
「それは申し訳ございませんでした。お詫びに私の分のチョコも直樹様がお受け取りください」
「…そんなのとっくにないぞ」
「承知しました。では、また後ほど」
そう言って裕樹坊ちゃまを連れて行ってくれたけど、後に残されたのは洋酒入りのチョコばかり。
「えーと、これ、どうしよう」
「…食べる」
「え、坊ちゃまが?」
「捨てるわけにいかないだろ」
「洋酒入ってるのに?」
「俺が食っても平気に見えるんだろ」
「…じゃあ、どうぞ」
そう言ったら、坊ちゃまは一つ、二つと摘まんで口に入れた。
「…洋酒が入っていても甘いな」
「まあ、チョコですからね」
「残りは琴子の父のために残しておいてやる」
「…ありがとう、ございます」
甘いのが苦手な坊ちゃまは、それだけ言うとキッチンから「コーヒーだな」とつぶやいて出ていった。
残ったチョコは、坊ちゃまの慈悲の通りお父さんにあげるとして。
「坊ちゃま!コーヒーいれますよ!」
あたしは坊ちゃまの後を追いかけたのだった。







55

「この日は外せないわよ〜」
そう言って帰国したおばさま。
バレンタインのためかと思いきや、奥からお手伝いの皆さんを動員して大きな木箱を出してきた。
この洋風の入江家から少し離れて一階から続く廊下の奥にある続き間の和室。
そこだけは入り口だけでもちょっとひっそりと違っていて、和室好みの親戚の方々がお泊りになったり、外国から来た日本文化体験のお客様のために使うのだという。
でも二月から三月のこの時だけは和室は華やかになる。

「ほら、琴子ちゃん、どう?」
あたしが持っていた両親からの小さなひな人形とは比べ物にならないくらい豪華な七段飾り。昔ながらのスタンダードな赤い毛せんに金屏風だ。
まあ、入江家はスペースがあるからね。
ちなみにあたしのひな人形は、お父さんが住んでいる住宅兼店舗に飾ってあるらしい。
今までもちゃんとこの時期には飾ってあったのだけど、おばさまの方がなかなか帰国できなくて、派手な行事もなかった。
だって、この家の子どもは二人とも男の子だものね。
おまけにちょっと洋風で、飾る場所なんてあるのかしらと密かに思っていたのは坊ちゃまが幼い頃の話。
ある日突然坊ちゃまが飾る宣言をしたものだから、おばさまは喜んじゃって、おばさまがいなくても、毎年飾るようになったの。
今思えば、それは坊ちゃまのあたしに対する思いやりなんだろうな。
おばさまは一緒に飾るのをそれはとても楽しみにしていらして、お手伝いの方と一緒になって「まあ、きれいなお顔」と愛おしそうに飾っていた。
あたしも少し触らせてはもらったけど、お道具類だけで精一杯で、壊したらどうしようかと思っていたくらいだ。
きっとおばさまの時代でも結構いい値段のする代物じゃないかな。
さすがあの一色家のおじい様がふんぞり返っていたはずだ。
この細工の見事なこと。
あたしはお道具類の細かな細工を改めて見た。
「琴子ちゃんのも相原さんのお宅に飾ってあるんでしょうね」
「いえ、でも、あたしのは小さいから」
「小さくとも相原さんたちが心を込めて琴子ちゃんが健やかに育つようにって用意されたものでしょう。本当は一緒に飾ることができればいいんでしょうけれど、相原さんはせっかくだからこちらに飾りたいっておっしゃって」
「そうですよね。あれもお父さんとお母さんが選んでくれたものですもんね」
両親の狭いアパートでは、飾る場所はあれが精一杯だったのだという。
お母さんの実家の秋田に行けば、やはり田舎らしく大きなひな段飾りはあるらしいのだけど、無事にお嫁に行くことができたのだからいいのだとお母さんは笑って言ったという。
「お嫁入りの時にも持ってきたんですか?」
「ええ。ほら、直樹が小さいときには女の子として育てていたでしょう。あからさまに買うわけにもいかないし、あれこれ言い訳して実家から送ってもらったのよ」
おばさまはふふふと笑っているけど、そう言えば坊ちゃまは小さな頃女の子の姿をしていたんだっけと思い出した。それを思うとちょっとあたしも微笑んだ。
あ、でも坊ちゃま、今さらだけどちょっとだけ抵抗あっただろうな。まさか自分のために飾られていたおひな様を出す羽目になるなんて。
そう言えば、いくら言ってもおひな様の部屋には入らないもんね。
今年はおばさまが帰ってきたし、どうなるかな。

 * * *

坊ちゃまはあたしの顔を凝視している。
あたしは白酒を片手にへらへらしていた。
坊ちゃまの手にしているのは甘酒。
あたしが飲んだのは白酒。れっきとしたお酒だ。
「琴子ちゃん、大丈夫?」
「だからこいつに飲ませるなって言っただろ」
「でも盃に一杯くらいなら…」
「酔った後が問題なんだ」
「だー…じょーぶれすよー」
「どう見ても大丈夫じゃねーな」
坊ちゃまが舌打ちした。

坊ちゃまがかたくなに拒否していたあの和室に、皆が集っている。
それぞれシェフお手製の素朴だけどおいしいひな菓子を食べたりしているうちは良かったのだ。
おばさまが白酒をあたしに勧めて、その白酒に桃の花を少し浮かべて優雅な飲み方にうわ〜とつい一口二口とお酒が進んだ。
あたしは別にお酒が嫌いなわけではないし、飲めないわけではないのだ。だって、あのお父さんとお母さんの子どもだもんね。
…ただ、二人ともそうだけど、一定以上飲むと途端にへべれけになるのだけが難点。
え、誰もがそうだって?
あたしの場合、その限界がよくわからなくて…。
一度へべれけになった時点までなら大丈夫かと思えば、次の時には一口でもうダメだったりと体調にもよるんだろうけど一定しない。
だから飲むなときつく言われる原因ではあるんだけど。

あたしはまだ頭が働いていたと思う、この時点では。
うん、言い訳するならそこまでは、ね。
これは後にあたしが坊ちゃまに同じひな祭りの時に聞いた過去話の一部。
「部屋に戻す」
「では、私が」
「いい。俺が連れていく。やばいぞ、こいつの絡み方は」
そう言って渡辺さんの申し出を断り、また少し背が伸びた坊ちゃまにあたしはつれられるようにして部屋に戻ることになった。
「坊ちゃま」
あたしのぴしっとした口調に、坊ちゃまはほら来たとため息をついたという。
「あたしは大丈夫です」
何がどう大丈夫なんだか、坊ちゃまはふらふらさまよいがちなあたしの足元を見て頭を抱えたくなるほどだったという。
「琴子、おまえ絶対外で飲むなよ」
「のんでないれすよー」
「はいはい」
どうやら、酔っていても坊ちゃまに意見を言うときだけ態度が改まるらしい。というのは後から聞いた話だ。
部屋に連れられて、あたしはそのままぼすっとベッドに突っ伏した。
「ベッドきもちいー」
「おい、そのまま寝る気か」
あたしはベッドの上で正座をして坊ちゃまを見た。
「坊ちゃま、何を言ってるんです。寝ませんよ」
「もういいから、それは」
「よくありませんよ」
あたしは坊ちゃまにもベッドの上を指さして座るように促したという。
「えーとですねー」
あたしはそれだけ言って半分寝ていたらしい。
半目のまま坊ちゃまにもたれかかり、「せんせいろうしはもうんだいないれすってよー。せいろろはだめなんれすよー」とつぶやいたまま、坊ちゃまを抱き締めて「わかりましたかー」と言ったという。
「で?俺にそれを守れと」
「このあいら、音楽の間宮先生となれなれしく話していたじゃないれすか…」
「…ああ、あれか」
「後から優秀でいいですねって…あたしが同居代わりたいって…なんれそんなころいうんれすかー」
「俺が言ったわけじゃないだろ」
「…びじんはとくれすねー」
「支離滅裂だな、おい」
坊ちゃまはあたしの背をなだめながら、あたしをなだめて布団の下に強制的に入れてくれたようだ。
「とりあえずおまえ以外の奴はどうでもいいんだよ」
「それもらめれす」
「じゃあどうすればいいんだ」
「うーん?」
あたしは暖かい布団に包まれたせいかそろそろ寝落ちしそうだった。
この時の坊ちゃまはそれはもう理性的にあたしをなだめつつ「ああ、わかった、わかった、それなら約束な」とあたしの額にキスを残したという。
そんなかわいらしいキスの事実をあたしは全く憶えていないかったのだけど、ある日急に思い出すことになる。
あたしの脳は本当に残念な出来らしい。
ちょっと残念なひな祭りの思い出。







To be continued.