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またもや新学期がやってきたというのに、あたしは相変わらずうだうだとしていた。
「早くしろ、遅刻するぞ」
「なんか、もう、あたし、役に立たない気がしますけど、いいんでしょうかね」
「知らねぇよ、理事長に言え」
坊ちゃまはそのまま斗南の中等部から高等部に移り、何とあたしも一緒に高等部に異動したのだった。
今日は早く出勤すると言うと、それなら俺もと坊ちゃまも張り切って(?)一緒に学校へ行くことになった。
新学期の前、年度末より少し前にあたしには辞令が下った。
それまで中等部で国語教師としてすごしていたのだけど、今度はなぜか高等部へ。
いえ、ちゃんと国語教師の資格を持ってますよ。持ってますけど、あたしのスキルじゃ高校生はちょーっと無理なんじゃないかな―とか思ったり。
でも理事長は、あたしが高等部へ来てくれないと困るのだという。
中等部に残った同僚の鴨狩啓太は、複雑な顔をして「達者でな」と言った。
とは言いつつ、高等部は中等部と隣り合っていて、職員室も実は変わらない。
桔梗幹ことモトちゃんは坊ちゃまが中等部二年時の終わりに英語教師が足りないと臨時でやってきた後にもあたしと一緒に高等部に異動となった。
そつなくこなしてるからてっきり小学部に骨をうずめるのかと思っていたけど、英語が専門だと聞いてびっくりしたのだ。
坊ちゃま曰く、必要な資格があって基準さえ満たしていれば、私立の学校だから何でもありだと。
そこに少しだけおばさまの思惑もある気がするけど、何でだか高等部の先生方は坊ちゃまの世話係が一緒に異動してきた、くらいの認識でしかない。
つまり、坊ちゃまと一緒に持ちあがるのは当たり前だと思われていたことにようやく気が付いた。
そうだったのか。世話係だったんだ。
あたしのスキルだかスペックだかどうでもよくて、坊ちゃまのお世話をしてればいいんだということに気が付いて、なんだか果てしなく無能な気がしてあたしは新学期だというのにうだうだしていたのだ。
唯一の救いは、馴染みのある桔梗幹ことモトちゃんと一緒だということ。
「あら、お早いわね」
オカマだのなんだの言われながらも全く気にした様子も見せず、変わらずモトちゃんはあたしを見て言った。
「今日は会議があるから早く来いって言ってたでしょ」
「そうよ。よく覚えていたわね」
「失礼ね、それくらいの脳みそはあります」
「あらごめんなさい、坊ちゃまに阻止されたかと思ってたわ」
「だって坊ちゃまも早く来るから問題ないって」
「まああ、愛されてるわねぇ」
「違うわよ、あたしがうだうだやってたから逃げ出さないためよ」
坊ちゃまは相変わらずの仏頂面で学校に通う。
あれこれ何でもできる天才だとして高校入学前から誉れ高い。
ちょっとだけ皆に遠巻きにされているけど、また中学のときと同じくどうにかなるわよね。
朝の会議が終わると、それぞれ皆ホームルームや授業へと向かう。
あたしは坊ちゃまのクラスの副担任を当たり前のように任され、朝のホームルームのために担任と一緒に向かう。
教室では皆がワイワイとしているかと思いきや、さすがA組、静かなものだった。
昨日始業式が終わったというのにA組はすでに役割分担なんかもさっさと割り当てを済ませた。
坊ちゃまはただ静かに教室で過ごす。何かの係をしなければならないとなった時、ごく普通に図書委員を選んだ。
理由は、あたしが図書委員の顧問だからだ。
司書さんは別にいるからこれと言って困る仕事はあまりない。
ちなみに部活も今は受け持ってない。
テニス部の子たちは寂しがったけど、もうすでにテニス部を受け持っている先生はいるし、あたしはおとなしくするに越したことはないという結論に達した。
坊ちゃまは帰宅部ですぐに帰る。
時々図書委員としての仕事はこれからあるだろうけど、それもきっとあたしが一緒に面倒見ることになるんだろうな。
司書さんは落ち着いた既婚者で、常に学校にいるわけではないので、その分をあたしがカバーするのだ、と聞かされた。
授業の合間に図書室へ行くと、古い本と新しい本の匂いが入り混じったような香りがして、少しだけ中学時代を思い出して躊躇する。
高校生の時は図書館で勉強することもなかったけど、高校受験の際はこれでもあたしだって必死に勉強したのだ。
そこにはちょっとだけ頭のいい子がいたりなんかして、ちょっとだけドキドキしながら勉強していたなあなんて。
「で、そいつ、どうなったの」
ひっ。
あたしは驚いて振り返った。
その勢いで本棚に頭をぶつける。
「いたたたた…」
ぶつけた頭を押さえると、坊ちゃまがぶつけたあたしの頭を見ながら言った。
「赤くなってる」
「坊ちゃまが驚かすから。授業どうしたんですか」
「一時間目は自習になった。奥さんが産気づいたんだと」
「あ、へー、山本先生のところもう生まれるのね」
「で、図書館でドキドキした奴はどうなったんだ」
「どうなったって、あたしよりずっと頭のいい学校に行ったんじゃないかなって思うけど、それっきり会ってないから知らないわよ」
「ふうん。ここか」
あたしの言葉も聞いてるんだか聞いていないんだか、坊ちゃまはあたしがぶつけた額付近の髪をかき上げた。
いつの間にか坊ちゃまの背はぐんぐん伸びて、あっという間にあたしより10センチ以上高くなってる。
坊ちゃまはぶつけたあたしの額をぺろりとなめた。
「うわああ」
「ちょっとまずい」
「そ、そんなとこ…」
「これからもあんま化粧すんなよ」
「い、犬や猫じゃないんですから、な、なめたって傷は治りませんからねっ」
「へー、おまえにしてはまともなこと言うじゃん」
そう言って坊ちゃまはどかりと椅子に座った。
「あ、当たり前ですよ、そんなこと」
心臓はドキドキ痛いくらいに鳴っている。
「これで図書館での思い出できただろ」
「…へ?」
あたしは何か言い返そうと思ったけど、口をパクパクさせたまま言葉が出なかった。
悔しいことに、あたしの図書館でのドキドキの思い出は、今の坊ちゃまのひとなめ(?)で上書きされてしまった。
新学期から、あたしは坊ちゃまのイタズラ心に振り回されることとなった。
62
図書館って、勉強するところよね。
そんなことを思っているあたしは、間違っていないと思うの。
ドキドキしたひと舐め事件から、なんだか坊ちゃまの距離が近い。
しっかりしなさい、あたし。
出来が悪いとはいえ、坊ちゃまより十は年上なのよ。
図書館で本の整理を任されて、放課後に図書館で過ごすことも増えた。
高等部に入ってから部活の顧問もなくなった状態で、今は授業についていくのが必至。情けないことに。
時々参考になりそうな図書を見つけることもあるから、この図書委員顧問はあたしにとって結構なプラスかもしれない。
そして、職員室での違和感というか、ちょっと遠巻きにされてる感を緩和してくれる。
ええ、ええ、所詮坊ちゃまのお世話係ですよーだ。
「世話係ならさっさと終わらせて帰ってこい」
図書館入口からいつの間にか入ってきた坊ちゃまがそう言った。
「ぼ…じゃない、入江くん、図書館では静かに」
そう言ったら、坊ちゃまはあたしのそばに寄ってきて、本棚に向かって本を入れているその耳元で「早く帰ろうぜ」とささやいたのだった。
「う、うわぁ」
バサバサバサっと足元で本が音を立てる。
思わず大きな声を出して、手に持った本を落としてしまった。
「相原先生、声が大きいんじゃないですか」
「な…な…なんでわざわざ耳元で…」
大きな声出しちゃいけないからって、耳元で話すことないじゃない。
思わず耳を手で覆うと、坊ちゃまは意地悪そうに笑った。
「本まで粗末にして」
そう言って足元の本を拾う。
その際に本があたしの足をすっとかすめる。
「う、うわあ」
またもやあたしは声を出してしまった。
図書館内には生徒はほんの二、三人しかいないし、自習机は少し離れているので何がどうなったかなんてきっとわからないだろうけど。
今の、わざと?ちょっとかすっただけ?
意地悪なのか偶然なのか。
ストッキング破れてないわよね?
あたしは思わず足元を見た。散らばった本を坊ちゃまが拾っている。
スカートは短くも長くもない、と思う。
ひざ丈で、それなりの教師らしい格好だと思う。
坊ちゃまにはいろいろダメ出しされた挙句、ようやくオッケーが出た服だった。
短いだのなんだのとうるさいの。
あんたは保護者かってと思ったわよ。
坊ちゃまはすでに本を拾い終えて、あたしの代わりに本を抱えて立ち上がる。
「あ、ありがとう、入江くん」
「いいえ。代わりに入れましょうか」
そう言って、あたしの後ろから本棚に本を入れていく。
坊ちゃまに覆われてしまう形になって、あたしは息苦しさを感じた。
「…あ、あのね、入江くん。ちょっとどいてくれないかな」
「先生が抜けたらどうですか」
「あ、それもそうよね」
あたしはバカみたいにじっと突っ立っている必要はないのだと気付いて、その坊ちゃまの腕の下から抜け出そうと…。
ダン!と音がして、あたしの目の前に坊ちゃまが腕を本棚に突いた。
「…出られないんだけど」
「ああ、すみません。ちょうどここに入れる本だったので」
「…坊ちゃま、ちょっと今日は意地悪に度が過ぎるんじゃない?」
思わず小さな声だけど、坊ちゃまに文句を言った。
坊ちゃまはあたしを見下ろして笑った。何でこういうときの笑いって意地悪そうなんだろう。
「さっさと来ない琴子が悪い」
「だって仕方がないでしょ、図書係なんだもん。そう言う坊ちゃまだって図書委員じゃない」
「だから手伝ってますよ」
そうなんだけど、なんかチガウ。
「じゃあわざと意地悪せずに普通に呼びに来てよ!」
あたしが叫んだ声が図書館中に響いたらしく、向こうから咳払いが聞こえた。
「相原先生、先ほどからうるさいんじゃないですか」
小声でそう言って坊ちゃまがからかうように笑う。
「もう、仕事終わったから帰ります」
それだけ言って、あたしは荷物を取りに行った。
既に職員室から他の先生が出払っていたので、あたしは荷物だけをつかんで職員室を出る。
「あ、琴子、今週末、歓迎会あるらしいわよ」
途中廊下ですれ違ったモトちゃんがあたしを見て言った。
「わかった」
「…何でそんなに赤いの」
「何が?」
「顔」
「へ?」
「熱でもあるんじゃない?まあ、それなら早く帰ってしっかり休んでちょうだい」
「…そ、そうなのかな」
「じゃあね」
そう言ってモトちゃんはさっさと歩いて行ってしまったけど、あたしはモトちゃんに言われた言葉に首を傾げた。
そばの窓ガラスに顔を映してみたけど、カラーじゃなかったからわからない。
顔がほてってるのかもしれない。さっき坊ちゃまと口論したし。
それに、坊ちゃまが耳元で話すから。
耳が弱いなんて思ったことないけど、耳元で話しかけられると思ったよりくすぐったいのね。
びっくりしちゃったせいかしら。
校門付近に坊ちゃまがいて、遠巻きに女子が坊ちゃまの様子をうかがっている様子がわかる。
坊ちゃまもさっさとかわいい子と下校すればいいのに。
本当に友だち少ないんだわ。
だからあたしなんて待たないといけなくなるのよ。
坊ちゃまはあたしを促して迎えの車に乗り込む。
家族の送迎なんて歓迎されてないけど、明らかに坊ちゃまは別格よね。
もちろん高校生になって一人で帰宅する時だってあるけど、時間になると迎えに来る車で帰ることが多いから、友だちと楽しく帰ることもあまりないし、女の子と知り合う機会も少ないんだと思う。
「坊ちゃまももっと青春しないとね」
あたしのつぶやきに、坊ちゃまは窓の外を眺めたままつぶやき返してきた。
「それには琴子の協力がいるんだよ」
ああ、そうかもね。
あたしだってもっと坊ちゃまの友だちづくりに協力しないといけないわよね。
「任せて、坊ちゃま」
あたしは坊ちゃまに向って力強くうなずいた。
坊ちゃまはあたしをふーんと眺めた後、「期待しないで待ってるよ」と答えたのだった。
63
週末、歓迎会があると言ったら、坊ちゃまは顔をしかめた。
あのね、大人には大人の付き合いというものがあるの。
それにあたしはただでさえ坊ちゃまのコネで就職させてもらっているようなものだし、坊ちゃまに付き合って高等部にまで来たんだから、そこそこ愛想を振りまいておかないと肩身が狭いのよ!
というようなことを熱を込めて話したら、坊ちゃまは仕方がないというようにため息をついた。これは一応許可が出たということよね。
そもそもなんであたしが歓迎会一つで坊ちゃまの機嫌をうかがわないといけないのよ、と思うんだけど。
「坊ちゃまには弱いのよね…」
ビールを片手にあたしはつぶやいた。
「なになに、坊ちゃまは飲み会にいい顔しなかったわけ?」
「そうなのよ」
「何それ、過保護ね〜」
「そうでしょ、だいたい二十五にもなって全く出会いもなければ恋人いない歴更新中よ」
あたしはそう言ってまたビールを飲んだ。
隣であらあらと言ったモトちゃんは、最初でこそ顔をしかめた先生たちやからかう生徒たちもいたけど、小学部からいる名物先生でもあるから、慣れるのも早かったし。
「だいたい坊ちゃまはあたしの保護者かっての」
ビールが空になったコップをどんとテーブルに置くと、あたしはモトちゃんを見た。
「まあ、酒癖は変わってないのね〜、やだわ〜」
「坊ちゃまなんてね、あたしが図書館で作業してると来てね、あたしの…あたしの…耳を…足を…」
「え?ええ?なんて?今なんて?」
あたしの耳を引っ張ってみたり、あたしの足を引っかけたりもしたのよ。ひどいわ。
「それに、あたしが本を入れてたら、こう、腕を…」
「きゃー、危ない」
モトちゃんは前のめりであたしの話を聞こうとしてるけど、周りの声がうるさくてよく聞こえないらしい。
「ちょっと、どういうことよ。さすが坊ちゃま…じゃない。えーと、いけない、いけない。これ言っちゃうと不純異性交遊どころか未成年淫行条例違反に…。えーっと、誰も聞いてないわよね」
モトちゃんはきょろきょろと辺りを見渡してあたしに声を潜めるように言う。
なんで坊ちゃまの意地悪を声を潜めて話さないといけないのよ。
あ、そうか、他の先生たちに坊ちゃまの素行の悪さを知られたらまずいわよね。
「いくら坊ちゃまの素行が悪いからって、条例違反はないでしょ」
そう言うと、モトちゃんは「え?」と明らかに引いた顔と態度であたしを見た。
「あんた、本気で言ってんの?」
「はい?」
モトちゃんはしばらくあたしの顔を見つめた後、「こりゃダメだわ」と頭を振った。
「何がだめなのよー」
「強いて言えば」
「言えば?」
「あんたのすべてよ!このすっとこどっこい」
「す、すっとこ…?」
「はあ、気の毒に。そりゃあたしだって教師の立場。推奨するわけじゃないけど、青春のすべてをこのすっとこどっこいに捧げるなんて不毛なことしようだなんて、坊ちゃまも案外賢くないわね」
「坊ちゃまは賢いですよ、天才なんれすよ」
「適当に遊んでりゃいいのに。適当に遊んでおいて適当に発散させないと、いつか大爆発起こしそうで嫌だわー」
「大爆発なんて起こしませんよー」
「まあ、いやだいやだ。こんなすっとこどっこいに全部奪われるのねー」
「そのすっとこって何よ〜」
「あんたのことよ、すっとこどっこい」
「ひーどーいー」
「ひどいも何も、だいたい一番恋愛もあっちも楽しくて興味があって仕方がないこの高校時代に、そんな天然高等スルー技術ですっとぼけられちゃあ、たまったもんじゃないわよ」
「て、天然…何?」
「最初は年上の女ってのは、定番よねー。もちろん初めて付き合った同級生彼女とってのもほのかな憧れではあるけどぉ」
「あ、あたし、そう言えば高校生のとき」
「なになに」
「…坊ちゃまのお屋敷にお世話になってたから、彼氏の一人もできなかった!」
がくっとモトちゃんが脱力した。
「あんたそれ言ったら、坊ちゃまに怒られるわよ。いや、怒られるだけで済むかしらね。もしかしたら監禁よ、監禁」
「なんでよ」
「そんなのあんたに彼氏ができたらまずいからに決まってるでしょうが」
「でもでも、坊ちゃま、あたしの学校に来たことあるし」
「はん、そんな昔のこと」
「あんたなんていいようにまるめこまれて、いずれ…」
モトちゃんの肩を困ったように叩く人がいた。
そこであたしたちは居酒屋の一角だということにようやく気付いた。
あたしたちの声がどんどん大きくなっていたのに気づかなくて、どうやら注目を浴びてしまったらしい。
「あの、その、誰のことかはぞ、存じませんが…」
新任の社会の先生(だったっけ)は、同じように新任のあたしたちと同じ列に座っていたので、注意する役目を負ったらしい。明らかに目が泳いでいる。本当に存じませんかどうかはあたしも知らない。
他の先生方は、おほんとか、えへんとか、聞いていないふりをしている(ような気がする)。
大きな声で監禁だのなんだのと話したのだから、そりゃ注目も浴びるだろう。
まさかこれが本当に坊ちゃまの話だと信じていやしないわよね。
あたしは酔いかけていた頭が少し冷えた。
「え、えーっと」
「誰のことだったかしらねぇ、相原先生」
「そ、そうねぇ、ただの漫画の話、ですよ、桔梗先生」
「あらアタシ、少し酔っちゃって〜」
「あ、あたしも…」
確かに酔っていた。何の話しだったか、もう訳がわからない。あたしが高校のときの話だったのか、坊ちゃまの高校の話なのか、今だか昔だか、もう頭の中はぐちゃぐちゃだ。
きっとモトちゃんだって酔っていて訳のわからないことを言っているのに、今の今までで気づいていなかったみたいだし。
場を誤魔化すためにぐいぐいと酎ハイを飲んだあたしとモトちゃんは、久々に酔っぱらったのだった。
「ったく、こんなになるまで飲みやがって」
「ちゃんと帰ってきましらよ〜」
「酒くせぇ」
「くさい…くさい…?あたしくさいのぉ…?うわああぁん、くさいのいや〜」
「相変わらず大トラだな」
「坊ちゃま、監禁するの?」
「はぁ?」
「だって、だって、モトちゃんが高校生の彼氏ができたら監禁するって」
「意味わかんねぇ」
「もう、監禁するようなら、不純なんとかとか、条例違反とかになっちゃうよ〜。坊ちゃまが捕まっちゃう〜」
「なんで俺が捕まるんだよ…。いったい飲み会で何の話してんだ、おまえは」
「うう、だっれ、あらし…」
「あー、めんどくせぇ。わかってんのかよ、おまえは」
「わかりましぇん…」
あたしはそのままベッドに突っ伏して眠ってしまったようだった。
どうやって部屋にまで行ったのか、全く憶えていない。
もしかしたら、また坊ちゃまに迷惑かけたのかもしれない。
「ざまあみろ」
坊ちゃまの程よく甘いささやきに、あたしは結構いい夢を見た気がする。
でも、朝一番で会った渡辺さんは、あたしの顔を見た途端に「う…」と何かを堪えるような顔をして言った。
「琴子さん…その、坊ちゃまが失礼をいたしました」
そして黙って手鏡を渡してきた。
なんと、顔に『バーカ』と書いてあった!
「な…!」
あたしは慌てて洗面所に駆け込むと、ごしごしと顔を洗った。
「お、落ちない」
まだうっすらと残る『バーカ』の文字。
今日が土曜日でよかった。あと一日あれば何とか落ちるかもしれない。
「坊ちゃまったら…!」
鏡を見ながら(しかも鏡文字で書いてあるというご丁寧さ)、あたしはうなる。
坊ちゃまが、本当はこんなに優しくて、そして意地悪なこと、誰も知らないのかもしれない。
64
飲み会があった翌週、朝一番に会った学年主任の先生は、わざとらしくコホンと咳払いをした後、実に言いにくそうにそっぽを向いてあたしに言った。
「相原先生、在学中は節度を持ってお願いしますね」
「…はあ…?」
あたしの返事が心もとなかったのか、学年主任の先生はこちらをちらりと見た。
「くれぐれも、学校の中で問題にならないように」
「え…はい」
ざ、在学中…?誰が?あたしはとっくに卒業したけど?
…あ、坊ちゃまか。
あたしの返事に満足がいかなかったのか、学年主任の先生はこちらを振り向いた。
「うちではともかく、外ではいち教師ということを忘れずに」
今度はあたしの話?
「…もちろんです」
あたしはうなずいた。
「本当にお願いしますね」
学年主任の先生が泣きそうな顔であたしの肩をつかんだ。
なんでここまで言われないといけないのかわからないけど、そこまで言うのであたしは胸を張って答えた。
「任せてください!」
隣から「先生、そんな寝た子を起こす様なことを…」とささやくモトちゃん。
学年主任の先生はそれでも何となく後ろ髪ひかれるようにして席に戻っていく。
「あたしが何したって言うのよ」
モトちゃんに言うと、モトちゃんは黙ってあたしに手鏡を渡した。
「いや、落書きはちゃんと消したから!」
「落書き?何言ってんのあんた」
モトちゃんはあたしを引っ張って職員室の隅へ連れていくと、あたしに右耳の後ろを指した。
今日はちょうど髪を耳に掛けていたのだけど、指された場所を手鏡でのぞくと、そこにぽつりと虫刺されの痕があった。
「あれ?いつの間に?かゆくなかったんだけど」
「まさか虫刺されとか思ってんじゃないわよね」
あたしとモトちゃんは他の先生が来る前にと応接セットの衝立の陰でこそこそと話をしていた。
「じゃあ、何、これ。やばいもの?」
そんなことをしているので、あたし、何かやばい感染症だったり?と思わないでもない。
「ある意味やばいかも…」
「ええっ。ど、どうしよう。い、今から病院?」
「いや、とりあえずあんたコンシーラー持って…ないわよね…」
モトちゃんはあたしの顔をまじまじと見てため息をついた。
「何に使うのよ」
「いいわよ、もう。化粧っ気のないあんたに期待したあたしがバカだったわ」
「失礼な。化粧くらいしてます」
一応社会人として、教師としての必要最低限のたしなみよね。
「ものすっごく薄いけどね」
「だって、坊ちゃまがあまり塗りたくるなって」
「別に塗りたくらなくてもいいけど、薄化粧と薄い化粧は違うのよ。これなら化粧しない方がマシって感じ」
「どう違うのよ」
「ああー、今そんなこと言ってる暇はないわ」
「そ、そうよね。どうしたらいいの。許可取って病院とか?」
「何言ってんのよ、あんた。どうでもいいけど、今日は耳に髪をかけるの禁止よ、禁止。絶対にこの痕を生徒に見られないようにしなさい」
「病院行かなくていいの?」
「…ああ、いい、いい。行かなくてもいいわよ、こんなの」
「じゃあ大丈夫なのね」
「そうね、大丈夫じゃないけど大丈夫」
「よくわからないんだけど」
「あたしが大丈夫ってんだから、とりあえずは大丈夫よ。とにかく髪を耳にかけさえしなければ見えないから」
「わ、わかった」
「昼休みの間に何とかするしかないわね」
「どうにかなる?」
「真里奈にでも借りるしかないわ。今日はあたし持ってないから」
モトちゃんの話はさっぱりわからないけど、とりあえずモトちゃんの言うことを信用することにした。
一体あたしに何が起こってるのか訳がわからない。
でもモトちゃんの言う通り髪を下ろしていることにした。
モトちゃんは先ほどからこちらを心配そうにうかがっていた学年主任の先生に何事か耳打ちして、何やら根回ししてくれたらしい。
とりあえずは何とかなりそうだけど、ただの虫刺されではない?結構赤かったというか、赤黒かったというか。
…まさか打ち身?金曜日は酔ってたから覚えてないし、打った直後は気づかないし。しかもこんなピンポイントでどうやって何で打ったんだろう。
二日かけて何とか落とした落書きは、ばれなかったらしい。
とにかく、感染症でもなければ何とかなりそう。モトちゃんが大丈夫って言ってたし。
いや、大丈夫じゃないって言ってたかな?
ううん、大丈夫だけど、大丈夫じゃないってことだっけ?
それじゃ大丈夫じゃないってことじゃない。
あれ?大丈夫じゃないけど、大丈夫だったっけ。
そんなことを考えているうちに続々と先生方が集まってきて、月曜日朝の簡単な報告会は終わってしまった。
朝のホームルームも淡々と終わる頃、坊ちゃまはあたしの顔をじっと見てから横を向いて笑った。
絶対思い出し笑いね。
残念でした。額の落書きはちゃんと消しましたよ。
今日は朝礼があるからと坊ちゃまより早く出勤したので、顔を会わせていなかったのだ。
その後も授業中につい落ちてくる髪の毛を耳に掛けようとしてはっとして止めた。いい加減髪を縛ってしまいたかったのだけど、今日だけはダメよね。
何とか堪えて昼休み、モトちゃんがあたしを保健室まで手招きしてそこで何やら処置をされた。
保健室には養護教諭の酒井先生が楽し気にあたしを見た。
「あらあらあら、相原先生もやるわね」
何がやるのかわからないまま、モトちゃんにそこに座れと命令された。
すかさず小学部にいる真里奈から借りたというコンシーラーを塗られた。
そうか、こうやって使うのか。
でも痕を消してどうにかなるのかしら。
「消したけど、髪は上げないで」
モトちゃんは怖い顔をしてあたしに言った。
「それから、コンシーラー、今度から自分で用意して持ってて」
「なんで」
「また同じことがあったら困るからよ」
「まさか。そんなに何度も打たないわよ。お酒も気をつけるし」
「何言ってんのよ」
モトちゃんはふーっとため息をついた。
「まあいいわよ。それならそれで。真里奈がこれはあんたにあげてもいいと言っていたから、後でお礼しておきなさいよ」
「…はぁい」
「机の引き出しにでも置いておきなさい」
「はぁい」
酒井先生はあたしを見てモトちゃんに言った。
「何、わかってないの?」
「そうなんですよ、罪な女ですよ」
「で、誰に?彼氏いたっけ」
「そんなの詮索したらヤブヘビですよ、わかってないんですから」
「あ…!なんかわかっちゃった」
酒井先生は「やだ、ホント?」と顔を赤らめている。
何よ、何なのよ。
「まさかと思うでしょ?」
「…ああ…お年頃だしね」
酒井先生はうんうんとうなずいた。
「いつ手を出したのかしら」
「そりゃ…って、それは禁句です、酒井先生」
「保健体育の先生にきちんと教育してもらうように忠告しておかなきゃ」
「あー、それ言いますか」
「今どきはいくら注意してもいろいろあるのよ。たとえひに…」
もがっと酒井先生はモトちゃんに口をふさがれた。
あたしは二人のやり取りを見ながら、何やらやはりこの打ち身だか虫刺され痕だかは何かやばいものなのだという認識はできた。
「わかりました。私から注意しておきます」
酒井先生は大きくうなずいた。
「え、言いますか、本人に」
「じゃあ誰に言うのよ」
「…そうですよね」
「大丈夫よ。頭がいいからちょっというだけで理解するわよ。注意だけしておけば、勢いだけでどうにかするなんてことしないでしょ」
「そうですかねぇ」
「…せめて十八までは…と言っておくわ」
「…了解です」
モトちゃんは諦めたように酒井先生に答えたのだった。
「あの、終わったなら行ってもいいかしら。入江くんがお弁当待ってるし」
「あー、ごめん、ごめん。でもそろそろ来るんじゃない?琴子センサーつけてんのかってくらい居場所探し当てるし」
モトちゃんの言葉にあたしは笑った。
「さすがにそれはないでしょ」
そう言った途端、保健室の扉が開いた。
「失礼します」
坊ちゃまだった。
「え、まさか本当にあんたGPSでも付けられてんの?」
「何それ」
モトちゃんが本当に驚いたように坊ちゃまを見ている。
「あら、入江くん。琴子先生の治療は今終わりましたよ」
酒井先生は坊ちゃまを見て言った。
「そうですか。ご迷惑おかけしました」
珍しい。坊ちゃまがあたしのためにそんなこと言うなんて。
「琴子先生にとっては、死活問題なので、その点はよぉく考えて行動したほうがいいわね。頭のいいあなたならわかるでしょ」
坊ちゃまは少し目を細めて酒井先生を見た。
あ、やばい。何かやばい目だわ。
「今回は注意だけしておきます」
「…はい」
「あと三年ですよ」
坊ちゃまはあたしを立ち上がらせて保健室を出ていけと促す。
廊下に出たあたしの背を押すようにして、坊ちゃまは保健室を振り返った。
「…無理です」
…何が?!
保健室の向こうでは、息をのむような音だけが聞こえたけど、坊ちゃまはにやりと笑ったままだ。
「あの、坊ちゃま?」
「なんだよ」
「あたし、何か重要な病気ですか?」
坊ちゃまは真顔になってあたしを見た。
「おまえじゃない」
「あたしじゃなければ、誰なんです?」
「どちらかと言えば…」
「どちらかと言えば?」
「…俺の方かもな」
坊ちゃまはあたしから目をそらして歩き出した。
あたしはいつもの坊ちゃまの冗談かと思い、昼食を食べるためにお弁当を取りに行くことにした。
「坊ちゃま、今日は坊ちゃまの好きなおかずですよ、きっと」
「そんな根拠どこにもない」
「あたしの勘を信じてくださいよ」
そう言うと、坊ちゃまはようやく頬を緩めた。
だからあたしはようやく安心して、多分聞いていないだろうお弁当の中身についてあれこれと推理してみせたのだった。
65
高校に入っても坊ちゃまの優秀さは変わらず、一学期の期末テストの結果を見たあたしはため息をついた。「坊ちゃまって、本当に天才かも」
いや、知ってたけど。
国語現代文の丸付けを終え、どこも非の打ちどころがない回答を前に一旦休憩することにした。
「入江くん、また満点ですか」
隣に座っている同じ国語科の羽鳥先生が坊ちゃまの答案用紙を見て言った。
「ええ。現代文は解釈によっては満点取りにくいはずなんですけど」
実際今まで坊ちゃまが満点を取れなかった教科は、国語だけだ。
「その辺も訓練すれば問題ないはずですよ。入江くんは勘もいいですから」
決して坊ちゃまの情緒が豊かだとは思えないんだけど。あ、でも少しは喜怒哀楽が出るようにと一緒に過ごしてきたあたしの努力は少しくらい報われているのかもしれない。これでも一応教育係なんだし。
「でも、ちょっと愛想ないですよね」
あたしの言葉に羽鳥先生は「うーん」とうなった。
「まあ、あたしたちにはねぇ」
それが問題なんだけど。
羽鳥先生はコーヒーをグイッと飲んでから立ち上がった。
「さあて、今日はもう帰ろう」
「えっ、もう終わったんですか」
「まあ、だいたいね」
「お、お疲れ様でした」
気が付けば、職員室にはほとんど人がいなかった。
い、居残りは嫌だ。
居残りをすると、学生のときの何ともやるせない気持ちがよみがえってくる。
まあ、あたしバカだったからな〜。
よく教師になれたよね。
もちろん強大なるコネだってことはあたしだってちゃんとわかってますよ。
でもこれでも、留年しないように頑張って、教育実習だって頑張ったし。
教師としての力量はどうかというと心もとないけど、指導の先生だってちゃんといるわけだし、どうせ優秀な子たちしかクラスにいないから、あたしが多少心もとなくてもなんとなく過ぎていくし、皆塾でやるから大丈夫だって…。
いや、そりゃそれも情けないというか問題ではあるのだけど、あたしの教科以外がどうにかなってるから大丈夫よ、うん。
あたしも机の上に置いていたペットボトルのお茶をぐいっと飲み干すと、「さあ、残り頑張るぞ!」と気合を入れた。
時間はどんどん過ぎていき、とうとう最後の先生が帰っていき、大丈夫ですかという念押しのもとにあたしは職員室に一人になった。
しんと鎮まった学校の中は、ちょっとした物音でもよく響く。
「いいや、も、もう帰ろう」
あたしはやっぱり怖気づいて、ばたばたと机の上を片付け始めた。大事なものは机の引き出しにしまって、鍵をかけるのも忘れない。これだけは就職してから徹底して守っている。そうでもないと書類なんか失くしたら大問題になって、就職を斡旋してくれた入江家に多大なる迷惑もかけてしまうから。
それに坊ちゃまにだって恥をかかせてしまう。
「よし!」
あたしは鍵を財布の中にしまって荷物を持った。
あとは電気を消して、職員室の戸締り、と。
それだけやっておけば見回りの警備員さんが後はやってくれる。
そそくさと職員室を出ようと出入口に向ったとき、何やら足音が…。
「近づいてくる…?誰もいないはずなのに?」
あたしは廊下をちらりと見たけど、誰もいない。
どうしよう、強盗とか、答案用紙盗みに来た生徒だとか。←もう試験が終わっていることはこの時点ではパニックで気が付いていない。
そっと職員室の電気を消して、あたしは出入口の扉の陰に身を潜ませた。
「もしも生徒だったら、お説教ね。強盗だったら…」
あたしは武器になるものを探す。
でも持っているも荷物以外は何もない。職員室には身を守るものはあったはずだけど、よく考えたらあたしは鳥目だった…。
暗闇になると途端に見えなくなる。
電気、消さない方がよかったかも?いや、でも、強盗だったら見つかっちゃうし。
もう一度そっとのぞいたら、男の人が歩いてくるのが見えた。
ゆったりとした足取りの…。
「坊ちゃま!」
あたしは職員室の陰から飛び出した。
「まさか坊ちゃまが答案用紙を取りに来ただなんて!」
坊ちゃまならそんなことしなくても満点…あれ?
坊ちゃまは「は?」とした顔のまま立ち止まって、あたしを見た。
そうよね、あたし勘違いしてたけど、もうテスト終わったし、坊ちゃま満点だったし。
「バカ琴子。俺が取りに来たのは答案用紙じゃなくておまえだ」
「あ、あはは、答案用紙なんて必要ないか」
「いつまで残ってるんだ。ほら、さっさと戸締りして帰るぞ」
「そ、そうか。迎えに来てくれたんだ」
「遅くなるって連絡したっきり、何時だと思ってんだ。どうせもう誰もいないんだろ」
「そ、そう。あたしが最後になっちゃった…」
あたしは慌てて職員室の戸締りをすると、坊ちゃまの隣に小走りで近寄った。
「あー、坊ちゃまでよかった。あたし、強盗か生徒かって思っちゃった」
いや、坊ちゃまは生徒だけど。
「誰か不埒なヤロウがいたらどうするつもりだったんだよ」
「ふ、ふらちって、やだ坊ちゃま、そんなわけ…」
「例えば急にこんなふうにされたりしたら、おまえ振り払えるのか」
そう言って坊ちゃまはあたしをぎゅっと抱きしめた。
「え?あの、坊ちゃま」
坊ちゃまはすっかりあたしの背丈を越してからも伸び盛りで、どんどん差は開くばかり。そりゃあたしの力ではどうにもできませんよ。
「ぼ、坊ちゃま、む、無理です。そもそも坊ちゃまだったらそんな無理なことしないですし、振り払う必要、ないですよね」
坊ちゃまはあたしを抱き締めたまま笑った。
「振り払う必要、ないか」
「…ない、ですよね」
あたしがそっと坊ちゃまを見上げると、坊ちゃまはちょっとだけ真面目な顔をした後、あたしの鼻を摘まんだ。
「イッタ!痛いですよ、坊ちゃま」
坊ちゃまはあたしに背を向けると言った。
「おまえのその態度がムカつく」
「ひどいです、坊ちゃま」
「…帰るぞ。運転手が心配してる」
「はい、坊ちゃま」
坊ちゃまは来た時と違い、大股で早足になって歩いていく。
だからあたしは追いつくために小走りにならなければならなかった。
「待ってくださいよ、坊ちゃま」
「遅い」
「迎えに来たのに置いていくってどうなんですか」
坊ちゃまの背中を懸命に追いながら、あたしは気が付いた。
もしかしたらあたし汗臭かったとか?
そうよね、こんな時間まであれやこれやとうなりながらやっていたわけだし。
それに坊ちゃまからはふんわりといい香りがした。そりゃフローラル、というわけにはいかないけど、きちんと洗濯された服の匂いなのか、それとも…。
あたしは玄関にたどり着く前に坊ちゃまの背中にようやく追いついた。
「もしかして、あたし臭かったですか?!」
坊ちゃまは眉間にしわを寄せて振り向いた。
「何言ってんだ?」
「えっと、だから、こう…ぎゅっと…し、たと、き…に…」
そうだった。
坊ちゃま、何か怒ってた。
ちかん対策を教えてくれてたのに。
そんなときに臭かったり、振り払うこともせずにいたなんて、あたしったら。
「わかりました。今度はちゃんと振り払いますね!」
「はぁ?何言ってんだ、おまえ」
坊ちゃまは呆れたようにあたしを見てがっくりとうなだれた。…ように見えた。
「坊ちゃま?」
坊ちゃまは恨みがましい目であたしを見た。
「もういい。どうやってもおまえには通じないらしい」
「はい?」
今度はあたしが盛大にはてなマークを浮かべるところだ。
「とりあえず言っておく。別に臭くないし、俺を無理に振り払う必要もない」
「そうですか」
あたしはほっとした。
「じゃあ、振り払うのはちかんだけにしておきます」
坊ちゃまはため息をついた。
「…ぜひそうしてくれ」
学校の門を出ると車が待っていて、「お迎えありがとうございます」とお礼を言うと、運転手さんはただうなずいて車への乗り込みを促した。
車が静かに走り出すと、あたしはようやくほっとした。
車という密室で坊ちゃまの隣に座ってみると、先ほどの事が気になってくる。
臭くなくてよかった。無理に振り払わなくてよかった。
でも本当に臭くないのかしら。今度香水でもかけてみようか。デオドラントもちゃんとしよう。
それから、坊ちゃまって案外力強かった。だって、びくとも動かなかったし。
あれが別の人だったらと思うと困る。
そうよね。坊ちゃまだからいいのであって、別の人だったら全力で振り払わなくっちゃ。
でも、どうやって?
肝心な振り払い方教えてくれてないじゃない。
「坊ちゃま、家に戻ったら、ちかんの振り払い方、教えてくれますか」
坊ちゃまはあたしを横目で見て「断る」とだけ言った。
「え、どうして」
「これ以上夜にやりたくない」
「昼ならいいんですか」
「…よくない」
「じゃあ、誰か護身術の先生紹介してくださいよ」
「それも断る」
「え、じゃあどうすれば」
坊ちゃまは「また日を改めて」とだけ言った。
「…わかりました」
車の中なので、不満はとりあえず引っ込めて、あたしはそう返事した。
坊ちゃまはシートにもたれかかってふうっとため息をついた。
それが、何だか坊ちゃまの心が少しだけ前と違う気がして、あたしは戸惑った。
戸惑ったことに何故だか動揺して、あたしは家に着くまで珍しくずっと無言だった。
坊ちゃまも、何も言わなかった。
To be continued.