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坊ちゃまは賢い。
おばさまによるとIQが200近いとかなんとか。
IQは高ければ高いほど賢い、というくらいしかわからないあたしにとっては、自分がそれほど頭が良くないのも知ってるし、今から頑張ってもせいぜい秀才の域に近づけるかどうかだってこともわかってる。
いくつくらいなんだろ、あたしの頭。
そんなことを想像すると落ち込みそうなので、そういうことは一切考えないことにした。
二年生になった今年もあたしは、結局成績順で行けば一番下のF組だった。
坊ちゃまは渡辺さんに連れられて無事に入学式を済ませた。
一年生の群れの中にいると、坊ちゃまの賢そうな様子は際立っている。
なんというか、子どもらしさがない、とでも言うのか。ちょっと心配。
クラス分けでは当然のごとくA組で、きっと坊ちゃまはこれから高校までA組のまま過ごしていくんだろうと思われた。
A組の子たちは、子どもらしいがちゃがちゃとしたF組の子たちと比べると、行儀が良くて、坊ちゃまにとってはその方がいいのかも。
「坊ちゃま、学校には慣れましたか」
そう聞けば、坊ちゃまはため息をついて「別に」と言った。
別にって言うのは、慣れてないのか、慣れたけどどうってことないという意味なのか、よくわからない。
なのであたしは首を傾げて坊ちゃまに言ったのだ。
「バカなあたしにもわかるように答えてくださいよ」
「…疲れる」
ようやくそう返した坊ちゃまは、本当に疲れていそうだった。
お屋敷からあまり出ていないから、体力がないのかしらねと思ったり。
「坊ちゃまがあまり外で遊ばないからですよ」
「体力的にじゃない。精神的にだ」
「それならスポーツでもして体力も精神も鍛えましょうよ」
「…おまえ、そういうの好きそうだな」
「そうだ。この間聞いたんですけど、お屋敷の向こう側にテニスコートあるんですって?今から鍛えればウインブルドンも行けるかもしれないですよ。ほら、誰でしたっけ。松…何とかシューとかいう人みたいに」
「他人の名前をシュークリームみたいに言うなよ。趣味でやるのはいいけど、世界大会とか冗談じゃない」
「だっておばさまとおじさまもテニスできるんでしょう?あたしも教えてほしいなと思って」
「おまえが?」
「あたしだって頑張ればお蝶夫人とかみたいになれるかも」
「…お蝶夫人?」
「岡、エースをねらえ!なーんて、かっこいい鬼コーチとかいたら、あたし頑張れるかも」
「…絶対教えない」
「もう、坊ちゃまが教えられるわけないじゃないですか」
「知らなかったか。おれはテニスできるぞ」
「へ?」
「それこそイギリスでもテニスしてきたし」
「そ、そうなんですか」
坊ちゃまはふふんと笑って「宿題してくる」と言って自分の部屋へ。
え、えー、結局テニス教えてもくれないの?!とあたしは取り残されたのだった。
リビング(いわゆる一般的な家とはちょっと違うけど)でぼんやりしていると、渡辺さんがやってきた。
「何かお召し上がりになりますか」
「今はいいです。それより、坊ちゃまがこの間から少し元気がないようなんですが」
そう言えば渡辺さんが、ああ、とうなずいた。
「やはり学校ともなればずっと一人で好き勝手に勉強を進めることもできませんし。周りに合わせるというのも勉強の一つなんですが、それもどうやら煩わしいようで。
それに近々家庭訪問や授業参観もありますし、思ったよりも家族が必要な行事があるのですね。ほとんどは私が出席することになります」
ああ、とあたしはうなずいた。
斗南はどちらかというとかなり融通が利く方だけど、それでも一応一通りの行事はあるんだろう。公立では当たり前だと思っていたけど、仕事の都合でいない家庭も多いんだろうな。
「そう言えば、坊ちゃまって、お受験は…」
渡辺さんはただにっこり笑った。
う…、もしかして試験なしかしら…。
あたしはすごい家にお世話になってるんだなと改めて思ったのだった。
37
坊ちゃまは新学期を何とか過ごしていた。
思ったよりもうまく学校生活を送っているようであたしは安心した。
どうやら最初の一週間で自分の位置を把握して、あえて親しい友達は作らず、当たり障りなく無難に過ごしているらしい。
それでも本来の負けず嫌いもあって成績で誰かに負けるというのはありえないらしく、成績は聞くまでもなくほぼ満点だった。
まあ坊ちゃまってばもう小学生の内容ほぼ学習できていそうだし、授業もつまらないだろうなとは思う。
でも、どういうふうに授業が進められるのか、教科書がどうやって活用されるのか、実際に植物を育てたり、育っていく様子を見たり、昆虫なんかを捕まえたりするのも授業にあるから、そういうのも勉強の一つじゃないかなと言ったら、それはそれで納得した様子だった。
少しはアドバイスが役にたったようであたしはほっとしたのだ。
渡辺さんも同じことを言おうと思っていたらしく、「ありがとうございます、琴子さん」とお礼を言われてちょっとだけ浮かれた。
あたしは高校二年になったけど、頑張ってもF組からは逃れられなかった。
まあ、理美やじんこと離れるのもさみしいし、二人も揃ってF組だったから、別にいいんだけどね。あ、金ちゃんも一緒だったっけ。
それを言うと坊ちゃまは少しだけ顔をしかめたけど、相変わらずあたしが早く帰ってくるので、友だち関係は大丈夫なのかと逆に心配されたくらいだ。
それを言うなら坊ちゃまだって友だちいなさそうだけどね。
坊ちゃまの場合は放課後に寄り道をするのはそう簡単にできることじゃない。
何せ大会社の坊ちゃまだから、誘拐とか心配しないといけないしね。
もしもあたしがこのお屋敷に来なかったら、坊ちゃまはイギリスの寄宿学校に入るはずだったとか。
イギリスならご両親もいらっしゃるし、英語だって少し勉強すれば坊ちゃまなら問題なさそうだし、といった感じだったらしい。
それでも屋敷を空にするのは忍びなく、偶然あたしが斗南に進学することになり、これ幸いとばかりに坊ちゃまは日本で引き続き過ごすことになったのだという。
留学したほうが坊ちゃまにとってはいいような気もするけど、ご両親であるおばさまとおじさまの言い分は、海外で仕事を進めていくには、生国である自分の国を知ること、誇りに思うことが大事なんだって。
従業員の大半は会社のある日本なわけだし、自分の国を知らなくては他国で競えないと。
つまり、日本で一定期間過ごしていくのは大事なことだと。
もちろん周りの親は寄宿学校に何故入れないのだということも言われたらしいのだけど、おばさまはあたしに言った。
「男ばかりで、あの無愛想な息子がますます無愛想になりそうじゃない。
紳士的とはよく言うけれど、子どもは子どもらしく喜怒哀楽に満ちた毎日を過ごしてほしいのよ、琴子ちゃんと」
もちろん寄宿学校でそれができないわけではないけれど、前とは違うという坊ちゃまの様子をおばさまから知らされると、やっぱりあたしのお陰よね!と胸を張ることにした。
いろいろ感心して聞いてはいたのだけど、坊ちゃまがどう思ったのかはわからない。
いずれ海外に行くのだろうけど、その頃には立派な青年になっているのかな。
海外に行くまであと何年あるのだろう。
あたしはそれを思うと少しだけ寂しく思う。
息子が成長して手放すときってそんなふうに思うのかもしれない。
そんなことをつぶやいたら「おまえの息子なわけないだろっ」と坊ちゃまが怒った。
いやーねぇ、そういう気分よ、気分。
おばさまから託された貴重な数年を、あたしは大事なものを預かるようにして(それこそ息子か弟のような気持ちで)過ごすのだと決めたのだった。
38
坊ちゃまが小学三年生に進級すると同じく、あたしはこの春、何とか大学生になった。
斗南は幼稚園から大学まである学園ではあるけど、バカなままでは進学できない。
あたしはとっておきのバカだったから、斗南の高等部に入学するのも実は大変だったのだ。
なぜそこに進学しようと思ったのかはともかく、少なくとも入ってしまえば大学まで楽に行けると思っていた。
現実は、学年でも上位のクラス(つまりA組とか)は更に上の大学を目指して受験するし、下位のクラス(…あたしのF組はここ)は足切りと言ってそのままでは大学に無試験エスカレーターで進学することもできないのだ。
このまま坊ちゃまのお世話係として進学するのを諦めてしまおうかと思ったのだけど、坊ちゃまに不要と言われ、渡辺さんにちゃんと勉強すれば進学できると励まされ、しかも家庭教師までしてもらって、最後の試験をかなりまともな成績を残すことができて、足切りも逃れたのだった。
同じく理美とじんこも進学し、あたしたちは大学でも一緒に通うことができることになった。
ちなみに金ちゃんは、えーと、その、足切りにあって進学は叶わず…というか、なぜかお父さんの店に修行に入ってしまって、お父さんは仕方がないと金ちゃんを見習いとして雇うことになった。
金ちゃんはこれで婿候補だ〜と言っていたけど、誰の婿よ、誰の。
晴れて大学生になったけど、これと言って目標はない。
強いて言えば、少しでも坊ちゃまのお役に立てればいいなと思ったくらいかな。
もちろんおじさまの会社に入ろうとかそういうことじゃなくて(そもそもおじさまの会社は貿易会社なのであたしには無理)、傍にいるだけじゃなくて、できることがあればメイドだって構わないのだ。
渡辺さんのように執事になるのもあたしには無理だとすれば、秘書見習いくらいならどうだろうか。
そう言ったら、坊ちゃまは鼻で笑った。
…ええ、ええ、どうせあたしには何もできないですよーだ。
渡辺さんは確かに何でもできるのだ。
この入江家を任されているのだから当たり前か。
でもその渡辺さんとて頭の上がらない人がいるのだという。
それが渡辺さんのおじい様だそうで、前の執事さんだという。
もう今は引退してしまったのだけど、そのおじい様に鍛えられた渡辺さんが優秀でなくて何だと言うのだろう。
あたしはそんな渡辺さんを尊敬してる。
渡辺さんは結婚を考えていないのかと聞いたなら、もちろん考えてはいるけど、なかなかおじい様のお眼鏡にかなう人がいないのだという。
自分で好きに選べないの?と聞くと、そうではない、と言う。
この入江家に仕える身ならば、どれだけきちんとした伴侶を選べるのか、それすらも執事としての資質の問題だとおじい様は言うらしい。
ほとんどお屋敷から出ない(とあたしは思っている)渡辺さんがいったいどこで確かな身の上の人と出会うのかしらね。
渡辺さんは曖昧に笑うだけで、答えてはくれない。
坊ちゃまは渡辺さんが結婚するなんて思っていないのかも。
あたしがどうかしらねと話を振っても「そんなの適当に誰か探すだろ」と素っ気ない。
お子ちゃまに大人の話を振ったのが無謀だったのかも。
大学に行きだしてそんな将来のことを考え始めたのだった。
坊ちゃまの未来は社長かもしれないけど、あたしの未来はどうなんだろう。
どこか会社に入って、普通のOLになるのかしら。
この入江家も出て…?
あと四年。
実質三年であたしはこの入江家でどうするのかを決めなければならない。
なんて短い三年だろう。
あたしは四年後を思い、何となくため息をついたのだった。
39
大学生活が少しずつ慣れてくると、家に帰るのも遅くなったりすることもある。
坊ちゃまに教えてもらったテニスが面白くなり、あたしはテニスサークルに入ることにした。
…が、間違ってテニス部の方に入ってしまったみたい。
サークルのように遊びに行ったり、他の大学と楽しくテニスする、というようなお気楽なものではなく、ガッチガチの体育会系のクラブだった。
それを聞いた坊ちゃまは、腹を抱えるほど笑った。
サークルに入ったと聞いたときは超絶不機嫌だったのに、とんでもなくスパルタな部だったと伝えた途端の大笑いだ。
あたしは初日から顔にラケットの痕をつけて、足に飛んできたボールでついた青あざを披露する羽目になった。
こんなはずでは…と即やめようと思ったのに、つい説得されて残ってしまったのだ。
うーん、一緒にいた松本裕子なる美人にバカにされるのが嫌だったのと、テニス部の部長だった須藤さんに引き留められたからだ。
どうしても無理ならやめればいいという結論に落ち着いて、あたしは今もテニス部に残っている。
坊ちゃまも来年は入りたければクラブに入れる学年になる。
でも小学部にテニス部はないから、どうするんだろう。
そう言ったら、坊ちゃまはあっさりと「そんなもの入るわけないだろ」と言った。
部活で青春、とかいうのは坊ちゃまの辞書にはないらしく。
「わざわざ苦労してまでやりたくない」
という何とも小学生らしくないお断りをされた。
そもそもいいところの坊ちゃまが多い御子息様方が怪我をするような部活も、誘拐の危険も多い放課後に残る、という選択肢はありえないのかもしれない。
帝王学を見に付けなければと家庭教師が家で待っている子も多いという。
ちなみに坊ちゃまはそのほとんどを小学校に入る前に済ませてしまっている。
つまり、もう家庭教師はいらないのだ。
家庭教師に教えられるようなことはほとんどない。
坊ちゃまは自分で調べることもできるし、気になれば自分からどこかの大学教授に質問したりもしている。
だいたい坊ちゃまのメル友(この場合パソコン上での、と断っておく)は、どこかの開発事業部のなんたらとかいう研究職の人とか、大学の教授、それに海外の人とかなのだ。
相手は坊ちゃまがまさか八歳だとは夢にも思わないだろう。
パソコンでは相手の顔も見えないし、正直に年齢を伝える必要もない。
どうしても、というときには明かすが、誰も信じない、という。
世界が違う、とあたしはつくづく思う。
「ところで坊ちゃま、あたしの進路なんですが」
「何だよ」
「先生なんてどうでしょう」
「はあ?」
坊ちゃまは盛大に声を上げて、呆れたというように首を振った。
「おまえはっ、渡辺に勉強を見てもらう立場でありながら、おまえに教えられると思うのか?」
「ええ。でも、小学生ならどうでしょう」
「…話にならん」
「ええ、そんな」
この時は、これで終わった。
何故なら、坊ちゃまが四年生になる頃、なんとおばさまが急に入江家に帰ってきたからだった。
それも、お腹に赤ちゃんを授かって!
ようやく航空機に乗っても大丈夫な週数になったからと、イギリスから帰ってきて、日本で赤ちゃんを産むことにしたのだと。
知らなかった坊ちゃまもあたしもびっくりで、既にお腹の出ているおばさまを見て唖然とするばかりだった。
しばらくショックを受けたまま、坊ちゃまはおばさまに距離を取っていた。
何よりもいきなりだったしね。
それでも、あたしはそれではまずいだろうと、おばさまのお腹を一緒に触らせてもらったりして、恐々だった坊ちゃまもようやく受け入れるようになったのだった。
一度理解すれば坊ちゃまに怖いものはない。
どうやら妊娠についてもあれこれと調べたようで、おばさまの行動に対して今度は注意するようにまでなった。
生まれる頃にはまだかまだかと待ち遠しい様子さえ見られた。
そうして夏になる頃には、坊ちゃまの弟として裕樹さまが生まれたのだった。
教育実習の話は終わったと思っていたのは坊ちゃまだけで、あたしは諦めていなかった。
二年生になると教職課程も履修することができるコースにうつれるのだ。
あたしはどちらにしても将来の希望はなく、家で坊ちゃまの面倒を見ているうちに先生もいいなとか、この気難しい坊ちゃまをなつかせたのだからきっとうまくいくに違いない、と有頂天だった。
履修コースを教職も取れるコースに変えて、あたしは着々と準備していた。
ちょっとつまずきながらも二年から三年になり、いよいよ初めての教育実習が始まろうとしていた。
坊ちゃまはすっかり忘れていたらしく、あたしがいよいよ教育実習に行くという事になって初めて言った。
「お、おまえ、本当に行くのか」
「ええ。じゃーん、なんと!斗南の小学部でーす」
「…何年生だ」
「えーと、確か…」
あたしは帰りに配られたプリントをガサゴソと開いてみた。
封筒の中に入れられたそれは、決定した行き先が書いてあるのだ。
あたしは斗南なら慣れていて大丈夫かと、第一希望を斗南にしていたのだ。
坊ちゃまと奪い合うようにしてプリントをのぞいた。
「五年!」
えーと、坊ちゃま、五年生、ですよね。
「しかもA組かよ!」
あたしはえへへと坊ちゃまの顔をうかがった。
「最悪だな」
「さ、最悪でしょうか」
「何でF組のおまえがA組担当なんだ」
「な、何ででしょう」
「変えてもらえ!」
「そ、そうします」
あたしは坊ちゃまの剣幕に恐れをなして、ダメもとで実習先の小学部に電話してみた。
ところが!どの学生もA組だけは嫌だと泣きついてきたのだという。
「あの…ダメでした」
「わかってんのか、うちの教師は」
「それが…坊ちゃまの扱いに慣れてるから、きっとA組担当も大丈夫だろうって」
坊ちゃまはものも言わない。
だからあたしは怒りながらもきっと諦めたのだろうと思うことにした。
そりゃ坊ちゃまを教室で見たら、冷静でいられるか自信はあまりないのだけど。
そこへ裕樹さまを抱っこしたおばさまがやってきた。
裕樹さまが生まれてからこの入江屋敷もとても賑やかだ。
あたしもおばさまがいるから安心して大学に通っていられるのだ。
渡辺さんもおばさまが帰ってきて、しかも裕樹さままでいるし、おじさまも頻繁に帰ってくるし、とても忙しそうだ。
おじさまには実は渡辺さんのお父さまがついていらっしゃるのだけど、イギリスのお屋敷を管理するために一人イギリスに残っている。
そんな入江家でおばさまは「素敵だわ!」とあたしにおっしゃった。
「琴子ちゃんが先生!」
「えっと、まだ教育実習なんですけど」
「でも上手くいけば先生になることもできるのよね?」
「空きがあれば、なんですけども」
公立さえ選ばなければ、教員採用試験なるものは必要ない。
坊ちゃまはそんなおばさまに鋭い目を向けた。
「出来の悪いこいつに教えられる生徒の方が迷惑だ!」
「まあ!なんてことを言うの、直樹」
坊ちゃまは以前もそう言っていたので、あたしは苦笑するばかりだ。
泣いても笑っても、いよいよ斗南の小学部に行く日がやってくるのだった。
40
「あたしは先生、大丈夫。相原琴子です、A組で三週間お世話になります」声に出して確認をしていたら、坊ちゃまがこちらを見ていた。
朝食でのことだ。
パンをちぎりながら、あたしはすでに緊張していた。
かじる間もなく、次から次へと心配事と妄想が繰り返しあたしの頭を支配する。
それでも手は動いていたようで、手に持っていたパンはすでになくて驚いた。
スープもちゃんと飲み干していた。
外は少し雨。
そろそろ梅雨に入ろうかという六月のことだ。
あたしは初日からスーツが汚れたら嫌だなとか、髪型が決まらなくて嫌だなとかどうしても気にしてしまう。
「髪型も何も、縛るつもりなんだろ。スーツは心配しなくても絶対汚すこと間違いなしだな。皆に笑われておけ」
そんな意地悪を言う。
死ぬ前でもないのにあたしには走馬灯のようにこの一年の出来事がよみがえってくる。
裕樹坊ちゃまが生まれてからの目まぐるしい日々。
意外にもちゃんと兄として面倒を見る坊ちゃま。
渡辺さんがお見合いしたり。
これにはびっくり。
一度のお見合いでは決まらなくて、また別のお嬢さんを紹介してもらう予定だとか。
できるならいい人がいいよね。渡辺さんが坊ちゃまを優先しても怒らない人でないと。
でもちょっと寂しいな。
それから、記念すべきあたしの二十歳の誕生日。
坊ちゃまは少し複雑そうな顔だったけど、仕方がないわよね。
じんこと理美も来てくれて(おばさまが招待状を送っていた)、しかも二人とも恋人と一緒だった!
あたしだけ独り身ってこと?
せっかくの誕生日だったというのに、ちょっとだけ複雑な気分だったわ。
それもこれもあたしが教育実習に行くべくあれこれと単位を調節したりして忙しかったせいでもあるんだけど。
暇だった二人は、あたしを置いて合コンに行きまくっていたようだ。
坊ちゃまは面倒そうではあったけど、大人ぶってちゃんと相手をしてくれた。
そうそう、いつぞやは理美とじんこをバカ呼ばわりして怒らせたこともあったわね。
今回はさすがに恋人連れだったせいか、黙っていた。
前回あたしが怒ったせいもあるのかな。
とにかくその点に関してはほっとした。
それから、斗南の小学部に意気揚々と頼み込んだこと。
そりゃちょっと校長先生に渋い顔されたのを根性で頼み込んだ。
小学部には、斗南高校から入ったあたしには知らない先生ばかりだと思っていたのに、私立だからなのか、学校内での異動があったようで。
「あ、おまえ、相原!おまえが教師?笑わせるな!」
「あ、先生、今度よろしくお願いします」
あたしを見てぎょっとした先生に隣の先生がささやく。
「先生、ほら、例の入江家からの」
「まさか、おまえ、そう言えばどこかに居候していると言ってたな。入江家?入江家か!あのA組の天才入江直樹の教育係?!」
「あ、そうなんです。えへへ」
そんな噂まであったのかとあたしは驚いた。
「F組のおまえが教育係?」
ざわっと職員室がざわめいた。
そ、そりゃちょっとばかりあたしもどうかとは思うけどさ。
とにかく、新年度早々の教育実習先は確保した。
十月にしようとか言ってる人もいたけど、あたしの場合学校側から学校行事のある時だから遠慮してくれって言われたのよね。
その後すぐに成人式で、振袖着たあたしを見た坊ちゃまがまだ少しだけ拗ねていたっけ。
これもきっと仲の良いお姉さんが大人になっていくのがさみしいのねと思ってスルーしたけど。
あたしは大人なのよ、うん、大丈夫。
じんこと理美は心配していたけど、何とかなる、はず。
「バカ、いつまで食ってんだ!」
手をはたかれて気が付いた。
「ほら、飲め!」
だいぶ背の伸びた坊ちゃまに背中をはたかれて気が付いた。
背丈はあたしの肩くらいにまでなっている。
走馬灯のように思い出したのは、あたしがぼうっとしてパンをのどに詰め込んだせいだった。
危うく初日から死にそうになってるなんて。
渡されたオレンジュースを飲み干して、あたしは生き返った。
「う、ううっ。死ぬところだった。縁起でもない」
坊ちゃまは怒ってるし、傍で渡辺さんは心配そうに見つめている。
「す、すみませんでした」
「今から断ってもいいんだぞ」
「いえ、大丈夫です!」
ちっと坊ちゃまは舌打ちした。
舌打ちはダメですってば、坊ちゃま。
「あ、坊ちゃま、学校でのあたしは教育実習生の相原琴子ですからね。坊ちゃまのことも入江くんと呼ばせていただきますから」
坊ちゃまはどうでもいいとばかりにため息をついて「学校へ行く」と渡辺さんに告げた。
あたしものんびりしている場合じゃなかった!
慌てて残りの朝食を食べてから、学校へ行く準備をした。
小学部は大学より少しだけ離れているので、少し急がなくては。
あたしがばたばたと準備をしていると、おばさまが裕樹坊ちゃまを抱いて現れた。
「あら、今日は早いのね。もしかして、今日からだった?」
「ええ。おばさま、裕樹さま、行ってきます」
裕樹坊ちゃまの頬をチョンと突くと、ぶべーっと舌を出された後、きゃっきゃっと笑った。
嫌なのか喜んでるのかいまいちわからない。
おばさまは喜んでるって言うのだけど。
坊ちゃまと同じでツンデレなのかしら。
スーツにちょっとだけ慣れない靴で、あたしは小学部に向かって歩き出したのだった。
To be continued.