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それはほんの思いつきで、気紛れで、意地悪だった。
やられた本人にとっては、大いに悩んで泣いたことだろう。
それでも、送られてきた郵便物の中に紛れていた便りは、手に取った彼の顔をほころばせた。
朱色に押された印の数を数え、そこに添えられていた言葉を読み、同封されていた手紙を終わりまで一気に読むと、自然に浮かぶ笑み。
間もなく終わる研修の一日を費やすのも悪くないと思えてくる。
本当は神戸のときのように部屋でのんびり過ごすのも悪くないとは思うが、せっかく来るのだからと遊ぶ計画で一杯の思考に付き合ってやるのもご褒美というところか。
カレンダーを眺めて計算する。
あと何日たてばあの元気な姿に会えるのか。
あとほんの少しのその日数を彼女は指折り数えているに違いない。
…琴子。
虚ろな部屋に思わず声が響いた。
いつの間にか口に出していた名前をもう一度口の中でつぶやく。
あの一年を離れて暮らせたのは、今となっては奇跡的なことに違いない。それだけ忙しくて、夢中だった日々。
ほんの数ヶ月の研修でこれでは、さすがに苦笑するほかはないというのに。
忙しさが足りないのか。
今は研修医でもなく、時間さえ許せば暇も作れる立場になったということだ。
離れているのが辛いのは、何も彼女の専売特許ではない。
逆に言えば、彼女さえいれば他に何もいらないくらいなのに、それを口に出すことは何故かはばかられる。
言うなれば、彼のほんのわずかなプライド。
主導権を握られるのは趣味じゃない。
多分、ただそれだけ。
* * *
N市に近づくほど、雲は重く厚くなっていくようだった。
琴子は新幹線から窓の外を何とはなしに眺めてため息をついた。
いつの間にか富士山の見えるところも過ぎ、確実にN駅に近づいている。
もう一度鞄の中を探り、N市からO市への道順を確かめる。
新幹線を降り、在来線に乗り換えてすぐ、ということだった。
A県小児医療センターという名前の割には、県庁所在地であるN市にないなんて詐欺だ、と琴子は思っていた。
思ったよりも緑豊かな地にそのセンターはあった。
もちろん子どものための病院なのだから、そのほうがいいのか、と思い直して、琴子は時計を見た。
あと数分でN市に着くだろう。
それにしてもこの曇り空は…。
そう言えば、神戸に初めて行ったときは嵐だった、と琴子は思い出した。
あの時は本当に大変だった。
元をただせば自分のせいだということには目をつぶり、あの嵐のせいでとんだ目にあったと腹立たしく思い出されたが、その後にあんな夜更けになるまで待っていた直樹の優しさも思い出し、「もう、入江くんったら」と一人で顔を振った。
通路側の隣に座っていたサラリーマンは少しだけそのひとり言にぎょっとしたようだったが、琴子は気づいていない。
そしてはっとして今度はごそごそと切符を探し始めた。
「えっと、さっきなくさないように…」
ごそごそと鞄を再び探り始めると、『間もなく…』と車内アナウンスが入った。
「えっと、ええと…」
ここに入れたはずと思いながら探るのはなんて心細いんだろうと思いながら、不要に鞄の中をかき回した。
「あの…」
遠慮がちに声をかけてきたサラリーマンに琴子は半泣きで「なんですかっ」と答えた。
「ひっ」と声にならない声を上げて見るからに気弱そうで人の良さそうなサラリーマンは黙って指を差した。
見れば、鞄の外のポケットにひらひらと切符が挟み込まれている。どう見てもなくさないように入れたとは思えないが、とりあえず見つかったのでよしとする。
「ありがとうございますぅ」
切符を今度こそしっかりと握ったところで窓の外には街並みが見えてきた。
まだ駅に停車するには少し早いが、琴子は荷物を持ってサラリーマンに言った。
「あ、降ります!」
もちろんそんなことはわかっているとばかりにサラリーマンは立ち上がった。
「どうもどうも」
丁寧に避けてもらい、琴子はニコニコしながら乗降口に向かった。
去っていく琴子を見ながら、サラリーマンがなんとなくため息をついてほっとしたが、座席に残されている切符を見て今度は本当に青ざめた。
「ちょ、ちょっと!忘れてますよ!」
琴子は振り返り、乗車券は持っているとばかりに切符を振った。
「特急券、忘れてます!」
「へ?あ、ああ、特急券ね」
サラリーマンから受け取り、琴子は真っ赤になりながら車両を出た。もちろん降りる客も多いのだが、琴子ほど早く準備をしたものはいなかったせいで、乗降口の一番前だった。
車両を出る直前、サラリーマンが今度こそ本当に忘れ物がないかどうか座席の周りを確認する姿がちらりと見て取れたが、琴子は付近の乗客の視線が集中するのを感じ、早く着かないかと下を向くのだった。
(2011/06/12)