坊ちゃまとあたし




56


おばさまが帰国してから、また入江家はにぎやかになった。
裕樹坊ちゃまも直樹坊ちゃまの回りをうろうろしてみたり、離れて暮らしていた割にはとてもなついている。
その直樹坊ちゃまは春から中学二年生。
あたしもようやく先生二年目。

あたしは空を見上げてふーっとため息をついてみる。
うん、ついてみたくなる空だわ。
で、空を見上げるような何をしているかというと。
「ほら、琴子ちゃん、もっと直樹と寄り添って」
「え、は、はい」
「あ、こら、裕樹、邪魔しちゃダメ」
「あ、花びらが…」
あたしがそう言って直樹坊ちゃまの頭の上に落ちた花びらを摘まんだところでカシャッと鳴るシャッター音。
「ああん、もう、琴子ちゃんったら」
「あっ、すみません」
おばさまはすかさずデジカメの画面を確認した後でにんまりと笑った。
「ま、これはこれで貴重なワンショットよね」
おばさまは満足そうにしている。
桜の花びらが舞うここは、入江家の敷地内。
もちろん桜の木の下で敷物を広げてちょっとした花見だ。
本当は公園などに行こうと思ったのだけど、最近の花見ブームでどこも人でいっぱい。
それなら敷地内とは言え桜の木がないわけではないし、とおばさまが花見を企画したのだ。
「裕樹、それは食べるな」
そう言って直樹坊ちゃまは裕樹坊ちゃまの手からコショウのきいてそうなお肉をやんわりと取り上げた。「こちらにしろ」そう言って別のお肉を取り分ける。
坊ちゃまのこんな姿を見ることができるなんて。
あたしがしみじみとしていたら、坊ちゃまはあたしをにらみつけるようにして「乳母ような顔して見てんなよ」と言われた。
いや、気分は乳母よ。
「だって、坊ちゃまったらちゃんと裕樹坊ちゃまのお世話をするようになって…と思ったら感慨深くて」
「その坊ちゃまもいい加減やめれば」
「えーと、その、坊ちゃまは坊ちゃまです」
だってそれ以外なんてなかなか呼べないんだもの。
学校ではかろうじて入江くん、なんだけど。
「呼び方か〜」
前にも改めようとしたんだけど、結局坊ちゃまに戻ったなぁ。
「ま、いいじゃないですか。あたしにとっては永遠に坊ちゃまです」
「は?」
坊ちゃまはあたしをぎろりとにらむと文句を言いたいのか口を開いたところで「お客様がおいでです」と渡辺さんにさえぎられた。
セ、セーフ!
渡辺さんナイス!
あたしは踊る心臓を抑えるようにして振り向いた。
「あ、悪かったな。急ぎの書類が…」
とそこへ現れたのは啓太だった。
「あら、ま」
目を丸くしておばさまが啓太を見た。
坊ちゃまは「悪いと思うなら来るなよ」とつぶやいた。
書類を取り出すことに懸命だった啓太がようやく他にも人がいることに気付いたようで、おばさまたちの視線に気づいて敬礼するかのようにびしっと立った。
「あ、すみません、ご家族の団らん中にお邪魔して。斗南で同僚の鴨狩と申します。
本日は急ぎの書類を教頭から預かりましてお届けに伺いました」
「鴨狩さんとおっしゃるのね。御足労様。あら、まあ、本当に」
おばさまはそう言ってからあたしの耳元に「琴子ちゃん、相変わらずもてるのね」とささやいた。
「いや、それは勘違いです」
「は?何が勘違いって?」
啓太はあたしが大声で否定した言葉に反応して書類を片手に戸惑っている。
「あ、ごめん。違うの、啓太に言ったんじゃなくて。う、いや、啓太のことだけど、そうじゃなくて。えっと、その、とにかく、書類、ありがとう」
「あらあら、直樹もあぐらかいてる場合じゃないわね」
ちらりと見ると、坊ちゃまは恐ろしく不機嫌顔になった。
うん、まあ、家族団らん中と言えばそうだから、他人がプライベートスペースに入ってくるのを嫌がる坊ちゃまだしね。
「ところで、この書類なんだろう」
「二年生の担当者だけに配られたみたいなんだが、おまえとか早く帰ったからもらってないだろう」
「うん、そうね。初めて見る…うわっ」
あたしは書類の内容を見て驚いた。
忘れてた。二年生の行事と言えば…。
これ、キャンプの同意書だ。
ということは、今年、坊ちゃまはキャンプに行くという…。
「坊ちゃま、キャンプ、行かれるんですかっ」
「は?何を…」
「キャンプですよ、キャンプ」
「学校行事か。で、おまえは行くんだろうな」
「行きますよ。だって、二年生の担当なんですから、行かないわけはないでしょ」
「…だろうな。それなら行く」
「あ、そうですか」
坊ちゃまはやけにあっさりとそう言った。そうは言っても説明会があるのはもう少し先の話なのだけど。
「とりあえず書類は渡したからな。明日までに必要事項記入して提出らしいから」
「わかった。ありがとう、啓太」
「どういたしまして。それじゃ」
「あら、帰っちゃうの?せっかく来たんだから少しくらい寄ってってちょうだい」
おばさまが啓太に向かって言ったが「いや、でもそれは」と断りかけるとすかさず裕樹坊ちゃまをけしかけた。
「おい、ぼくとあそべ」と偉そうに裕樹坊ちゃまがまとわりついた。裕樹坊ちゃまの言葉は悪いけど、言葉自体は素直よね。
「うーん、それは…」
ちらりと啓太はあたしと坊ちゃまを見た。
時間はあるってことかしら。
「裕樹の御守りが少しつくけれど、遠慮なくどうぞ」
おばさまはにっこりと笑った。
あたしはすかさず坊ちゃまを見て「せっかくだから、裕樹坊ちゃまの相手を少ししてあげると喜ぶと思うんだけど、だめかしら」と言ってみた。
坊ちゃまは啓太にまとわりついた裕樹坊ちゃまを見ると、ふーっとため息をついて「好きにすれば」と言った。
啓太は少し笑って「それなら、少しだけお邪魔します」と裕樹坊ちゃまの手を取った。
裕樹坊ちゃまはうれしそうに啓太の手を引いて歩いていく。
啓太は面倒見いいから悪かったかしら。
「あらあらうれしそうね。それにしても、あんな同僚がいるなんて。これはちょっと頑張らないと…」
おばさまは意味不明な言葉をつぶやく。
坊ちゃまはぼんやりと桜と空を見上げる。
「きれいですね。来年も、またお花見しましょうね」
あたしがそう言ったら、坊ちゃまはあたしを見て言った。
「…来年も、か」
「ええ。来年も」
あたしの言葉に坊ちゃまは満足そうに笑った。
結局坊ちゃまも花見なんてと言いながら、満更でもないんじゃないの。
風に吹かれた髪を押さえながら、美少年然とした坊ちゃまと桜を見比べていたのだった。







57


玄関ホールに飾られるものは、いろいろあるけど、一番好きなのはクリスマスツリー。
二番目が、笹。
三番目は…どれも捨てがたいな。

坊ちゃまが字を書き始めた頃に飾られるようになったという、笹。
でも坊ちゃまは笹に願いを書かない。
多分飾られた当初は書いていたと思うのだけど。
坊ちゃまは笹に願っても叶わないから、書いても無駄、らしい。
でもあたしが入江家にお世話になるようになってから、一つだけ何か書いてくれるようになった。
あたしが笹に願うのは、その人のささいな願いと祈りで、あるいは決意のようなものだからと諭したのだ。
だからと言ってあたしが書く願いなんていつもたいしたことは書いていない。
せいぜい皆が健康で過ごせますようにだとか、成績が上がりますようにだとか、そんなこと願っても仕方がないだろと坊ちゃまに言われるくらいだ。
それでも、一年に一回、そうして自分が願っていることを見つめ直すのは大事だと言ったら、わかったと何事かを書いているようだ。
いつも何を書いているのかわからない。
飾ってあるかどうかもわからない。
それでも、坊ちゃまが幸せになるようにとあたしは笹に願い事を飾るのだ。

「で、今年のおまえの願い事は?」
「えーと、いつもと同じ」
「見せろよ」
「ちゃんと飾るまではダメです」
「毎年同じこと言ってるな」
「坊ちゃまこそ毎年そんなふうに言う割には見せてくれませんよね」
「笹に願って叶うなら、いくらでも書いてやる」
「だから、願っても叶うとは限らないからこそいいんじゃないですか」
「叶わないことをいいとか意味がわからないな」
「いいんですよ。毎年言ってますからね、これ」
「俺は叶うことしか書きたくない」
「例えば?今まで一つでも叶いましたか?」
坊ちゃまはそこでむっとして黙った。
あたしは単純に、あ、叶っていないんだ、と思ったのだけど。坊ちゃまはちょっとあたしの顔をちらりと見てため息をついた。
「絶対叶うから」
珍しくそう言ってからぷいっと行ってしまった。

渡辺さんが出入りの庭師の人に笹の設置を頼んでいる頃、使用人の皆さんが笹飾りを用意していた。もちろん自分の短冊もね。
ワイワイと楽し気に書いている様子は、クリスマスよりも実は盛り上がっているかもしれない。クリスマスは他のお客様も多くて大変だものね。
あたしも毎年同じように短冊を用意した。坊ちゃまに言ったようにだいたい同じ願い事だけどね。
「ことこー」
たったったっと軽い足音がして裕樹坊ちゃまがやってきた。
「これつけろ」
偉そうに言うので「つけて、もしくはつけてください、ですよ、裕樹坊ちゃま」と言うと、しばらく考えて「おにいちゃんはつけろっていう」と言い返してきた。
ますます知恵がついてきたわね…。
「あたしは坊ちゃま付きだからいいんですよ」
「なんでいいの?」
…そう言えば、何でだろう。
口が悪いのを半ば公認というのか。命令口調で言われても坊ちゃまだから仕方がないかと思っちゃうのがいけないのかしらね。
裕樹坊ちゃまのためにももう少し改めさせるべきかしら。
「言ってもいい相手とダメな相手がいるんですよ。それにね、裕樹坊ちゃま、小さいうちはかわいくつけてって言った方が大人は喜んで動いてくれるものです。裕樹坊ちゃまもお父さまの会社で働くなら、人が気持ちよく動いてくれるような言い方を覚えるべきです」
「…わかった」
裕樹坊ちゃまは少しだけ口を尖らせた。それもまたかわいいけど、坊ちゃまとは違う可愛さだなー。
そう思いながら笹につけてあげると、満足そうにしている。
おばさまがやってきて裕樹坊ちゃまを抱き上げると、「まあ、きれいに飾り付けできたわねぇ。ほら、裕樹、これはイギリスじゃ見られないからね」と喜んでいる。
そう言えばそうか。
元々どこだっけ、中国だっけ?そっちからの話だったと思うけど、さすがにイギリスにはないわよね。
あ、いけない。こんなこと言ってると、また坊ちゃまに前に教えただろうって言われちゃう。
でも外はまだ梅雨の時期。いつ雨が降るかわからない。
六日の夜に外に出す予定なんだって。
星に願いが届くといいな。
今でもそう思う。
坊ちゃまの願いもね。
あたしの願いは、坊ちゃまが幸せに暮らせますように、と。
あ、もちろん入江家の皆さんのことも書いたわよ。
あたしが願わなくたって坊ちゃまは今でも幸せなのかもしれないけど。
でも、それでも、やっぱり…。
あたしはなぜかその短冊だけは笹に飾ることもできないままでいる。
もしかして坊ちゃまもそんな感じなのかな。
笹に飾られない願い事だけど、叶えてくれるんだろうか。
揺れる笹飾りを見ながら、あたしは思わず真剣に叶いますようにと願ってしまったのだった。








58


何度めかの夏がやってきた。
夏はいつものように暑くて、できれば別荘に避難したい。
別荘だなんてぜいたくなこと、入江家に来てからの話だけど、それでも行きましょうよと誘われたのに行けないなんて!
これでも教師は案外夏休みも忙しくて、研修があったり、テニス部の公式試合があったりして、あたしは夏休みもせっせと学校に通う。
若いからという理由で散々こき使われ、部活で真っ黒になりながら、時には指導してるつもりが指導され(情けないことにテニス部のトップの子には逆立ちしたって勝てない)、来季の授業の計画にダメ出しをされ、坊ちゃまに疎ましがられながらも奮闘する日々なのだ。

「琴子、裕樹が別荘に来いと言ってるから、明日から行くぞ」
「え、あたしも?」
「どうせ明日からお盆でテニス部もないだろ」
「そりゃそうだけど」
「渡辺の暇は明日しかない」
「あ、はい、了解しました」

渡辺さんに迷惑をかけるわけにはいかないか。
昨年はあたし一人入江家に残ろうかと思ったのだけど、結局お邪魔したんだった。
この時期はよほどのことがなければ入江家のお手伝いさんたちも皆夏休みだ。
おばさまは料理が上手なので、シェフがいなくても何とかなるくらいの腕前。普段は忙しいので任せてるだけなの。おまけにパーティとかもあるしね。
ちなみに渡辺さんもそれなりに料理はできるという話。優秀な執事は一通り何でもこなすらしい。
だから、料理が下手なのはあたしだけ。
おかしいな、料理人の娘なのに。
そういうわけで、あたしは坊ちゃまと一緒におばさまと裕樹坊ちゃまが待つ清里の別荘に向かったのだった。

 * * *

清里では何もすることがない。
ううん、本当はしようと思えば夏休みの宿題並にやることはあるのだけど、どうしても頭が拒否してしまう。
おばさまはたまにはのんびりしなさいよと言うので、持ってきた教材なんて結局鞄の中に入ったままだ。
毎日裕樹坊ちゃまを引き連れて、虫取りをしたり、魚取りをしたりして過ごしている。
坊ちゃまはのんびりと木陰で本を読んでいたり、何事かやっているのだけど、おそらくいつものごとく学校の宿題なんてものは速攻で終わらせていて、何やらの研究だとか、おじさまの仕事上の何かをやっていたりするのだろう。
裕樹坊ちゃまは少しだけ寂しそうだけど、坊ちゃまが今さら虫取り網持って虫を追いかけまわすなんてこと想像できないし。
坊ちゃまは「裕樹にとってはいい経験だろう」と虫取り自体は否定しない。
もちろん裕樹坊ちゃまは虫を取るだけでなく、その後も興味津々。
その辺の分野はあたしの領域じゃなくて、そこからが坊ちゃまの領域だとばかりに、図鑑を示して何事か裕樹坊ちゃまに説明している。
これはこれで微笑ましい兄弟愛よね。
もう明日は東京に帰らなきゃとなった清里最後の夕暮れに、あたしはぼんやりと山の向こうに沈む太陽を見ていた。
山の夕暮れは早い。
「琴子、おまえ、小さいときにどこかの別荘で迷子になったって言ってたよな?」
「迷子って言うか、きっと寝ぼけた夢だと思いますよ」
「それで?」
「それでって言うか、前に言ったかと思いますけど、今頃はきっとかっこよくなっているだろうなって」
「俺は、少しだけ大人になって、小さな迷子の女の子を連れて帰ってやろうとした夢を見た」
「え、すごい偶然ですね」
「偶然じゃなくて、何かどこかでつながって、実はその二人はお前と俺だとしたら、どうなる?」
「どうなるって…」
でも年齢的に不自然、よね。
どうあってもあたしは坊ちゃまより年上で。
「そうですね。坊ちゃまだったら、いいなと思いますよ」
あの後、おばさまに坊ちゃまそっくりな親戚の人がいないかと聞いてみたのだけど、年齢的に坊ちゃまより年上で、同じような顔立ちの親戚はいないとのことだった。
去年よりも大きくなって、気が付いたら、坊ちゃまはあたしと並ぶくらいになっていた。
声も変わって、どんどん大人になっていく。
坊ちゃまはあたしが言った言葉を聞いていたのかどうかわからないような顔をして「あ、そう」と返事は軽かった。
「例えば」
坊ちゃまはそう言ってあたしに向き直った。
「たとえば?」
「あの別荘はこの清里の別荘だとしたら」
「あ、そうか。そういう可能性はあるわよね」
小さい頃、お父さんはこの入江家専属で働いていた。夏休みに別荘に招かれていたとしてもおかしくはない。
でも坊ちゃまは当然のことながら生まれていない。
でも、うん、そう言えば、これくらいの年頃だった。
どちらにしろ、ほとんど夢物語だ。
「坊ちゃま、今年も夏が終わりますね」
坊ちゃまは何も言わなかった。
暗くなってきて、表情もあまりわからない。
ただこうして二人で眺める夕日は、なかなかいいなと思った。

 * * *

「あーつーいー」
別荘から帰ったら、即秋になっている、なんてことはなかった。
お盆を過ぎただけで、暦では確かに秋かもしれないけど、秋じゃない。
がっつりどっぷり残暑で、夏の終わりだ。
あたしはまた自分の宿題とテニス部の練習に汗を流すことになった。
「相原先生、先生が暑いってやめてくださいよー」
だってあなたたちは結構涼し気なテニスウエアかもしれないけど、あたしは上下ジャージなのよ。
スコートはいたら坊ちゃまに怒られたし、短パンにしたら他の先生に何やら言われたし。なんとなく不公平よね。
「わかったわよぉ。少し休憩しましょ」
「はぁい」
皆はそれぞれ日陰へと移動し、ドリンクを口にしている。
あたしもよっこらしょと腰を下ろして、ぱたぱたと服の前を仰ぎながら入江家特製ドリンクを飲んだ。
おばさまがこれを作ってくれるようになって、去年みたいに倒れることがなくなった。
「で、琴子先生、どこかへ行きました?」
生徒の一人がそう聞いてきた。
「へ?」
「例えば〜、鴨狩先生とかと」
なんでここで啓太が?前の噂のせいか。
「え〜?行くわけないでしょ。友だちにも会えないくらいスケジュールびっしりだったのに。そもそも部の練習もあったし、せいぜい別荘にお邪魔したくらいで」
「入江くんちのか〜」
「あたしは一般庶民だもの。居候の身でありがたいわよね。そうね、海くらいは行きたかったかな」
「入江くんと別荘…」
「入江くんちの別荘」
「えー、いいなぁ」
ひそひそと女の子たちはいいなと連発する。
坊ちゃまは人気だからね。ちょっとだけ鼻が高い。
「今は十歳差って大きいですけど、二十歳を過ぎたら、それほど気になりませんよね」
「ん?そうかもね」
「うちの両親は十二歳違うんですよ」
「へー、そうなのね」
「うん、だから、先生もがんばってね」
「うん?…なにを?」
あたしが首を傾げたら、ほかの生徒があたしに向かって慌てて言った。
「あ、いいの、いいの、先生は気にしないで」
あたしが首を傾げている間に女の子たちはまたひそひそと話し出す。
「だって、全然気にしてないよ、あれ」
「入江くんかわいそー」
坊ちゃまが、かわいそう?
漏れ聞こえる声は気になるけど、ここで口を出したらうるさい先生よね。
今度、うん、また今度さりげなく聞いてみることにしよう。
あたしはそう思ったのだけど、この答えは当分誰からも返ってくることはなかったのだった。







59


「坊ちゃま、がんばってくださいね」
秋晴れの日曜日、坊ちゃまはテニスウエアに身を包んでテニスコートに立とうとしている。
これでも坊ちゃまはテニス部員だったりする。気が向いたときにしか出てこないけど。
しかもその気が向いた時を狙って男子テニス部顧問が試合を仕掛けて、もちろん結構負けず嫌いの坊ちゃまは勝ってしまって、つい選手登録なんかされてしまって、あたしに監視されるようにして連れてこられた大会でしっかり勝ってしまっている。
「やはり相原先生がいないとね」
男子テニス部顧問の先生にそう言われて「えー、そうですかぁ」と謙遜してみせたら、坊ちゃまに「ほら見ろ、おまえのせいだ」と不機嫌に。
でも、最終的に出ると言ったのは坊ちゃまで。
「おまえが出てくれないと立場がない、学校に顔出しできないとか言うからだろ」
「そうでしたっけ」
「都合のいいところだけ忘れるな」
「でも坊ちゃま、たまには学校に貢献しないと、せっかくの学校生活がもったいないですよ。あたしなんて学校は楽しいところだったっていう思い出が…」
「へー、成績どん底だったのに?」
「そ、それは…」
あたしは自分の数々のテストを思い出す。
よくあれで進級できたなぁ…。
いや、そんなことはもういいのよ、いい思い出になってるし!
あたしは頭をぶんぶんと振って、話をそらされたのに気づいた。
「そんなことより!今は目の前の試合を一つ一つ勝っていかないと」
「…もうあと一つだけどな」
「あ、そうですね。最後の試合だからって、固くならずにファイトですよ!」
秋の新人戦とも言うべき大会は、ほぼどこの学校も二年生ばかりだ。いえ、一年生も出ていいのだけど、実力でいくとなかなか坊ちゃまのようなスーパー中学生はそうそういないのが現実よね。
坊ちゃまはあたしの言葉に大きなため息をついて、「おまえがいる限り緊張感とかは皆無だな」と言った。
いいことなのかどうかわからないけど、ちょっとだけバカにしてる?
「どちらかというとおまえがすっ転んだり、ほかの中学に迷惑をかけていないかとか、会場で迷子にならないかとか、そういうことのほうがはらはらする」
「あたしだっていい大人なんですから、そんなことはありません!」
「どうだかな」
坊ちゃまはそれほど緊張した様子も見せずにテニスコートに向かった。

試合中、坊ちゃまは結構意地悪なところにバシバシとスマッシュを決め、エースをとり、あたしの頭の中には「○か、エースを取れ!」とのセリフがこだまする。
「相原先生、何ですか、それ」
ついあたしが熱くなってこぶしを握ってつぶやいたのを聞きつけた生徒が不思議そうに聞いた。
「え、知らない?そうか、知らないのかぁ」
つかの間の休憩が終わり、坊ちゃまは再びコートに向かう。
坊ちゃま、あと少し、がんばれ!
そんなときに後ろから声をかけられた。
「おねえさん、今これ決勝戦?」
試合中だから大声を出しちゃいけないと思ったのか、耳元で話しかけられて、あたしはびっくりして振り向いた。
「は、はい」
なんだか一応テニス焼けとでも言うのか、よく日に焼けた男の人が立っていた。
「へー、あっちの子、うまいね」
「そーなんですよ、すごいんですよ。ものすごくうまくて、頭もよくて」
「そっかそっかぁ。ところでおねえさん、かわいいね」
「へ?」
一度坊ちゃまの方に向き直っていたあたしは、急に口調が変わった男の人にびっくりして振り向いた。そんなあたしに構うことなく一方的に話しかけてくる。
「この試合が終わったら、ちょっと近くのお店を教えてくれないかな」
「お店ですか。うーん、でも、あたし、生徒たちを引率して帰らないといけないので無理です」
「あ、先生なの?」
「はい」
そう返事をしながら、坊ちゃまが急にサービスエースを連発するようになったので、目が離せなくなった。
後ろからまだしつこく話しかけてくる。
静かにしてくださいと言おうと思ったその時、渾身の力を込めた坊ちゃまの一撃とでも言うべき一打がなんとこちらに向かって飛んできた。
幸い金網があったので、あたしたち観戦者には当たらずに金網にガッシャーンとすさまじい音を立てただけで済んだ。
坊ちゃまはぺこりと頭を下げたけど、この期に及んでまさか緊張してる?
あと一球で終わりなのに?
坊ちゃまのオーラとも言うべき何かが怖い〜。
試合は再会したけど、最後の一撃は相手が全く反応できないままコートに打ち下ろされ、ボールは大きく跳ねてその一撃のすごさを見せつけたかのようだった。
かわいそうに相手の子は呆然としたまま、しばらくしてようやく恐る恐る跳ねていったボールを振り返ったくらいだった。
その途端、キャーという黄色い悲鳴も起こったけど、坊ちゃまは我関せず。
試合が終わって挨拶が終わるとさっさとテニスコートを出てきた。
そのまますたすたとこちらに向かってくると、「帰るぞ」と一言。
「え、ちょっと、帰るって、まだ表彰式あるし!」
あたしは後ろの男を振り払って坊ちゃまの後を追いかけた。
偶然だろうけど、あたしが振り払った手があたしをつかもうとしていた男の顔面にヒットした。
「あ、ごめんなさーい」
悪いとは思ったけど、あたしは必死で坊ちゃまの後を追いかけた。
このまま帰られたら怒られるし!
坊ちゃまはせっかく優勝したのにすごく不機嫌なままで、「おまえはっ、少し目を離すとこれかよ」と迎えに来た渡辺さんの車に乗れと指示された。
え、だって、ほかの生徒とか、表彰式とか。

「ああいう馴れ馴れしい男をいちいち相手するな」だとか、「おまえはすぐにぼーっとするから」とか、「だいたいちょろそうに見えるせいだ」とか、車の中ではずっとお説教だった。
十三歳に説教される二十三歳の女って。
おまけに、あの後どうしたかと言うと、坊ちゃまは急な頭痛、腹痛によって表彰式は残念ながら欠席したんだとか。
…嘘つき。(坊ちゃまは嘘じゃないとあたしを睨んで言った)
他の生徒たちを引率するはずだったあたしは、もう一人来ていた先生に急な体調不良を起こした生徒を送り届けるためにと全部お任せすることに。…ごめんなさい…。
男子テニス部の顧問の先生は、苦笑しながら「お大事に」と見送ってくれたのだった。
坊ちゃま、やりたい放題もほどほどにしないと。
成績はいい、部でも優勝と、向かう者敵なしの坊ちゃまに意見できる教師なんて、「相原先生だけですから、お願いしますね」と後日念押しされたのだった。
ええっ、でも、あたしでも説教される身なんですけども、とは言えないあたしだった。







60

直樹坊ちゃま十四歳の誕生日がやってきた。
その前にはあたしの二十四歳の誕生日祝いもあったのだけど、もう今さら、ねぇ。
おまけに誕生日を祝うようでいて、坊ちゃまはどこか不機嫌だった。
おばさまは遠い目をして「いつまでたっても歳の差は縮まらないわよねぇ」とつぶやいた。
急に歳をとるなんて冗談じゃない。
あたしはその想像だけでぞっとして腕をさすった。
坊ちゃまはあたしの「ある日急に歳をとったら怖いですよね、そうですよね」の言葉に「なんでお前だけが歳をとるんだ」と眉間にしわを寄せた。
だって、おばさまの言葉を聞いたその日の夜、あたしはひどい夢でうなされたのだ。
あたしだけどんどんどんどん歳をとっていき、しわくちゃのおばあさんになってしまったというのに、世話をする坊ちゃまはまだぴちぴちの十代という夢。
そんな歳の取り方じゃ、坊ちゃまの世話半ばであたしが死んじゃうじゃないの。
後悔してもしきれないわ。
悪い夢は人に話した方がいいというので、早速坊ちゃまにその話をしたのだ。
「そんなこと現実には起こらないから安心しろ。歳をとったら俺より年上のくせして、俺より年下に見られるだろうよ」
「そうですかね。若いままでなんて言いませんけど、せめて坊ちゃまのお世話をしている間は見苦しくないようにしたいです」
「…おまえはいつまで俺の世話をする気なんだ」
そう言って坊ちゃまは笑った。
そりゃそうか。
いずれ坊ちゃまだって結婚すれば、その世話はお嫁さんがするものかもしれないし、坊ちゃまの執事にもなれないあたしは、いったいその頃どうなっていることやら。
こんなあたしでも誰かと結婚して、このお屋敷を出ていたりするのかな。
もちろん一生を坊ちゃまに捧げるというのもありだろうけど。
「そういうつもりがあるなら、一生、いろよ」
「お屋敷に、ですか」
「そうだ」
「邪魔、じゃないですかね」
「なんで」
「え、だって、その坊ちゃまだって跡取りとしてのあれこれが…」
あたしの言わんとしたことはわかったらしい。
おばさまと同じような遠い目をして「誰がわかっていないって、本人だけなんだよな」とつぶやいた。
誰がですか、何がですか、とは聞けなかった。
渡辺さんがそばで同じような遠い目をして「先は長うございますね」と言ったからだ。
お屋敷にいるということは、きっとそういうことに機敏にならなくちゃいけないんだろうと。あたしはまだまだ修行が足りないらしい。

誕生日当日は、盛大な誕生パーティなるものはやらなかった。
というのも、数日前から坊ちゃまは少しだけたちの悪い風邪にかかっていて、当日はまだ熱が上がっていたせいだ。
坊ちゃまは熱っぽいその顔であたしに『お願い』をした。
誕生日のプレゼントはいらないから、いつかの塩レモン水を作って飲ませてほしいって。
あたしは喜んで厨房をお借りして作った。
いざ坊ちゃまの所へ持っていく時になると、おばさまは「風邪がうつるかも」と心配そうだったけど、「そんなに近寄りませんから大丈夫ですよ」と言うと「うつってもちゃんと看病してあげるから大丈夫よ。ええ、直樹の我儘に少しだけ付き合ってあげてね」とのことだった。
それなら、とあたしはマスクをつけていざ坊ちゃまの元へ。
坊ちゃまはまだ熱っぽいままの顔で、「飲ませろ」と言った。
はいはい、それくらいお安い御用ですよとばかりにあたしはベッドに寄った。
「…何でマスクしてんだ」
「うつるからです」
「………」
数秒黙って坊ちゃまと向き合っていたが、やがて坊ちゃまは諦めたように言った。
「それをこっちに寄こせ」
「いえ、飲ませてあげますよ」
「どうやって」
「もちろんストローで!」
「………」
坊ちゃまはまたもやあたしの顔を黙って見つめた後、ふうっとため息をついてだるそうに身体を起こした。
「あ、はい、どうぞ」
坊ちゃまが手を伸ばしてきたので、あたしは塩レモン水の入ったコップをその手に渡した。
一口飲むと「懐かしいな」と言った。
あの時以来、坊ちゃまは風邪をひいて熱を出すこともなく、作る機会もないまま過ぎていたのだ。
「あの時の坊ちゃまはかわいかったな〜」
そうそう、早く治るようにおまじないもしたんだっけ。
「また早く治るようにおまじないしましょうか」
「何だ、それ」
「あの時聞いたのは、いつもうなされるって言うから、坊ちゃまのおでこにチュッて」
「は?」
坊ちゃまの驚く顔を見て、あたしは気が付いた。
そう言えば、坊ちゃまはもうあの時の五歳児ではない。
あれからもう九年、中学二年生になったのだ。
さすがに中学二年生にもなった坊ちゃまにおでこにチュもないだろう。
「…あ…と、ごめんなさい、そうですよね、気持ち悪いですよね、坊ちゃまもう十四歳ですもんね」
坊ちゃまは口を開けたままそれ以上何も言わない。
塩レモン水の入っていたコップをあたしは強引に受け取って、少し後ずさりした。
うわー、思いっきりひかれた。
あたしはちょっと気まずい思いを胸に部屋を出ようとした。
でも、坊ちゃまは再びベッドにもぐって言った。
「さっきうなされた」
「へ?」
その言葉の意味をあたしは一瞬勘違いしたかと思った。
「おまじない」
「え、あ、ああ、そう、ですか」
勘違いじゃないことがわかると、あたしはちょっとだけ戸惑った。
「じゃ、じゃあ、おまじない、しますよ」
「よろしく」
坊ちゃまは悪びれずそう言って目をつぶる。
この際マスクはしてちゃダメだろうと、マスクを取った。
えへん、えへんとなんとなく咳払いして、「坊ちゃま、いきますよ」と言うと目を開けて「どうでもいいから早くしろ、本当に風邪うつるぞ」と怒る。
「では」
再び目をつぶった坊ちゃまに顔を寄せて、そっと額に唇を寄せる。
あの頃よりずっと大きくなった坊ちゃま。
その額はあたしの唇一つでは有り余るくらいだ。
「いい夢を」
そうつぶやいて唇を額に乗せる。
坊ちゃまは神妙な顔をして目をつぶっていたけど、さすがに熱で額も熱い。それが唇から伝わってきた。
その熱を感じた途端、あたしは自分の熱が上がったようになった。
もううつった?そんなバカな。
そのまま坊ちゃまが目をつぶったままなので、あたしはそそくさと立ち上がって部屋を出ることにした。
そっとドアを閉めた後、あたしは力が抜けたようにドアの前に座り込んだ。
あー、びっくりした。
本当にびっくりした。
何にびっくりしたのか、よくわからない。
坊ちゃまがおまじないをしてほしいと言ったことなのか、坊ちゃまにおでこチュウなんてものをこの歳でしてもいいものだったのか。
未成年なんとかというのに引っかかったりしないわよね。いや、引っかかるか。いやでも本人の希望だし。いやでも、本人の希望があってもダメなんだっけ。いや、でも、本人病気の時だし。坊ちゃまだし。
あー、もういいや。
あまり考えるのはやめよう。
いつも坊ちゃまはあたしが考え過ぎるとろくなことがないっていうし。
でも、これでおばさまのおっしゃる通り、わがままはきいてあげたし。
少しでも早く治るなら、これでよかったのよ。
うん、そうよね。
あたしはようやく力が入るようになった身体を起こし、「エイエイオー!」と気合を入れてから部屋に戻ることにしたのだった。
何で気合を入れないといけなかったのかもわからないまま。







To be continued.