坊ちゃまとあたし




31


外の雪は、残念ながらすぐに消えてしまった。
雪だるまを作ることもできなかったし、ましてや雪合戦なんてできやしない。
あたしはがっかりしながら坊ちゃまに言った。
「坊ちゃま、せっかく雪だるまを作る約束をしたのに、残念でしたね。でも、次に降って積もったら、今度こそやりましょうね」
坊ちゃまは「するなんて言ってない」と反論した。
でもいいんだ。坊ちゃまが本気で嫌がったら、するわけがないんだから、その時に考えればいいもの。
あたしは数少ない雪の日を待つことにした。
白いコートにマフラーに、手袋をして、あたしは庭を散策した。
地面の上の雪は溶けてしまったけど、木の枝や葉っぱにはまだ少し溶け残っていて、朝日を受けてキラキラしていた。
一人で散歩していたら、坊ちゃまが珍しく駆けてきた。
頬の赤い坊ちゃまを見たら、あたしは思わず坊ちゃまの頬を両手で挟んでしまった。
「やめろ」
「だって、こんなにも冷たいじゃないですか」
「手袋しててわかるわけないだろ」
「わかりますよ」
そう言うと、坊ちゃまはあたしの頬を同じように両手で挟んだ。
あたしが坊ちゃまの頬を挟むよりもかなりギュッと押さえつけるので、変な顔をしていたのか、ぷっと吹き出した。
「あ、ひどい、坊ちゃま」
「ひどいのはおまえの顔だ」
そう言って手を放し、お腹を抱えるほど大笑いしている。
「…坊ちゃま、この手袋温かいです」
「…そうか、よかったな」
素っ気なくそう言ったけど、今度は坊ちゃまの耳も赤く見えた。
あたしは坊ちゃまに手を伸ばして手をつなぐと、庭を散策した。
ちょっと微妙な顔をしていたけど、嫌がって離したりはしなかった。
お互い手袋をした手は正確なぬくもりを伝えるにはぎこちなかったけど、思ったより温かみがあった。
「坊ちゃま、約束の雪だるまは延期ですね。これっぽっちじゃ、雪だるまには足りないですもの」
「冬の間一度くらいは降るだろ」
「そうですよね。そうしたら、今度こそ雪だるまですね」
楽しみに待ってるなんて一言も坊ちゃまは言わなかったけど、坊ちゃま自ら外に出てきてくれたのだから、きっと雪が積もるのを楽しみにしていてくれたのだと思う。
「あ、雪うさぎも作りましょう。ほら、ここに赤い実の付いた木があるし。庭師さんに頼めば少しくらいはちぎっても許してくれるかな」
そう言いながら、あたしは坊ちゃまを連れて歩く。
少しずつ日差しが出てきて、残っていた雪もほとんど溶けてしまったようだ。
「あ〜、雪溶けちゃいましたね」
中庭を一回りしたところであたしのお腹が鳴ってしまった。
「…おまえ、朝ごはんまだなのか?」
「ええ、プレゼントもらってうれしくなってそのまま…」
「戻るぞ」
「…はい、すみません、坊ちゃま」

雪が降ったせいもあって、いつもより多いという昨日からの泊り客は、サロンでそれぞれに朝食を食べ、身支度が済むと次々に帰っていった。
一色家の皆さんも、それぞれにあいさつを済ませ、早々に帰っていった。
あたしはようやく朝食をお腹におさめ、一息ついたところでおばさまに呼ばれた。
「琴子ちゃん、珍しく直樹と散歩したのね」
「はい。坊ちゃまって、思ったよりも外に出ないんですね」
「そうなのよ。もちろんセキュリティの問題もあるけれど、一緒に散歩してくれる人も機会もないものだから」
「そうなんですか…。
そう言えば、お聞きしたいことがあったんです。あたし、前にこちらのお屋敷のクリスマスに招待していただいたことがあったでしょうか」
「あら、招待なら毎年相原さんにお出ししていたわ」
「そ、そうなんですか。それじゃあ、こちらに伺ったことも…」
「そうねぇ。覚えている限りだと、三年前、かしら」
ああ、やっぱり。
「そのとき、あたし酔っぱらって」
「ええ、そうそう、相原さんを慌ててお呼びして、泊まっていけばとご用意したんだけれど、酒癖が悪いから連れて帰るとおっしゃって」
「そのとき、三歳くらいの女の子って…」
「女の子…?それなら四、五人いらっしゃったかしら」
「あたし、誰か女の子にジュースこぼしちゃって…。それに、その子とクリスマスの約束をしたらしくて」
おばさまは何気なく言った。
「あら、それなら直樹よ、きっと」
「…え…」
「あの時、ジュースで汚れた服を着替えにやったから、間違いないわ。
そうそう、あの日からよね、直樹が女の子の恰好を嫌がったのって」
「う、そ…、坊ちゃま…?」
あたしは血の気がひいて、目の前がくらくらした。
知らない女の子だと思っていた。
それに、女の子姿の坊ちゃまの写真を見てもあたしは思い出さなかった。
あの日の記憶はあまりにも曖昧で、その子の姿さえも憶えていなかったからだ。
坊ちゃまは憶えていたんだろうか。
果たされないあの日の約束をどう思っていたんだろうか。
全く憶えていないあたしの記憶に呆れ返って、知らないふりをしてくれたんだろうか。
そして、あの女の子の姿をやめたきっかけとなるようなひどいことをあたしがしたのかも?
「琴子ちゃん?大丈夫?」
おばさまの声が遠い。
あまりにもショックすぎて、あたしは気を失う寸前だった。
「坊ちゃまに…謝らなくっちゃ…」
思い立ってすぐにあたしは立ち上がった。
立ち上がりはしたけど、どうやらあたしの足はちゃんと地面についていなかったようだ。
ふわりとした感触にあたしの身体は前に倒れた。
幸い目の前にあったテーブルに手をついた。
ついたけど、それだけでは足りなかったらしい。
派手な音を立てて、あたしはおばさまの目の前で倒れてしまったのだった。
他人事のように、しまったと思ったけど、倒れていく身体を支えるにはあまりにも血の気が足りなかったようだ。
こんなことで倒れるなんて情けないなぁと思いながらも、目が閉じていくのを堪えられなかった。





32


気が付くと、あたしはベッドの中だった。
傍には心配そうにしているおばさま。
「よかったわ、目が覚めて。琴子ちゃん風邪をひいていたのね。お医者様に診てもらったから大丈夫よ」
どうやらあたしは坊ちゃまの話がショックで倒れたものだとばかり思っていたけど、熱もあったらしい。ううん、本当に坊ちゃまの話がショックだったのも確かだけど。
「直樹が顔を見たいと言うのだけど」
「風邪がうつるので今は…」
「そうね…。では、そう言っておきましょう」
おばさまは、あたしが倒れた原因が風邪だけではないと気付いたようだったけど、あえてその話はしなかった。
「では、目が覚めたことを伝えておくわね。あれで心配していたようだから」
そう言っておばさまは部屋を出ていった。
おばさまは久しぶりの日本滞在で忙しいのに、目が覚めるまでついていてくれるなんて、お義母さんを思い起こさせる。
ぼうっとした頭で難しいことを考えるのは得意じゃない。
きっと坊ちゃまに言わせれば、風邪の時以外でも難しいことなんて考えないだろと言われそうだけど。
坊ちゃま、あたし、ようやく思い出しました。
薄情なやつだと思っているかな。
部屋の外で何やら声がした。
部屋のドアが開き、部屋の外から「バカは風邪ひかないというのに、朝からほっつき歩いているからだっ」と坊ちゃまが怒鳴って反論する前に部屋のドアが閉まった。
文句も言わせないなんてひどすぎる。
でもあたしは自然と顔がほころぶ。
坊ちゃまらしいというのか。
坊ちゃまが風邪をひいていなければ、それでいいか。
あたしはまたまぶたが重くなってきて、うつらうつらと眠りの世界に引き込まれていった。


風邪も全快し、お正月に間に合った、という感じだった。
新年もお手伝いの皆さんは余程のことがない限り帰っていくので、年末年始は本当に家族水入らずという感じらしい。
シェフはお正月のためにちゃんとおせちを用意して帰っていくし、あの渡辺さんだって一時帰宅してくるらしい。
とは言うものの渡辺さんは「二十五にもなって実家で甘えるもありませんからね。顔だけ出してお年玉預けて、またこちらのお屋敷に戻ってくる予定です」とのこと。
ゆっくりしてくればいいのにといった坊ちゃまもおばさまたちも結局は渡辺さんがいればうれしいみたい。四六時中ずっといるんだから家族みたいなものだよね。
あたしはと言えば、本当はお父さんと年越し…の予定だったのだけど、おじさまとおばさまがお父さんを呼び寄せた。
お父さんの仕事の休みは三日間だけで、最後の一日は結局仕込みや店のこともあるみたいだし、毎年のこととはいえ日本料理の店は正月も稼ぎ時らしい。
そんなあたしが荷物を持ってあちこち移動するくらいなら、いっそお父様も呼んじゃいましょ、となったようだ。
そういうわけで迎えるお正月は、例年になく賑やかになるようだ。

あたしは、坊ちゃまとのクリスマスの件をはっきりしないことには年も越せないと思い詰めていた。
風邪も治ったのにどんどん食欲がなくなってきたあたしを心配して、さすがに坊ちゃままでもあたしをじっと見て言ったのだった。
「何か悩みでもあるのか」
あたしは驚いてマグカップを落とした。
幸いマグカップの中身は飲み切っていたし、分厚いじゅうたんの上に転がって割れることはなかった。
あたしはマグカップを拾い上げようとしゃがみこんで、坊ちゃまと向き合った。
「…あの、あたし、三年前、クリスマスパーティの時に坊ちゃまにジュースをぶっかけたみたいで…」
「…あれはおまえか」
「え、坊ちゃまが忘れてた?」
「違う。普段来ない客に寒空の下ジュースをぶっかけられて、あの後熱を出して記憶があいまいだ」
「あ…えーと、その節はすみません」
「どうせお前も憶えてなかったんだろ」
「間違えてお酒飲んじゃってて…」
「…だからか」
「それから、あたし何か坊ちゃまにひどいこと…」
「ああ、したな。おれの人生があの日に変わった」
「ええっ、そんなひどいことを?」
坊ちゃまはむうっとした顔をしてあたしを見た。
「あの日から女のかっこうをやめた」
…あ、と思った。
あたしは何がきっかけであのかわいらしい姿をやめたのだろうと思っていたのだけど、やっぱりあたしが何かひどいことを言ったんだ。
「坊ちゃま、憶えていないとはいえ、ごめんなさい」
「もういい。でもおまえが言ったことはいつか責任取ってもらうからな」
「はい」
…って、何を言ったんだろう。
責任って、慰謝料の請求とか?
首を傾げるあたしを見て、坊ちゃまはにやりと笑った。
「いつか言う」
何だかとんでもなくまずいことだったりして。
酒に酔っぱらって言った言葉は、それからさらに十年近くの歳月を経て告げられることになるとは、さすがのあたしも思わなかった。





33


冬休みは短かった。
クリスマスにひいた風邪はお正月まで長引き、あたしはほとんど何もせずにお正月を迎えた。
お年玉ももらって、仕事が休みのお父さんともども入江家で年始の食事をいただいた。
二日目に渡辺さんが実家に帰って挨拶を済ませると、三日目からはなんだかいつも通り。
四日目にはお父さんも仕事に行ってしまい、あたしは年末にやれなかった宿題に追われ、あっという間に三学期を迎えた。
本当は温泉でも行きましょうとおばさまは言ったけれど、おじさまも仕事関係の人の挨拶が続いて大変だったらしく、今度帰国した折にはぜひと念を押しておばさまたちは再びイギリスに戻っていった。
またこのお屋敷で坊ちゃまと渡辺さんと使用人の皆との生活が始まった。
確かにおばさまたちがいた間は使用人の皆がいないにもかかわらず、賑やかで活気があった。
それは来客の多さも関係するのだろう。
それが済んでしまえばお屋敷はまた少しだけ広さがさみしいところになった。

「そう言えば坊ちゃま、小学校の入学準備は進んでいるんですか」
あたしは何気なくそう聞くと、坊ちゃまは「何をいまさら」と子どもらしからぬ表情をした。
坊ちゃま、学校へ行ったら、浮くんじゃないかしら。
あたしが見る斗南の小学生たちは、もっとこう子どもらしいというか、子どもっぽいというのか(言ってることは同じ)。
先生も大変だろうなぁ。
小学校程度の勉強なんて、授業聞く気にならないんじゃないかしら。
「坊ちゃまは外国の有名な学校に行ったりしないんですか」
「…行ってもいいが、そうしたらおまえはお役御免だな」
「あ、そうか」
「だいたい小学生一年生がいくら飛び級とはいえ、中学高校に通わせてもらえるとは思っていない」
「そうかな。外国の方がそういう点では頭柔らかそうだけど」
「…おれには経験が少ない」
「うん」
「外に出て知らないやつと話したことはほとんどない」
「仕方がないですよね。大きな会社の社長の坊ちゃまだもの。あれこれ危ないことだってありそうだし」
「人付き合いも経験のうちだと思って我慢することにした」
「そうですね。そういうのも大事ですよね」
あたしは小さな坊ちゃまを見て思った
頭はいいけど、まだ六歳だもんね。
大人のずるいところばかりじゃなくて、他の子どものバカさ加減も、無茶ぶりも、理不尽なことも、一所懸命に遊ぶことも大事なことだって思うもの。
「でも坊ちゃま、きっと女の子は坊ちゃまにめろめろだろうけど、男の子の嫉妬とか意地悪とか、思い通りにならないと思うけど、がんばってね」
そう言うと、坊ちゃまはあからさまにため息をついた。
言葉にするなら、くだらない、ってところかしらね。
あたしはそんな坊ちゃまを見ながら、坊ちゃまがくれたサルでもできるというあの料理本をめくった。切り取ったレシピ本を見たおばさまに叱られて、料理本のレシピはある程度修復されている。
おばさまは何事もチャレンジが大事だと言った。
あたしがここまで張り切る理由は、来月にはバレンタインがあるからだ。
ここでまた腕を上げて坊ちゃまの尊敬を勝ち取るのよ!(買うという選択肢はない)
坊ちゃまはあたしが握り拳を作っている横から何か言った。

「…頼むからレシピ通りに作って食えるもんにしてくれ…。というか、おれはチョコいらないって、…聞いてないだろうな」

でもあたしはレシピに夢中で、今度いつ買い物に行こうかなとか楽しくなっていたのだった。
そして、その準備にまたもや入江家の専属シェフの悲鳴が聞こえることになろうとは、あたしはちっとも想像すらしていなかったのだった。





34


「そ、それはまだ…!琴子さん、慌てないで!」
「えっ?…キャ―――、煙がっ、煙が…!か、火事?」
入江家の予備キッチンから上がる悲鳴と煙は、ここ最近の風物詩のようになっている。
あたし、そんなつもりじゃなくて、もっとこう、屋敷中に甘い香りが漂うような感じを期待していたのに。

今日も一番簡単なトリュフを作ろうと頑張っていた。

なんかチガウ…。

あたしは額に汗してチョコを練っていた。
なんだかどんどん硬くなるような…。
練って練って…。

「おまえ、基本がすでに違うだろ」

試作品はどう見ても岩の塊。
おかしいな。
ちらりと見た坊ちゃまが盛大に眉をひそめて言った。
見せるつもりじゃなかったんだけど。
いつまでもシェフに頼るのも悪いかと思って一人で自主練習していたら、通りがかかった坊ちゃま(…多分見に来たんだけど。だって予備のキッチン地下なんだもの。通りがかることなんて絶対ないし)。
「見ないでください」
「見たくなくても目に付くだろ」
「それならこんなところまでわざわざ通りがからないでください」
「一人でやって火事になったらどうするんだ」
「大丈夫です、消火器もバケツも用意しました」
「…花火かよ」
仕方がないので今日はもうやめにして片付けを始めた。
あたしにまともにできることは片付けだけね。
「おっかしいな〜」
レシピはちゃんと見た。坊ちゃまに言われたのもあるけど、二回も三回も目を通した。
坊ちゃまは置いてあるチョコの塊を指で突いている。
「…坊ちゃま、言っておきますけどそれは食べられませんよ」
「食べたそうに見えるか?」
「それ、ブランデーが入ってるんです」
「少なくともおれ用じゃないな」
「大人向けなんです」
「ふーん。渡辺か」
「だけではありません。お父さんとかおじさまとか、植木職人さんとか…、いつもお世話になってるお礼にって」
「…やらない方が身のためだと思う」
坊ちゃまは何やらごにょごにょと言ったけど、あたしはまずはこの岩の塊になってしまうチョコの対策を考えねば。
「坊ちゃまのはもっと特別なのを作りますから大丈夫です」
「………いや………無理するな」
坊ちゃまにしてはやけに歯切れの悪い言葉を残して、片付けの終わったあたしと坊ちゃまは部屋に戻った。
しばらくはあの予備キッチンはあたし専用にしてくれているので、片付けさえ終われば材料も全て置いておいても問題はない。
そもそも坊ちゃまに内証でチョコを作ることなんて無理。
坊ちゃまは屋敷内のほぼ全てに目を光らせていて、足りない部分は渡辺さんに報告させたりして、わずか六歳にして屋敷の主人として立派に管理している。
もちろんおじさまもおばさまもそんなつもりはなかったみたいだけど(そりゃ六歳児に家の管理任せる親はいないよね)、何せ渡辺さんが保護者として忙しすぎるので、いつの間にか坊ちゃまがめきめきとその才能を…という感じだったらしい。
うちの坊ちゃまは何でもできて凄いなぁ。
あたしは階段を上りながら坊ちゃまを見た。
こんなに小さいのにな。
今度は小学生になるし、小学校の六年間なんて長いようであっという間だろう。
中学も高校もどんどん過ぎて、きっとあたしより背も高くなって…。
その時あたしはどうしているだろう。
十年たったらあたしは二十六かぁ。
どこか会社とかで働いているのかな。
今はまだ何をしたいとか、どうなりたいとか、あたし自身そういう将来のこともよくわからないけど、できれば坊ちゃまはぐれたりすることなく素直にかっこよく成長してくれるといいな。
「なんだよ」
「ふふふ、なんでもな〜い」
あたしはそっと坊ちゃまの将来を想像しながら、そんな未来もきっとすぐだろうと思うと、楽しみなような寂しいような気持ちになるのだった。





35

バレンタインは、あたしのチョコが上手く完成しなくて、結局既製品にチョコペンでメッセージを書いたものに変わった。
そのあまりのグレートダウンぶりにあたしはへこんでいたのだけど、坊ちゃまは少しだけ笑いを堪えながら「うまいぞ、これ」と言った。
そりゃそうでしょうよ。そのチョコレートはこのシーズン中に某百貨店でしか手に入らないものだし。
シェフは明らかに胸をなでおろして、機嫌よくあたしにチョコペンを握らせてくれた。
これならどんな不器用も文字が歪むだけだと言いながら。
地下の予備キッチンは元の通りきれいにされて、いつかあたしに使われる日まで再び閉じられた。
すぐまた使うつもりなんだけど。
あたしのお小遣いでは一粒うん百円とするお高いチョコレートはたくさん買えなくて、渡辺さんにはあの岩チョコをあげようかとラッピングをしたら、いつの間にかどこかにいっちゃったし。仕方がないので植木職人さんの分もなし。せっかく秋にどんぐりとか分けてもらったお礼にって思ったのに。
坊ちゃまは「おまえの好きな妖精じゃね?あ、小人か」とか言うし。
でもあの岩チョコ、少しだけかけらを口に入れるとお腹の中がぽわーっと温かくなって、その温かさが少しだけ幸せな気分になれたのに。
「おまえかけらで温まるって、どれだけ洋酒入れたんだよ」
あたしのつぶやきを聞きつけて、坊ちゃまはそう言った。
大人が酔うほどに入れてないはずだけど。


そんなふうに二月はどんどん過ぎて、ようやく待ちに待った雪が降った。
もうすぐ三月になるというのに、雪はうっすらと積もり、あたしは坊ちゃまに暖かい格好をさせて早速庭に出ることにした。
「坊ちゃま、ほら、雪だるまはこうやって作るんですよ」
そう言ってあたしは小さな雪玉を作ってから転がしていき、適当な大きさになるまで頑張った。
坊ちゃまは始めはバカにしていたけど、こっちの方が雪がきれいだと土がつかないように雪だるまを転がす場所を教えてくれた。
もちろん結局土がついたので、他の場所から取ってきた雪を表面に張り付けることも忘れない。
二つ目の雪だるまは最初に作った場所からかなり遠い位置でゴールを迎えてしまい、どうやって最初の雪だるまの上に乗っけるべきか知恵を絞ってくれた。
だって、最初に作った場所の雪は使い切っちゃって、どんどん雪のある場所を求めていった結果だったの。
雪だるまの顔は適当な石を…と思ったけど、坊ちゃまが散歩する庭には石がない。
困っていたら、お手伝いさんたちが目になりそうな大きなボタンを分けてくれた。
木の枝を差したくてもそれもない。
なんてきれいな庭。植木職人さんの手入れの賜物よね。
それも結局シェフがすりこ木とめん棒を貸してくれたりして、思ったよりもたくましい雪だるまになってしまった。
「うわ〜、マッチョな雪だるまだな〜」
「おまえはマッチョが好みか」
「別にそういうわけじゃないですよ。筋肉ムキムキは苦手ですし。でも男には少しくらい筋肉があった方がいいと思いません?」
「ふ〜ん」
坊ちゃまは黙って雪だるまを見つめていた。
そしてかねてからの約束通り雪うさぎを披露すると、これは何か気に入ったのか、自分でもせっせと作りだした。
植木職人さんにかねてから頼んでいて、雪が降ったのでと分けてもらった緑の葉で耳に、赤い実を目にすると、それはそれはかわいらしい雪うさぎができた。
坊ちゃまは珍しくしゃがみこんで雪うさぎをじっと見ていた。
「坊ちゃま、気に入りましたか?」
「…まあな」
意外にかわいいものが好きなんだな〜と満足していると、坊ちゃまははっと気が付いたようにあたしを見た。
「言っておくが、雪合戦はやらないぞ」
「やらないんですか」
「どこに雪合戦をするほどの雪が残ってるんだよ」
「あ、じゃあ雪が残っていたらやってくれました?」
「やらねーよ」
「ちぇーっ」
あたしは周りを見渡した。
その中庭は、坊ちゃまの屋敷からするとさほど広くない。
他にももっと広い庭も別にあるけど、ここが一番安全だから、だ。
それにもう雪は解けかけている。
この中庭は建物の影があったから溶けるのが遅かっただけだ。
つかの間の雪遊び、というわけね。
坊ちゃまは、雪国とか興味あるかな。
「行かねーぞ、雪国とか」
まるであたしの頭の中を読んだかのように言い当てた。
「おまえのだいたいの考えはわかる。くだらないこと考えるなよ。
今の一瞬でおまえが雪の中で遭難する姿が見えた!」
「えー、坊ちゃまったら、そんなありもしない想像を…」
「行ったらろくでもないことになりそうだから行かない」
そう強固に言い張って、坊ちゃまは雪国行きを拒否した。
もちろん本当に行くつもりはなかったんだけどさ。
「でも坊ちゃま。きっとこの雪が溶けたら、春が来ますよね」
そうしたら、坊ちゃまは小学校に行くことになる。
少しずつ坊ちゃまの世界も広がって、こんな中庭の出来事も思い出の一つどころかいつか埋もれちゃうかもしれないけど。
ランドセルしょった坊ちゃま、かわいいだろうなとあたしはちょっと保護者気分で浮かれるのだった。
春になったら。
あたしはとても待ち遠しかったのだけど、肝心の坊ちゃまがあまり喜んでいないことを知ったのは、三月も終わりの頃だった。





To be continued.