If〜もしも知らなかったら〜前編
これは、もしも金ちゃんから琴子へのプロポーズ話を
理美とじんこから入江くんが聞かなかったら、の話です。
* * *
それは直樹が久々に大学へ行った日の昼下がり、テニスコートからぶらぶらと大学構内を歩いていたときのこと。
琴子の友人である理美とじんこが歩いていた。
二人はもはや何の関係もない直樹に琴子の話をする。
それがうっとおしくて、全部の話を聞かずに立ち去った。
「だけど金ちゃんも大胆よね。いきなり琴子にプロポーズしちゃうんだもん」
「今日あたり琴子返事しに行ったんじゃないの」
理美とじんこの二人が振り向いたとき、直樹は既にいなかった。
どこまで聞いたのか、聞いていないのか、それすらもわからなかった。
* * *
大学に行ったその日、午後から雨が降り出した。
琴子は雨の中をぬれて帰ってきて、翌日には風邪をひいた。
直樹はわざと知らないふりをした。
その翌日も熱が長引き、部屋から出てこない琴子が気になっているものの、まさか見に行くわけにもいかない。
部屋にこもっている間、金之助からの連絡はない。
いったい二人はどうなっているんだと心の底ではイラついていた。
心配じゃないのか。
そうしておいて、自分で自分に笑った。
今さら俺が心配してどうなる。
会社へ向かう車の中、自嘲した。
時が過ぎ行けば、こんな想いも忘れていく。
そう信じて書類をめくった。
* * *
「婚約、ですか」
何度目かのデートの翌日だった。
北英社の大泉会長から呼び出された。
しばらく会社経営の話をした後、切り出された。
見合いをしたのだから当然だろう。
さらに言うなら、直樹のほうからこの話を進めてもいいと言ったのだ。
一瞬直樹の頭の隅に琴子が思い浮かんだ。
寝込んだ琴子と顔を合わせることもなく、ましてや金之助が見舞いに来ているかどうかすらわからなかった。
風邪で散々寝込んだため、琴子の引越しは延期になっていた。
「直樹くん、沙穂子とはどうだね」
「どう、とは?沙穂子さんは素晴らしい女性だと思っていますよ」
大泉会長は直樹の顔を伺うようにして、「いや、それならいいんだ」と返した。
「両親と相談しておきます」
それは、暗に承諾したということだ。
もう、戻れない。
戻る?どこへ?
自分で自分に問いかけて、直樹は窓の外を見つめた。
大泉会長は、そんな直樹の横顔を黙って見ていた。
その日の空は、雲ひとつない水鏡のような空だった。
* * *
「直樹さん?」
直樹ははっとして手元を見た。
今自分が手にしているものを確認する。
手にした2枚のチケット。
有名な監督が手がけた文学作品。
壮大な物語の長い映画。
結納の日取りも決まり、沙穂子とともに映画を見ようと映画館の入口に来ていた。
何かの上映が終わったのか入口からどっと吐き出された人影の中に、琴子の姿を見た気がした。
まさか。
直樹はそのまま窓口に向かってチケットを出すことに専念した。
琴子は明後日に引越しをする。
部屋にはいくつかのダンボール箱。
いつか琴子が引越しをしたあの日のように。
時が過ぎれば忘れていくはずの面影。
その面影を人ごみの中に何度見ただろう。
どうでもいいはずだった記憶。
その記憶を何度思い返しただろう。
映画館の暗い中、文学作品のセリフはいつしか琴子と重なる。
沙穂子がこちらを見ていても、映画を見ている振りで誤魔化せる。
沙穂子なら言わないセリフの数々を、琴子ならいとも簡単に言ってのけるだろう。
比べるな。
何度そう刻み込んだことか。
目の前にいるのは琴子ではなく、沙穂子だということを。
どんなときでも表情に出さない自信はあった。
沙穂子になら怒ったりはしない。
怒るようなことはない。
笑いかけることはできる。
皮肉な笑みではなく。
物心ついてから人前で泣いたことはない。
ただ一人、泣きそうな気分をもらしたことはあった。
ヒロインの激情は、よく変わる表情を思い出す。
前の席ではやはり誰かが寝ていた。
隣の女につつかれながら、幸せそうな顔をしている。
直樹は思わず自分の頬をなでる。
今自分は、どんな顔をしているだろう。
スクリーンの景色はめまぐるしく変わり、季節が移り変わる。
もう何年一緒にいただろう。
多分明後日にはいない。
ヒロインが倒れる。
きっとこの後主人公は、ヒロインの亡骸を抱えて泣くのだろうと直樹は冷静に見つめる。
冷たい重石となって胸に沈んでいく想い。
泣けない想い。
隣で、涙を拭う姿が見えた。
沙穂子がバッグからハンカチを出す前に、ポケットに入っていたものを直樹は差し出した。
振舞うだけなら、どんな風にでも優しくできる。
ただ穏やかに過ぎていくだろう未来。
彼女の思い出は決して死なないのだと言う主人公のセリフには、直樹は正直共感できない。
思い出なんてもういらないのだと、思っているやつもいることをこの場にいる人間に言ってやりたかった。
二度と見ないで済むように、全てを記憶から抹消したいと思っているやつもいるのだということを。
やがて場面は暗くなっていき、エンドロールが流れる頃にはそこら中で啜り泣きが聞こえた。
直樹は姿勢を変えないままただエンドロールだけを見つめていた。
流れ行く名前の中に、琴の一文字を目ざとく見つけたことは、口が裂けても言えなかった。
照明が明るくなって、ようやく直樹は身動きした。
「ハンカチ、ありがとうございます」
「…いえ」
短くそう答えたのを、沙穂子はどう解釈したのか、
「直樹さんもあんなふうに思ってくださるのかしら」
と嬉しそうに笑った。
吐き捨てたい衝動を巧みに隠して、直樹は微笑んだ。
「出ましょうか」
微笑んだまま言った。
「ハンカチは洗ってお返ししますからね」
「いいんですよ、そんなもの」
「それともこれは今日の記念にいただいて、新しいものをプレゼントしようかしら」
直樹を見返す瞳にぶつかり、曖昧に笑って言った。
「そんなものを記念にしなくても、これからたくさん記念はできますよ」
沙穂子は頬を染めて直樹の腕をつかんだ。
「ええ、そうですよね」
(2008/09/21)
To be continued.