六月の雨の女神




新幹線から降りると、そのままJRの在来線乗り場へと移動する。
明日はN市を観光するつもりだったが、今日はとりあえずO市の小児医療センターを見て、直樹のマンスリーマンションに行くだけのつもりだった。
直樹は在来線を下りた駅で待っているはずだった。
琴子はきょろきょろしながら目的のホームを確認する。

「…えーと…」

東京よりずっと少ないはずだが、慣れていない分探すだけでも時間がかかる。
もとより時間を十分にとっている。
ぎりぎりに駆け込むようなことになってもし間違えて乗るような羽目になったら、神戸の二の舞だ、と琴子は慎重に構内を歩いていった。
親切に書いてあった案内表示にしたがって間違いなく電車に乗り込んだときは、さすがにほっとして荷物を放り出しそうになった。
電車内は程よい混み具合で座ることはできなかったが、とりあえずそのまま戸口近くに立っていることにした。
人の乗り降りの多い駅を過ぎ、いくつかの駅を通り越して、直樹が待っていると思われる駅に着いた。
改札口を抜けると、既に背の高い姿が見え、一緒に降りた女性たちがちらちらと見ていく。

「入江くん!」

その姿を認めた途端、琴子は荷物を持ったまま走り出した。
直樹の元にたどり着く寸前に荷物が引っかかり、あっとつまづいて転びかけたが、まるで予想したかのように直樹がタイミングよくすくい上げるようにして琴子を抱きとめた。

「ったく」

その呆れたような口調さえうれしくて、琴子は涙ぐみながら直樹にしがみついた。

「うっ、ひっく、会いたかったよ〜〜〜〜〜」
「…とりあえず、行くぞ」

琴子を片手で抱きかかえたまま、足下に散らばった荷物を取り上げ、直樹はバス乗り場へと歩き出した。
西口から出るには連絡通路を歩かなければならなかったが、バスに乗るまでにちょうど琴子の涙を引っ込めることができ、何とか体裁を取り繕うことができた。

「ご、ごめんね、泣いちゃって」

久々なせいか、もじもじとしたまま琴子が言った。
人目も気にせずについ派手に泣きついてしまったのを申し訳なく思っていた。
本当は飛びっきりの笑顔で元気な姿を見せようと思っていたのだが、5月から今までの苦労を考えると、つい気が緩んだのだった。

「そんなこと想定内」
「そ、そうですか」

直樹が勤めている病院方面のバスに乗り込むと、琴子はすっかり元気を取り戻した。
窓の外を見て「あ、ここにもある!」とありきたりな店を指差しては直樹を呆れさせた。
琴子いわく「東京は23区を出ると随分田舎になるので、ここもN市から出ると田舎で何もないと思っていた」らしい。
23区外の人にもたいがい失礼だが、O市も何もないわけではない。
確かにA県はN市より発達しているところは少ない。
それでも琴子の田舎妄想はそれよりも随分とひどいものだった。

「コンビニくらいあるし、チェーン店ならおまえがバイトしていた牛丼屋だって普通にあるし、ファーストフードの店だってある」
「…そうなの」

琴子は自分の抱いていたA県O市に対する認識を改めた。
それでもバスはどんどん森が近づき、その森に沿うようにしていくつかの施設があるのが見えた。

「いろいろな施設があるんだね」
「ああ、長寿の研究施設だとか養護学校とかも近くにあるから」
「へー、長寿って長生きの研究かなぁ」
「まあ、それは研究としてあるだろうけど、加齢によるいろいろな病気の診療を通して研究に生かすってところか」
「カレーで病気になるんだー、へー」
「…まさかとは思うが、カレーライスを食べてどうかなるとか思ってないだろうな」
「え、違うの」
「年を取ると、って言う意味だ」
「あ、そうなの」

まだいまいちわかっていないが、とりあえずわかったふりをすることにしたらしい…。
さりげなく話題を変えようと、琴子はバスの窓の外を眺め続けた。

「次、降りるぞ」
「え、あ、待って」

がさがさと荷物を持って、慌てて直樹の後について降りた。
降り立ったそこは、思いっきり病院の前だった。
「えーと、マンションは?」
「裏」
よく見ると、職員宿舎の表示もさりげなく見つけたが、そこよりも更に奥へと歩いていく。
新しそうな家がたくさん立ち並ぶ隅にマンションがあった。
何となく職員宿舎じゃなくてよかったというべきか。
「ここなの?」
「ああ。短期間研修だと職員宿舎かマンションを紹介される。
おまえが来ると職員宿舎じゃまずいから、あらかじめこちらに頼んでおいた。
贅沢で生意気だって言われたけどね」
言葉の響きとは裏腹に、楽しげな直樹の様子に琴子は安堵した。
「よかった。入江くんってとっつきにくいから、上司にいじめられたりしてるんじゃないかと…」
マンションに入りながら直樹は眉をひそめた。
「おまえ、それはどういう…」
「ええっ、だって入江くんいつもこんな顔(目を吊り上げて精一杯意地悪そうな顔を琴子は作った)して、友だちは少数精鋭だし」
「あのな…」
直樹はその少数精鋭の意味はちょっと違うんじゃないかと突っ込みを入れようとしてやめた。
少なくとも結婚してからこれでも人当たりがよくなったと言われたが、琴子の中ではいまだそんなイメージだということを知ったのだった。
琴子は全く悪気もなく「本当はこんなに優しいのに」とまだ言っている。
「俺が上司にいじめられるようなやつに見えるか?」
マンションのエレベータの回数ボタンを押して直樹が言った。
琴子はじっと直樹を見てぶんぶんと首を振った。
「…見えない。逆に百倍返しくらいしそう」
「なら心配するな」
そう言って琴子の頭をなでた。

(2011/09/28)