医龍編その1
「最近入江くんってば、手術の前日にいなくなることがあるのよね」
そんな声を聞いた僕は、ナースステーションから出ようとした足を止めて、つい首を突っ込んだ。
「それは浮気だな、浮気」
「う、浮気?!」
かわいそうに、偏屈入江の妻である琴子ちゃんは、みるみるうちに目に涙を溜めて僕を睨んだ。
いや、浮気したのは入江であって、僕じゃないんだが。
「大事な手術の前日にいったどこに行くんだよ。
普通はゆっくり体を休めて患者のために気力体力を充実させておくべきじゃないか」
「そ、そうですよね」
「それなのにいないということはだな…つまり、それすらも惜しむほど恋しい愛人の元に行っているか、琴子ちゃんの隣では寝られないほどだとか…」
「ちょ、ちょっと、西垣先生!」
うわーーーーんと派手な泣き声の後に白衣の袖を引っ張られた。
女よりも女らしいが女じゃない桔梗君が目を吊り上げて僕を睨んだ。
「今ここでそんな話しないでくださいよ。後始末をするのはアタシたちなんですから」
「ん?ああ、そうか。
いや、なんなら僕が今夜一晩琴子ちゃんを慰めてあげてもいいんだけどね」
「結構です!!」
すかさず怒鳴り声がした。
「それじゃあ、こっそり様子を見て、本当に浮気していればその首根っこを押さえて(離婚して)、慰謝料をがっぽりもらって、今後に生かす(僕と遊ぶ)というのはどうだろう」
「………そ、そうですよね」
このまま入江のところに直行して真相を問いただすと息まく琴子ちゃんを言葉巧みに誘導して、入江の後をつけることにした。都合のいいことに明日は手術日だからね。
琴子ちゃん一人では絶対に尾行に気づかれるので、僕と桔梗君も付き合うことになった。
なに、その秘密を知りたいと思う桔梗君のファン心と僕の単なる好奇心がかち合ったものだから。それにすぐにばれては面白くないからね。
そんなわけで、いつも入江がいなくなるという21時過ぎに集合ということになった。
* * *
「…冷えますね、今日は」
実に女だったらと唸るくらいの美女振りを発揮して、私服姿の桔梗君が言った。
既に春を迎えたというのに、今日はやけに寒い。
確かに夜空は澄み渡った空だったが、星の輝きを余裕で眺めるにはちょっと肌寒い夜だ。
「琴子ちゃん、寒いならもうちょっと僕に寄り添ってもいいんだよ」
そんな優しい言葉をかけた僕に対して、琴子ちゃんはものすごい顔でにらみつけた。
おそらくこれからのことに気が立っているからだろう。
まあそれも仕方がないか。
全員夜の中で目立たぬように黒の服を着て、状況に合わせて変装できるようにバッグに別の上着などを持参と用意周到だ。
入江は先ほど病棟を出て真っ直ぐ隣の病棟へ渡っていった。
いったい誰と逢引をするのか興味深いことだ。
琴子ちゃんはいつもと様子が違う入江に歯噛みをしながら今にも飛び出さん勢いだ。
「どこへ行くんでしょうかね」
渡り廊下を渡ってすぐにエレベータに消えたのを確認した僕たちは、入江の乗ったエレベータが止まる階を見つめていた。
どこにも止まることなく、エレベータはぐんぐん最上階へと昇っていった。
それ以上の階はないから、僕たちは少しだけ時間を置いてエレベータに乗って一つ下の階で下り、そこからは様子を観ながら慎重に階段を上っていった。
ぎいっと重い音が響き、どうやら屋上へと続くドアが開かれたようだ。
それでも様子を見て誰もいないことを確認する。
そろそろ屋上は戸締りの時間のはずだが、それすらも計算のうちだろうか。それとも警備のおっちゃんを買収しているとか?
桔梗君はドアノブをいじって首を振る。
これをいじると音がするからこのまま外へ出るのはばれる危険性が高いということか。
思案した挙句、隣の病棟のリネン室から屋上の一角が見えることを知っていた僕は、桔梗君にそのことを告げてとりあえず移動することにした。
そこから見えなければ諦めて危険を冒して屋上へ突入だ。
再び移動する間、桔梗君はどうしてそのリネン室からの眺めを知っているのかとしつこかったが、どうせ答えなんてわかってるくせに。
夜勤のナースにばれないように僕たちはこっそりリネン室にもぐりこむ。
ここのリネン室の鍵がいつも開けっ放しになっているのは僕が承知だ。
定位置についたところで琴子ちゃんは鞄からすかさず双眼鏡を取り出した。
「…思ったより用意がいいね」
「こんなこともあろうかと」
よく見れば、桔梗君までオペラグラスを持っていた。
肉眼で見るのは僕だけか。
どれどれ…と目を凝らしてみると、微かに入江の姿がうかがえた。
「…何で上半身裸なんだ」
思わずぽろっと口に出したが、これはものすごいことじゃないか?!
もしかしてもしかすると誰も来ない夜間の屋上で入江は既に誰かといたしちゃってたのか?
「ウソ!!」
悲鳴のような声が琴子ちゃんから漏れる。
残念ながら相手の姿が見えない。
僕たちが移動する間に既に第一回戦も終わってしまったなんて、入江、がっつきすぎじゃないのか?それともやはりあの噂は本当だったのだろうか。
「琴子ちゃん…入江って早ろ…」
ガキッと音がして、僕の頭に衝撃が来た。
桔梗君がものも言わずに僕の頭を手に持ったオペラグラスで殴りつけたからだ。
「痛いよ、桔梗君。これでも僕は明日執刀するんだけどね」
頭をさすって再び目を凝らす。
入江は何やら屋上の端に立ち、腕を上げた。
いったい何をする気なのかさっぱりだが、傍目には何かの指揮をするかのように見える。
音楽でもかけているのか?
ここに来て指揮者の練習?そんなバカな。
僕たちが見ているのも知らず、入江は上半身裸のまま目をつぶって指を動かしている。
双眼鏡もオペラグラスも持っていない僕にはさっぱりわからなかったが、桔梗君が入江を見て言った。
「あれは…明日のオペのシュミレーションね」
「はぁ?!」
僕は思わず信じられない思いで声を上げた。
「上半身裸で?夜中に?屋上で?」
それじゃあただの変態じゃないか。
「うげっ」
思わずつぶやいたのが声に出たのか、横から琴子ちゃんの鋭い突込みが入った。その鋭い突っ込みは右の脇腹に入り、僕は声を上げた。
「あのね、僕も明日オペなんだけどね…」
脇腹をさすってもう一度入江を見上げる。
この寒空の下、風邪をひきそうな日に上半身裸でなんでオペのシュミレーションをしなけりゃいけないんだろう。
しかも執刀医は一応僕なんだが。
「それにしても一発やった後なのかな」
僕のつぶやきに両方からおしりに蹴りが入った。
「あたたた…、あのさぁ、僕は明日入江の患者さんの第一執刀医なんだよね…」
そんな僕の言葉など聞こえなかったかのように二人は入江を見つめ続けている。
「…もういいけどさ、浮気はどうなったんだよ、浮気は」
「してるわけないですよね」
「してるわけないわよ!」
「性的に歪んだ人から見れば何でもかんでも女性がらみに見えるのかもしれませんけどね」
「そうそう、西垣先生は乱れてるからそう思うんです」
二人の突っ込みに僕は声を大にして突っ込んだ。
「僕は女性とのつき合いが豊富なだけで性的に歪んでないし、入江のほうがよっぽど歪んでるだろっ」
「ものは言いようですよね」
桔梗君はそう言ったが、琴子ちゃんは少しだけ首をかしげた。
「どういうふうだったら歪んでるですか」
どういうふうって、見ればわかるだろ、見れば。
夜中にあんな場所で夜な夜なシュミレーションだか何だか知らないが、何も上半身裸でやる必要はないし(オペの時は当然服は着るもんだ。それとも何か、入江はオペ着の下は素っ裸だとでも言うのか?)、家の中だって医局だって(少々迷惑かもしれないが)できるわけだし、そもそも何よりも琴子ちゃんに対する愛が歪んでる!
僕は唾を飛ばさん限りに訴えた。
「そ、そうかもしれませんね」
少々頬を赤らめて琴子ちゃんは言った。
…いったい何を想像したんだろう…。
「あの、琴子ちゃん、その、君と入江はいったいどんな夫婦生活を送って…ふぐっ」
…僕の記憶はそこまでだった。
気がつくと、僕は暗いリネン室で患者さん用のオムツの予備を枕に寝そべっていた。ささやかなる誰かの優しさだろうか。オムツというところがなんとも微妙だが、この寝心地と肌触りは悪くなかった。さすが日本の紙オムツ。
すかさず大事な腕はなんともなかったか確認したが、どうやら最後の一撃は首の後ろだったらしく、首を動かすたびに鳴るごきっという音が不気味だ。
明日…いや、既に今日だが、僕は無事にオペを終えられるのだろうか。
いや、でも、ま、何とかなるだろう。
何たって僕にはシュミレーションを無事に終えたらしい入江がいるのだから。
僕の体調不良も入江のせいだし、何かあったら全部入江のせいで全く構わないよな。
夜空の星を見上げながら、僕は明日のオペに備えてさっさと帰ることにした。
もちろん周りには誰もいない。
屋上にも入江の姿はないし、リネン室で僕たちが何をしていたかなんて誰も知らないだろう。
多分ね、多分…。
(2012/05/13)