家政夫のイリエ




家政婦の相原は、式場の入り口前で転がった後で、見知らぬ女性にネクタイを握りしめられて青ざめている家主を見た。

「どういうことよ、東馬!」
「えーと、どういうことかな?」

よく見れば、その女性も案外背が高い。家主もそこそこの身長ではあるが、それに引けをとらない。

「あの女が婚約者?」

そう言って女性が相原を指さした。

「えーと、そういうことになってます」
「あたしは?!」
「んん?…別れた、よね?」
「いつ?!」
「一ヶ月ほど前?」
「ちょっと連絡取れなくなっただけじゃない!」
「そういうのを別れたって言わないかな?」
「言わない!」

困った顔で家主がこちらを見た。
いや、見なくていい、と相原は目をそらした。

「で、いつから付き合ってるの?」
「誰のことでしょうか」
「あの女に決まってるでしょ」
「んーと、今日、かな?」
「何それ」

そうですよねーと相原はうなずく。

「信じられない。二股掛けてたってこと?」

二股も何も、三股も四股もしていそうですが、とは余計なお世話か。

「あー、許せない!」

ええ、そんな男は放って、次の新しい男にいった方がよほどいいかと思うと相原は思った。
いまだ立ち上がれず路面に座ったままだったのだが、周りは関わり合いたくないとばかりに相原を避けて歩いていく。

「だいたいこの女もどういうつもりよ!」

とばっちり来たーと相原は自分を見下ろす女性を見上げる羽目になった。
女性の背は高いし、相原は座っているしで、更に女性が巨大化して見える。

こ、怖い…。

相原はそのままずりずりと後退ろうとした。
そばにいた家主は、一応女性を止めようと割り込んできた。
…が、女性にあっさり跳ね飛ばされた。

「ああっ」

その情けない声は相原のものだったのか、家主のものだったのか。
どちらにしても相原絶体絶命のピンチ。

 * * *

一通り片付けも掃除も終え、家政婦のイリエはキッチンを見渡した。
他に汚れているところも見当たらず、契約ではこれで今日は終了、といったところだ。
しかし、同じ家政婦の相原が帰ってこない。
給料を弾むのでと連れていかれたものの、先ほどの来客のこともある。このまま帰ってしまおうかと思った時だった。
電話が鳴り、家政婦のイリエは全く躊躇することなく受話器を取った。

「はい」
『あ、イリエさん?!女性がっ。琴子ちゃんがっ』

全く支離滅裂な電話だったが、どうやら家主であることはわかった。

「どちらにおかけですか」
『僕だよ、僕!』
「僕僕詐欺でしょうか」
『そんなわけないでしょうが!意地悪しないで助けに来てよ〜』
「出張は別料金となりますが」
『払う!払うから!』
「…わかりました」
『あ、琴子ちゃんが危ない!イリエさん、超特急でお願い』

家政夫のイリエはそこまで聞いて受話器を置くと、キッチンに置いてあったものをつかみ、家主の家を出た。
オートロックなので鍵は気にしなくともよいのだが、一応戸締りも確認した。
マンションの玄関を出ると、人通りの少ない道をスカートがまくれ上がるのも構わず猛ダッシュで走り出した。

 * * *

「何であなたなのよ!」
「えーと、そう言われても」

震えながらも家政婦の相原は首を傾げた。
この人はいったいと思いつつ、家主の女性関係であることは容易に知れた。何せあの写真の数だけ付き合いがあったかもしれないのだ。中には一人や二人、恨みつらみに切れていない女性の一人や二人いることだろう。

「あなた、誰」

ずいっと女性に迫られて、相原は素直に答えるべきか迷った。
家主をちらりと見ると、どこかに電話をかけている。この重大なときに何を、と相原は口をパクパクとする。

「聞こえないんだけど」

素直に名前だけを言うべきか、家政婦であると告げるべきか。

「あの、その」
「あのそのさん?」

そんなわけないじゃん、と後ろで家主が突っ込んだ。

「じゃあ、誰だって言うのよ?!」

矛先は再び家主に向かった。

「ふ、ふぐ…ぐ、く、苦しい、苦しいって」

またもや簡単にネクタイを握られ、前後左右に振り回されている。そのたびに家主の首がぐるんぐるんと揺られ、今にも失神しそうだ。
その隙に相原は後ろへ後ずさった。少しでも距離を開けたいところだ。そもそも相原には巻き込まれる理由がない。
家主の反応のなさに業を煮やしたのか(女性が失神寸前までネクタイ持って振り回したのが原因なのだが)、後ずさりかけていた相原の方を振り返った。

「ひ、ひーぃっ」

女性はなまじきれいな顔なだけに怒るとすさまじく、般若かと思われる形相だ。

「あた、あた、あたしはか、関係、な、ない」

相原も必死だ。
今まさに家主を放って相原に向おうとしたところで、バスっという音とともに何かが降ってきた。

「相原、ふせろっ」

姿は見なかったものの、聞き覚えのある声に相原は反射的にその声に従った。
相原が頭を抱えてうずくまっているうちに、頭上では「きゃああ」とか「うわああ」とかいう叫び声が聞こえたが、静かになるまでひたすら沈黙を守った。
その少し手前では、家主と女性をはさんでいつの間にか現れた家政夫のイリエが仁王立ちしていた。
しかもマスクと眼鏡をかけていて、見るからに怪しい。
しかしそれも仕方がない。女性と家主の周囲には何やらわからない粉末が舞っているのだ。

「何これ、何これー!」
「うわああ、何で僕まで」

そんな大騒ぎを繰り広げているものだから、さすがに結婚式場からも人が出てきた。
そこには待ちかねたように出てきた家主の母が驚いた様子で立ち尽くしていた。

「何をやってるんですか、東馬」
「どうかされましたか」
「テ、テロだー!」
「ええっ!」

騒ぎになって周辺がパニックになっている間に家政夫のイリエは身なりを整え、相原を立ち上がらせて何気なく遠巻きにその様子を見守ることになった。

「ね、ねえ、あれ、何をまいたの?」
「まいたわけではありません。身を守るために用意したんですが、うっかり爆発してしまったようで」
「どうやって?」
「火薬を使わない爆弾です」
「え、あれ、本当だったの?そんな物騒なものを?」
「あれは、唐辛子とこしょうです」

家政夫のイリエはしれっとそう答えた。

「大丈夫なの?」
「食用ですから」
「そうだろうけど」
「もう一度あの場に戻りたいですか」
「い、いえ。結果的に助かったわけで…ありがとうございます」

そんな会話を交わしているうちに騒ぎは間もなくおさまった。
唐辛子とこしょうが少々降ったくらいでは、さすがにテロとは警察も取り合わない。せいぜい結婚式場の警備員が周辺整理をしたくらいだ。
家政夫のイリエと相原はその場をさっさと立ち去った。

「い、いいのかしら」
「勤務は終了です」
「そ、そうよね」

相原が振り返ったところで家政夫のイリエがじっと相原を見た。

「な、なに?」

近くで見ると相変わらずすごい迫力、と相原が見つめ返している間に家政夫のイリエは言った。

「髪に唐辛子が」
「え、どこ」

そう言って相原が髪を払ったが、家政夫のイリエがさりげなく相原の髪をすいた。
その手は相原よりよほど大きいのに、意外なほど細くて、それでいてしっかりとしていた。
相原は思わずその手に見とれていた。

「取れましたよ」
「あ、ありがとうございます」

ハッとして慌ててお礼を言ったものの、すぐに歩いて行ってしまう家政夫のイリエの後を慌てて追いかける羽目になった。

「ま、待って。あたしも一緒に帰ります」

その言葉に家政夫のイリエは振り向くことなくどんどん歩いていく。
その背は高く力強い。
相原はすかれた髪を手で触って感触を確かめた後、家政夫のイリエに置いて行かれないように駆け出したのだった。

 * * *

「まあねぇ、今回は手当も大きくて、ちょっとした臨時ボーナスを付けておいたから」

ほくほく顔で斗南家政婦紹介所所長が言った。

「ねえ、ねえ、琴子ちゃん。ところで、あの子があなたを助けたんですって?」
「え?うーん、まあ、そういうことになるんでしょうか。ええ、確かに助かりましたけど」
「これはちょっと楽しいわね〜」
「えー?どういうことでしょうか」
「他人の事情に首を突っ込むのはともかく、相棒を助けるなんてこと、今までにしたことない子なのよ」
「はあ、そうですか。相変わらず冷たいですけど」
「でもこれは母親としての勘よ。絶対何かあるわ」
「そ、そうでしょうかねぇ」

家政婦の相原は半信半疑で首を傾げた。

「あ、所長。それより、あの家主さん、あの後どうされたか知ってます?」
「ああ、えーと、西垣さまね」
「あ、そういう苗字でしたっけ」
「お母様に偽婚約者のことがばれ、ついでにあの後も女性がわんさか押し寄せて、さすがのお母様も呆れてご実家に連れて帰られたそうよ」
「そうだったんですか」

相原は気の毒に、と心の内で思ったのだった。

「あの、所長。所長の息子さんのことなんですけど」
「ところで、今度のおうち、またあの子と一緒に行ってみない?」

まるで話をそらされた感じだったが、ふられた話に相原は即座に反応した。

「え、またですか」

そこに紹介所事務室の扉が勢いよく開いた。

「それはこっちのセリフ」

入ってきた家政夫のイリエに低い声ですごまれて、相原は肩をすくめた。

「紹介所所長の命令です」

強い口調に二人はそれぞれ小さなため息をついたのだった。

家政夫のイリエ。
彼女の派遣をご希望の方は斗南家政婦紹介所まで。

(2017/01/30)Fin.