家政夫のイリエ




「ちょっと、イリエさん、見てないで何とかしてください」

ちょっとトイレへと堂々とあの場をとりあえず出てきた相原だったが、家政夫のイリエは淡々とキッチンで何事か行っている。

「…何を、してるんですか?」

相原の泣きつきにも目線をくれず、黙々と何かを作っているようだった。

「いえ、別に」

そう言うと、何の目的で作っているのかわからないまま、出来上がったらしいそれをキッチンの隅に置いた。

「触ったら、爆発しますよ」
「ええっ」

相原の驚きようにふんと鼻で笑って、家政夫のイリエは言った。

「…冗談ですよ」
「じょ、冗談…。入江さんでも冗談言うんだ」
「それより、いつまでトイレ休憩なさるおつもりで?相原さんはトイレが長い、とインプットされますわよ」
「うわああ。も、戻ります。いえ、戻りたくないけどっ」

相原は慌ててリビングに戻っていった。

 * * *

「で、どうしてこんなことに」

相原はげんなりした顔で隣の家主にささやいた。

「母がこちらにいる間に式場だけでも決めておきたいと」
「それはわかってますけど。どうして式場を決めないといけないんですか。婚約はフリ、でしたよね」
「うん、まあ、そうなんだけどね」

前を歩いていく家主の母に聞こえないように小声で話しているものの、いっそばれてしまった方が、と相原は思う。
出てくる前に家政夫のイリエに助けを求めたが、あっさりと「いってらっしゃいませ」と送り出された。
確かに家政婦の身の上ではそう言うのが正しい在り方なのかもしれないが、仮にも一緒に働く同僚が困っているのだから、少しくらい助けてくれても、と相原はがっかりしながら家主の家を出てきたのだ。
いっそここから逃げてしまいたいが、今ここで逃げてしまっては、後々の家政婦としての評価に影響が出てしまうかもしれない、と躊躇したのだ。すでに家政婦としての域を逸脱している、という考えには至らなかった。
もうすぐ家主の母がお勧めする式場に着いてしまう。

 * * *

家主の家では、家主とその母、それから家政婦の相原が偽の婚約者として出かけてしまった後、家政夫のイリエが一人で残って片づけをしていた。
むしろ相原がいない方が効率がよいのだが、それは口には出さない。本人を目の前にしたときだけ発せられる毒舌は、あくまで相原にしか発揮されない。
それは何故かと問われれば、家政夫のイリエにとっても謎の一つだった。
何よりも言いやすい、すぐにへこむ、その割にはへこたれない、がセットになっているせいかもしれない。
その根性だけは認めてもいい、と相原のいない場所でなら素直にそう思うのだ。
何せ本人を目の前にするとどうにもすべてがイライラして、そして毒舌を吐きたくなる、というのが家政夫のイリエにとっての目下の悩み事なのだ。
できれば仕事に没頭していたい。他の余計なことは考えずに報酬さえもらえればそれでよい。
しかし、相原のいない今の状況は、決して喜ばれるものでもない。
何故なら。

ドンドンドン!
ピンポンピンポンピンポンと同時にチャイムが鳴り響く。
ドンドンドン!
玄関のドアが激しくたたかれる音がした。

「どちらさまでしょうか」

インターホンでそう返すと、キンキンとした声が響いてきた。

『ちょっと!あんた誰よ!東馬、出しなさいよ!』
「家主は出かけております」
『家主って、あんた、誰?』
「家政夫でございます」
『家政婦?本当に?この間までそんなのいなかったけど」
「本日よりお世話をさせていただいております」
『そんなのどうでもいいから、東馬はどこ行ったの?!』

インターホンには、ちょっときれい目の女性が写っている。しかし、怒っているせいかやや品がないようだ。

「家主は出かけております」

先ほども言ったように繰り返す。

『だから、どこへ行ったのよ』
「家主の許可なくしてお伝えすることはできません」
『インターホンだけで帰す気?後であんたの雇い主に言いつけるわよ』

インターホンを切って、家政夫のイリエはちっと舌打ちした。
別に家主に嫌われることは問題ではない。
ここで家主から家政婦紹介所に文句がいっても別に構わない。
ただ、このままここで騒ぎ続けられるのが面倒なだけだ。
そもそもどうやってマンションのセキュリティを突破してきたのか。
もちろん住人の振りをしてさっと中に入る手立てはあるので、部屋の前までたどり着くのも簡単ではあるだろう。

「開けなさいよ!」

分厚い扉の向こうで騒いでいるのが聞こえる。
家政夫のイリエはインターホンを押して扉の向こうで騒いでいるらしい女に向かって仕方なく言った。

「わかりました。近所の方に迷惑になりますので、それ以上騒がないでいただけますか」

本音は、家政夫のイリエにとって家主の近所の評判などどうでもいい類のものだったが、とりあえず近所はこの状況に耳を澄まして聴いているだろうことを考え、差しさわりのない対応を心がけることにした。後で訴えられることだけが面倒だからだ。

『ちゃんと説明してもらえれば騒いだりなんかしないわよ』
「まずはお客様のお名前をお願いいたします」
『は?あたし?東馬の恋人』
「…と申しますと?」
『アズマよ』
「アズマ様、でいらっしゃいますね」

家政夫のイリエは数ある写真の中からインターホンに映る人物をこれだと確信した。

「ただいま家主様は、婚約者とおっしゃる方と一緒に式場に」

比較的新しい写真のようで、確かに写真の中の二人はそれなりに親しさを感じさせる。

『婚約者?!』

インターホンの前で激高する様子がうかがえる。どうやらすぐに沸騰しやすい人物のようだ。

『どういうことよ』
「私はただの家政夫ですので、詳しい話は」
『どこの式場?』
「さあ、そこまではわかりかねます」
『だいたいでいいのよ』
「申し訳ありません」
『ちょっと開けなさいよ』
「それは出来かねます」
『いいから、開けなさい』
「それ以上騒がれますと、不法侵入で通報することも検討させていただきます」
『…う、わかったわよ!』

わかったのかとちょっとだけ驚く。そこまで物わかりのいいタイプならばなぜここまで開けろと粘ったのか。
家主と結婚話も出ていたのかどうか知らないが(家政夫のイリエの推測では、そういう話は巧みに避けていただろうと思われる)、インターホンの向こうのアズマにはピンときたようだった。
その言葉の後、扉を開けろと怒鳴ることもなく、足音高く扉の前から歩き去ったようだ。
家政夫のイリエはため息をついて誰もいなくなったインターホンを見つめると、何かを決心したようにキッチンへと向かったのだった。

 * * *

もう式場に着いちゃった、と家政婦の相原は式場を見上げて入口で躊躇していた。

「どうするんですか。このままでは本当に式場予約されちゃいます。あたし、キャンセル料なんて払えませんからね」

隣に立っていた家主に相原はささやく。

「大丈夫、大丈夫」
「大丈夫じゃないっ」

相原の剣幕に少し驚いたように家主は一瞬怯んだが、生来の能天気さがそれを上回ったようだ。

「ほら、今日は仮予約ってことで、すぐに後から解約すればキャンセル料はかからないから」
「そうなんですか」
「うん、多分」
「…やっぱりやめましょう。あたし、人をだますのってちょっと」
「いや、もしかしたら本当に結婚ってことになるかもしれないし。そうしたらキャンセル料もいらないでしょ」
「誰と誰が結婚するんですか」
「僕と君」
「しません」
「どうして?ダメ?」
「どうしてもダメです」
「あー、恋人…はいなさそうだよね」
「大きなお世話です」
「あ、好きな人がいるとか」
「う…」
「でも片想いなわけだ」
「放っておいてください」

二人して話していると、さっさと先に入っていった家主の母がもう一度入口から出てきて言った。

「あなたたち、仲がいいのはわかるけれど、そんなところで話していないで早く入っていらっしゃい」
「はいはい」

家主はのん気にそう答えて、相原に首を絞められた。ちなみに家主の母はまたもやいそいそと中に戻っていったので、相原はそれを見てますます家主の首を締め上げた。

「ちょっと、ハイハイじゃないでしょ」
「う…あ、琴子さん…く、苦し…」

「ちょっと!東馬!」

家主は相原に呼ばれたのかと驚いて、苦しさで閉じかけていた目を見開いた。
ところがそこには、何故か、見覚えのある女が仁王立ちしていたのだった。
勢いで飛ばされた相原は転がり、代わりに女が家主のネクタイを握っていた。

(2017/01/16)

To be continued.