ドクターXその1
これは一匹狼の医師の話である。(多分)
あからさまにパクると問題なのでちょっとは端折ることにしておく。
今や大学病院の医局制度が崩壊し、医療の現場も弱肉強食の世界へと変貌した。
この危機的状況を埋めるために現れたのが、フリーランスと呼ばれる医師たちだ。
フリーランス、すなわち一匹狼の医師である。
たとえばこの医師。群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌う。
専門医のライセンスと叩き上げのスキルだけが彼の武器だ。
外科医、入江直樹。
またの名を、ドクターX。
出勤前のひと時。
「い、入江くん、待って!」
「…遅い。置いていくぞ」
「わかってる。今、今すぐ準備するから」
妻の言葉にも頓着せずに彼は自宅の玄関を出た。
もちろん門を出たあたりで妻が追い付くのは計算済みだ。
今日から新しく雇われた病院に行くのだ。
ついでに妻もそこに派遣された。
門を出ると、そこには「入江医師看護師派遣所」とやや大げさな看板が目につくが、それにも目にくれずに歩き出したところで妻が追い付いた。
無論最初から妻を置いていくつもりは毛頭ない。何せ妻は…。
「よかった、追いついた。あたし一人だと迷子になっちゃうし」
自他ともに認めるかなりの方向音痴なのだから。
「昨夜散々レクチャーしただろ」
「あん、だって、入江くんってば、余計なことまでするんだもん」
「余計なこと、ねぇ」
「だ、だって、確かに覚えられるかもしれないけど、余計なことまで思い出して、結果的にその記憶で頭が熱くなって、他のこと考えられなくなっちゃうんだもの」
もちろんそんなこと想定済みだが、わかっていてやっているのだから妻の抗議は即却下だ。
あれこれやり取りしながら(ほぼ90パーセントは妻のお喋りだ)駅に着き、派遣先の病院がある駅へと電車で通勤だ。
「いい?今度も琴子ちゃんのためにしっかり稼いでくるのよ」
派遣所所長の言葉に無言で肯定する。そんなことは前提にもならない当たり前のことだ。
妻の妻による、妻のための家庭を維持するのが役目だと自負するくらいだ。所長の言葉がなくとも妻を泣かせる輩は許さないし、妻にちょっかいかける輩は抹殺だ。
あ、もちろん特技は妻を啼かせることであって、決して泣かせることではないが、たびたび妻の目を涙目にさせてしまう少々ツンデレ気味なのが玉に瑕だ。
一か所で長続きしないのはそういう事情もあったりなんかして。
腕前はピカイチ、ついでに妻に対する愛情もピカイチ、女のトラブルお断りなフリーランスだった。
派遣先に着くと、そこにはなぜか見慣れた顔が…。
「今度の日曜、ゴルフなんてどうだね」
「御意」
やややせ気味な身体を折り曲げ、神経質そうな顔にあまり似合わない眼鏡をかけた医師が何かを察したのかこちらを振り向いた。
「い、入江さんと琴子さん?」
「あ、船津君、久しぶり〜。えー、今ここで働いているの?前の病院は?」
「あ、あなたには関係ありませんよ」
「そうなんだー(結局話半分にしか聞いていない)」
このフリーランスである入江直樹と顔見知りだと思われる男こそ、ミスター次点と言われる船津だった。職業外科医。
いつも入江直樹に負けて二位であることと、新人歓迎会の出し物で医学事典を暗唱したことによるものと思われる。
同じ医学科を卒業した縁からか、同じ外科医なためにあちこちで顔を合わせるだけの知り合いだ。
むしろ一方的に敵視しているのは船津の方であり、入江直樹の方はほとんど関心がない。関心があるのは妻だけなのだ。
とにかく、船津がいようがいまいがそんなことはお構いなしに二人は派遣先の部署へと行くことになった。
「入江琴子です。経験は新人よりちょっとましっていう程度、かな」
ひそひそひそ…。
何で今更この忙しいときに新人同様の使えなさそうな子が…?
いや、もしかしたらそう見えるだけで、わざわざ派遣されてくるからには凄腕のさすらいナースなのかも。
そんな噂をものともせず、琴子の一日目は始まった。
一方入江直樹の方はと言うと…。
「入江先生、今日は歓迎会といこうじゃないか」
「いたしません」
「では、一緒にカラオケでも?」
「いたしません」
「少しは協調性というものを…」
「出世の手伝い、医師じゃなくてもできる仕事、プライベートのお誘い、一切いたしません」
全く取り付くしまもなかったのだった。
そんな歓迎会すらも断るプライベートも謎な男、入江直樹。
人々は彼のことを謎のフリーランス医師、ドクターXと呼ぶのだった。
(2015/01/18)