選択2 熱
せっかくの入江くんの誕生日だというのに、入江くんが風邪をひいている。
それも、入江くんはずっと隠していた。
* * *
おかしいなと思ったのは、もう三日も前のこと。
いつもより食欲がなかった。
とは言っても、いつものように家では食べていたの。
食後のコーヒーまできちんと飲んで。
病院では、忙しくても時間を見て、なるべく食べるようにしているのを知っている。
なんたって外科だから、いつ手術に入って、いつ終わるとも知れないから。
手術の時間はやってみなければわからないこともある。
長丁場のときほど体力を使う。
手術をする医師の方がふらふらじゃ、正確な手術はできないしね。
いつもならしっかり定食を食べているはずの入江くんが、麺類だけ。
時間がないからと言い訳していた。
そして二日前、少しだけ心ここにあらずという感じ。
いつものように仕事をこなして、いつものように呼び出しにも応じる。
でも、なぜだか違和感。
疲れてるのかな、と声をかけようと思うと、また忙しそうに去っていく。
その繰り返し。
昨日、あたしは我慢できなくなって、無理矢理入江くんの熱を測った。
怒る入江くんを泣いて落とし、栄養剤を山ほど飲ませた。
もちろん入江くんは自分の体調などとっくに知っていて、自分で薬を飲んでいたらしいけど。
あんなに疲れていたら、治るわけがない。
そして誕生日当日。
計画も何もかも吹っ飛んだ。
入江くんは前日、仕事を自分で処理しなければならないところは全て終え、家に帰ってきて倒れこんだ。
寝室でやきもきして帰宅を待っていたあたしに、休ませてくれとつぶやいて。
仕事を休むためにさえ、倒れるほど頑張った入江くんをあたしはギュッと抱きしめた。
* * *
入江くんはつらそうに眠っている。
一気に熱が上がり、何度か部屋をのぞいても、一向に目覚める気配がない。
気になって気になって、何度も様子をのぞく。
額の汗をぬぐい、氷枕の具合を確かめる。
入江くんはきっと自分の誕生日だからといって、特別なことは何も考えていないと思う。
でも、あたしは入江くんが生まれてきてくれたことを感謝したい。
寝室で入江くんの寝息を聞きながら、あたしはとても満ち足りた気分だった。
入江くんが病気っていうのはつらいけど、いつもより静かで落ち着いた誕生日でしょう?
ベッドの隣にいすを引っ張ってきて、横で入江くんの顔を眺める。
ふふっ、まつげ長い…。
頬杖をついているうちに、あたしはうつらうつらと眠くなってきた。
少しだけなら、いいかな。
何も言わない、怒鳴らない入江くんなんて久しぶり。
それもちょっと寂しいかな、なんて。
気づくと、あたしは夢の中だった。
* * *
「重い…」
耳を引っ張られて、苦しそうにそう言われた。
あたしはしっかりと入江くんの胸の上に頭を乗っけて眠っていたらしい。
「うわわわわ、ご、ごめんなさいっ」
唇の端のよだれを思わず確かめる。
半身を起こした入江くんの顔色と熱を確かめる。
「下がった?」
つらそうだった呼吸が落ち着いて、熱も触った感じでは、さほどではない。
「そうだな。楽になったと思うけど。特に胸が」
「…だから、ごめんなさいって」
入江くんはあたしの顔をぼんやりと見ている。
「今日は入江くんの誕生日だね」
「…ああ」
「誕生日おめでとう」
「…ああ、ありがとう」
何だかいつもの入江くんよりぼけた感じ。
まさか熱で入江くんの大事な頭脳に何かあったんじゃ…。
「お祝いしたかったけど、風邪が治ったらにするね」
「…ああ」
やっぱり変。
いつもなら「そんなのいらねぇ」とか「祝う歳じゃない」とかきっぱり断るのに。
「…琴子」
「ん?なあに、入江くん」
「水」
「あ、ああ、水ね、ごめんなさい。今、下に取りに…」
そして急に引き寄せられる。
えー、ど、どうしたんだろう、急に。
「やっぱり後でいい」
「の、のど渇いてるんじゃ…」
「じゃあ、潤して」
「ど、どうやって…」
胸の上に抱いたあたしの頭を片手でつかんでキス。
入江くんの口は、まだ熱っぽい感じがした。
「も、もう、ちゃんと水を飲んだ方が…」
やっと唇を離すと、入江くんが笑った。
「風邪、うつるかもな」
「いいもん、うつったら入江くんに看病してもらうから」
「どう考えてもお前の方が丈夫そう」
「ひっどーい」
「…で、誕生日祝いは何くれるの?」
「えーと、それは…」
「とりあえず、これ、もらおうかな」
「…これ?」
「そう、これ」
入江くんの視線の先は…あたし?
そんな、まさか、ねぇ?
「い、入江くん、風邪がひどくなるかもよ?」
「そうしたらまた看病してくれるんだろ?」
「そ、それはもちろんするけど。でも、あの、それとこれとは…」
入江くん、本当に何だかいつもと違う…。
「いいから、来いよ」
「来いって言われても…」
か、風邪ひいてるのに。
あたしはどきどきしながら、入江くんに引っ張られるままベッドの中へ。
すると、入江くんはあたしをぎゅっと抱きしめて、耳の辺りに吐息をかけ、軽いキス。
あたしが目をつぶったら、聞こえてきたのは寝息。
なんと、入江くんは眠ってしまっていたのだ…!!
「なーんだ」
あたしはほっとしたような、残念なような。
や、やだ、何考えて…。
でも、入江くんはやっぱり風邪をひいていて、いつもの入江くんじゃなかったってわけよね。
あたしは入江くんの身体を抱きしめ返し、こっそりと入江くんのまぶたにキスをする。
「誕生日、おめでとう」
そして、これはこっそりと。
風邪が治ったら、仲良くしようね。
(2006/11/03)選択2 熱−Fin−
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