ドクターX編その3
誰が言い出したのか、病院を渡り歩くさすらいのフリーランス外科医、ドクターX。
その外科医を知る者は、あえて口をつぐむ。
余計なことは言わない方がいいのは世のため。
叩き上げのスキルだけが彼の武器だ(それ以外にもありそうだと言われれば否定はしない)。
「私ならやれます」
外科の術前ミーティングにおいてのこの発言は、言わずと知れた入江直樹だった。
その難しい技法は、ただの外科手術ではない。
これを成功させればもしかしたら世界初の快挙となりかねないのだ。
当然のことながら、執刀医と目されていた医師が反発する。
「失敗しないので」
船津にとってはお決まりのセリフに、ミーティングルームの中がしんと静まる。
確かに入江直樹の手腕は見事だ。
しかし、それでも失敗しないとの言葉はなかなか言えるものではない。
もちろん失敗しないのが大前提ではあるが、手術と言えど不測の事態は起こり得るのだ。
それでも他の誰も入江直樹程自信満々に失敗しないと豪語できる者はいなかったので、結局執刀医は入江直樹、助手に船津と先日の先輩医師(便利だから)、ゲストにとある脳外科医を招くことになった。
もちろん入江直樹の傍らには、琴子の姿も。
* * *
「ほほう、入江先生は相変わらず手際がいいですね」
隣にぴったりと寄り添いながら、ゲストの脳外科医は術野をのぞき込んだ。
「…どこで私の手術を?」
「先日も拝見させていただきましたよ」
「そうですか」
手だけは着々と手術を進めていく。
脳外科医はところどころ術野を広げるのに手伝いながら、入江直樹の反対側で立っている看護師に目を向けた。
直接介助(メスなどの器械を渡す役目)をするわけでもなく、間接介助(手術室内など周りの介助)をするわけでもなく、ただひたすら入江直樹の周りをうろうろしながら様子をうかがっている。
「…ところで、ここにいるこの看護師は…」
脳外科医の言葉に間髪入れず入江直樹が答えた。
「私の妻ですが、何か」
向かい側に立って同じく術野をのぞき込んでいる船津と先輩医師は冷や汗である。
思わず「汗…お願いします」と頼むほどに。
「妻…。失礼ですが、あなたほどの医師が、公私混同を?」
「その通りです」
その通りなのかよっと先輩医師は心の中で突っ込んだ。しかし、決して口にしてはいない。
その間にも入江直樹の手は精緻に動き、吸引箇所を指示したり、手術器具を持ち替え巧みに手術を進めている。
「公私混同は良くないよねぇ。ねぇ?」
ねっとりと話しかけられ、船津がかろうじて答えた。
「…ぎょ、御意…」
もう勘弁してくれ〜という心の声が聞こえそうな汗だくの船津と先輩医師だ。
対して入江直樹は平然と手術を進めている。それも嫌な兆候だ。
ちなみに琴子は自分のことを言われていることはよくわかっていない。
それなのに、ところどころ術野をのぞいて、「入江くん、あっち側出血」とまともに術野をのぞき込んでいる者でさえ気づきにくい出血を指摘したりする。
よくわからないが、どうやら野性的に目がいいらしい。その割には暗闇に弱いと船津は聞いている。よくわからない不思議さだ。
「よくわかりますね」
船津は思い切って声をかけてみた。と言うより独り言だ。
「あたし、血が嫌いなの〜」
そう言ってぷるぷると震えてみせた。
じゃあ、何で手術室に入ってんだよ、という空気が手術室に漂ったが、もちろんこの入江夫妻だけは気にしていない。
つまり、血が嫌いなので、誰よりも早く出血を見つけてしまうということだろうか。
そんなことを思っているうちに、手術は既に洗浄と吸引に入っている。主な部分は既に終了だ。
ゲストである脳外科医は、どちらかというと術野よりも何故かその手術をしている執刀医ばかり見ている気がする。
「今度一緒にワインを飲みに行きませんか」
「いたしません」
「それでは、今度脳外科の学会に同行を…」
「いたしません」
縫合を終えた入江直樹は脳外科医を見据え、早口で言った。
「手術に関係のない仕事や飲み会は一切いたしません」
笑顔の脳外科医が凍った。
「縫合終わり」
「入江くん、お疲れ様でした」
「お疲れ様」
そう言って手術室を出ていく入江直樹の後姿を見送り、手術室の面々は琴子を見た。
いやいや、君何もしていないでしょ。
その空気をものともせず、琴子はにこにこと機嫌良さそうに後片付けくらいはと手伝っている。
手術室専属ではないだけに、かなりの違和感はぬぐえない。
「この小娘がいったい何の役に立ったって?」
脳外科医はやや八つ当たり気味につぶやく。
「そうは言っても、入江くんがあたしがいないとって言うし〜」
「何でこんな小娘が…」
そんな脳外科医をよそに、助手だった船津と先輩医師はとばっちりが来ないうちに退散することにした。
そのうち、手術室の方から脳外科医の雄叫びが聞こえた気がしたが、聞かなかったふりをした。
* * *
院長室では、機嫌のいい入江医師看護師派遣所所長の入江紀子が頭を下げた。
「どうも〜。このたびはうちの直樹と琴子ちゃんを使ってくださりありがとうございます。
これはメロンです。どうぞお納めください」
そう言いながらメロンは二つ差し出した。
メロン好きの院長とその秘書は、文句を言いつつメロンは受け取る。
「そして、これが今回の請求書です」
「高っ」
その請求書の金額を見た秘書が思わず口にする。秘書としてはあるまじき行為ではあるが、紀子は気にしない。
それよりも秘書は自分の失態よりもゼロがいくつあるか数える方に夢中だった。
「あの看護師は、すこぶる評判悪いようですが」
秘書は書類を見ながらそう言ってみた。
「そうですか?それはどこからの苦情でしょうか」
「外科病棟看護師と脳外科医、ですかね」
「外科病棟の方は御心配ありませんわ。明日から苦情はなくなるでしょう」
「はい?」
「脳外科医からの苦情は、直樹が処理いたしますのでそちらもご心配なく」
「はぁ」
曖昧な返事を返すと、紀子は「それでは、またよろしくお願いします」と院長室を去っていった。
「院長、何か一言くらい言ったらどうなんですか」
またもや秘書としてはあり得ないくらい院長に詰め寄った。
「…今度はメロンを三つにしてもらおう」
外科病棟では、派遣看護師琴子の失敗を埋めるがごとく、お取り寄せスイーツがふるまわれた。外科病棟看護師たちは文句を言いつつそのスイーツには逆らえない。何せ失敗すれば翌日には何かしらの届け物があるのだ。
「太るわ…」
それぞれの看護師たちが思わず琴子の失敗を待ち望みつつ、自分の体重増加との葛藤を繰り広げたのは言うまでもない。
ゲストだった脳外科医は…。
その後その病院で彼の姿を見た者はいない…。
群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い、専門医のライセンスと叩き上げのスキル以外にも彼には武器があるようだが、誰も口にはしない。
風の噂か、そんな彼のことを人々はこう呼ぶ。
―――
(2015/01/25)