イタKiss祭り2008



If〜もしも知らなかったら〜後編


ダンボールの積まれた玄関と廊下を見ないふりをして通り過ぎた。
琴子はいなかった。
まだ大学から帰ってきていないのだと直樹が気づいたとき、玄関の開く音がした。

「ただいま〜」

玄関に入ったところで直樹の姿を認め、琴子は思わず立ちすくんだ。

「い、入江くん、今日はいたんだ」
「おやじとおふくろに無理矢理休みを取らされた」
「なんで?」
「さあ?」

本当は気づいていたのに、わざとそっけない返事をする。
琴子と琴子の父・重雄の送別会だろうと。

直樹は面白くなさそうにリビングへと移動する。
それを琴子が呼び止めた。

「あの…」

足を止めて振り返る。

「…何?」

琴子はその不機嫌そうな様子に一瞬ひるみながら、意を決して声にした。

「あの、今までありがとう。もう会わないかもしれないけど…」
「…ああそうだな」

ひくっと琴子の顔が引きつった。
直樹はそれを見ないようにして目をそらす。

「もしどこかで会ったら…知らないふりだけしない…で…」

語尾が濁った。
多分泣く寸前なのだろうと直樹は察した。
どう答えようかと思ったとき、それよりも先に琴子は走り去った。
階段を駆け上がる音がする。
続いてバタンと扉の閉まる音。

当分琴子の部屋の前を通るのはやめにしよう。

もれ聞こえる声に、多分直樹のほうが耐えられそうになかった。


 * * *


リビングで不機嫌そうに座っていた直樹を裕樹は黙って見ていた。
何か言いたげなその様子は、先日直樹に言い募ったときの表情と一緒だった。
キッチンからは、いつも鼻歌交じりに料理をしていた直樹の母・紀子の包丁の音ではなく、もう少し重い慎重な音が聞こえる。
調理人である重雄が最後の夜の晩餐に腕を振るっていたのだった。
個人的に店に行くことはあっても、この先プライベートで会うことはないかもしれない。
そんな気配を兄弟は感じていた。

明日にはいない存在をひしひしと感じ、入江家のリビングはしんと静まっていた。
これから晩餐が始まるというのに、どこにも楽しげな様子は見えてこない。
紀子の打ち沈んだ感じと直樹の父・重樹のあきらめたような感じ、琴子の空回りした元気さと全てを悟ったような重雄の様子、まだ心残りを示す裕樹と無表情のままの直樹。
全てがちぐはぐで、そしてもどかしかった。
誰か一声引越しをやめると言えばそれで終わるかのような空気をぶち壊したのは、他でもない直樹だった。

「おやじ、明日ついでに新居を探してくるよ」

はじかれたように紀子と重樹は顔を上げた。

「多分会社近くのマンションになると思うけど」
「…家を出るの?」
「そうか、そうするか」

紀子は既に涙でぬれていたハンカチを握りしめながら言った。

「そうよね。家になんかいられないわよね。琴子ちゃんとの思い出がいっぱいあるんだもの。沙穂子さんと暮らすなら、マンションでもどこへでも好きなところへ行くといいわ」
「これ、ママ…」
「そうさせてもらうよ」
「直樹…。その、マンションは用意すると言われたんじゃなかったのか」
「ああ、でも通勤するにはもう少し便利なほうがいいから」
「沙穂子さんとよく相談しなさい。おまえはすぐに独りで決める癖があるから」
「ああ、もちろん」

それだけの会話で、行くべき道は決まってしまった。
裕樹は下を向いて涙をこらえた。
兄が家を出て行くことを今初めて知った。
うるさかった琴子が去り、ちょっと早とちりだけど穏やかな重雄が去り、近いうちに大好きな兄までもが出て行く。
裕樹はなぜ自分はもっと早く大きくならないのだろうと思っていた。
せめてあと6年ほど…。
なぜこんなにも兄との年の差が開いているのだろう。
いつまでたっても追いつけない。
兄は一足先に大人になっていく。
当たり前だけど、それがもどかしかった。
もし今もっと高校生くらいだったら、兄の代わりになれただろうか。
そんな思いつきすらも子どもじみていて、口に出せなかった。
だから、ひたすらうつむいて涙をこらえた。

それから小一時間ほどで包丁の音はやみ、カタカタと鳴っていた鍋のふたの音もやんだ。
重苦しい晩餐の始まりだった。


 * * *


多分いつもより酒が過ぎたのを誰も知っていた。
紀子は酔って早々に寝てしまい、重樹は酒を止められていたので介抱に回った。
裕樹は黙々と料理を食べ、最後にぽつりと「おいしかった」と感想を述べた。
琴子は泣き腫らした目で下りてきて、やけに明るく振舞い、紀子を慰めた。
誰から見てもやせ我慢だったが、それでもその明るさが皆の食欲を誘った。
直樹はただ黙って日本酒をすすり、重雄とともに酒を交わした。
それでも横目で、琴子の箸がいっこうに進んでいないのを直樹は知っていた。
進んでいるふりをしながら、その実、口に運んだものの少なさは、いつも食い意地が張っている琴子にしては、おそらく全く食べていないと同じことだろうと。
そして誰にも気づかれていないと思っている。
直樹は密かに下を向いてバカなやつとつぶやいた。


 * * *


「…やだ。雨降ってる」

ベランダで琴子は一人つぶやいた。
ベランダから身を乗り出して、落ちてくる雨粒を眺める。
上を向いた途端にすっかり葉の落ちた木の枝から水滴が顔に落ちた。

「…冷たい…」

しばらくそうしておいてから、琴子はようやく顔をベランダの中へと戻した。
ふと前を見ると、先ほどはなかった人影があった。

「い、入江くん…」

洗い髪が前に落ちて、あまり表情は見えなかった。
廊下のほうから漏れる明かりだけでは、あまりにもベランダは暗かった。

足が前に出なかった。
本当は通り過ぎて部屋に戻りたかった。
今このときに顔を見たくなかった。
琴子はそう思いながら立ち尽くした。

「腹、減ってるだろ」

意外な言葉に琴子は首をかしげた。

「そ、そんなことは…」
「おまえの部屋の前におにぎりが置いてあった」
「えっ?」

グ〜。
途端に琴子の腹が鳴った。

「…あっと、今のは違うのっ」
「何が違うんだよ」

思わぬ失態に琴子は恥ずかしげにうつむいた。

「…金之助なら…」

ぴくっと琴子の肩が反応した。

「金ちゃんなら、なんだって言うのよ」
「…いや…。おまえらは本当にお似合いだよ」
「い、入江くんだって」

琴子は、沙穂子さんと…と言おうとして唇をかんだ。
その言葉を出すのが辛かった。

直樹は琴子の後ろの雨が、どんどん大粒になるのを目を凝らして見ていた。

「そりゃ、おまえと沙穂子さんは比べ物にならないだろ」
「ひどっ…。あ…あたしだって、金ちゃんにプロポーズされたんだから」

その先は口をつぐんだ。
まさか直樹が忘れられなくて断ったのだと言ったなら、またバカにされる、そう思った。

「…へぇ」

冷たく、無機質な声が琴子を苛んだ。
遠くの空で音がしていた。
それが雷だと気づいたのは、随分後になってからだった。
沈黙の中、ベランダの外では雨が降り続いていた。
時折光る空には重い雲が立ち込め、廊下からの明かりだけが二人の影を作っていた。

「…訂正する。外であたしと会っても、声をかけないで」

身体が震える。
少し雨にぬれたせいなのか、口に出す言葉のせいなのか。
琴子には耐えられなかった。
結婚していく直樹。
その直樹にどこかで会って、笑って話をする自分。
偶然会った直樹の隣に、沙穂子さんがいないとどうして言える?

「明日引っ越したら…、もう、二度と会わない」
「ああ、そうだな。大学も辞めるし、家を出るし、会わないだろうな」
「…出るの?この家を?」
「いくらなんでもおふくろがあれじゃあ、沙穂子さんに気の毒だろ」
「…そうね」

どうしてそう平然と言えるのだろう。
琴子は直樹を前にして、こんなにも身体が震えてしまうというのに。

「…じゃあ、本当に、もう」

この無駄な会話を終わりにしたくて、琴子はそう言った。
なのに、直樹はいっこうに動く気配がなかった。
直樹の横を通らないと戻れないというのに、その横を通るのが怖かった。

直樹は、琴子が震えているのを知った。
ゆがんだ顔で、直樹を見つめ、今にも泣きそうなのを悟った。
それでも口にするのを止められなかった。

「映画館で…」

直樹が言った。

「映画館?」

今このときになぜそんな話をするんだろうと琴子は首をかしげた。

「…この間見に行ったこと?あれは金ちゃんとじゃなくて、一人で…」

そう言いかけて、バカ正直に『一人で』なんて言わなければよかったと、即座に思った。
『金ちゃんとデートした』くらいのこと、言えばよかったと。
それに、映画館に直樹が一人で行くはずがないこともわかっていた。
その隣にいたのはきっと沙穂子だろうと。

もう…嫌だ。
なんでこんな会話を続けなくちゃいけないんだろう。

「なんでそんなに意地悪なのよ…」

小さくつぶやいた声は、直樹に届いたかどうかはわからなかった。
少なくとも、雨の音が強くなり、琴子自身の耳にもほとんど届かなかった。

琴子は思わず後ずさった。
今すぐこの場から逃げたくて、知らずうちに後ずさっていた。
そのまますぐにベランダにぶつかる。
サンダルがベランダの壁にぶつかり、足から外れた。

「あ…」

脱げたサンダルを拾おうとして、琴子はバランスを崩した。
とっさに直樹が支える。
ベランダの外は、徐々に雨脚が激しくなっていくようだった。
稲妻が走り、二人を照らした。

「ご、ごめんなさい。ありがとう」

腕をつかまれたまま、琴子は立ち上がった。
慌てて直樹の腕を振り払おうとしたが、できなかった。
遅れて雷の音が空から響いてきた。
つかまれた腕に力がこもり、琴子は顔をしかめた。

「入江くん、痛いよ…」

不意に顔を上げた琴子の唇を直樹が捕らえた。
少し冷たくて、かするようなキス。

「な…」

琴子は驚いて力いっぱい直樹を押したが、それでも両手首をつかまれた。
涙があふれてきて、直樹に向き直って叫んだ。

「なんで?これも意地悪?」
「ああ、そうだよ」
「ひどい、ひどいよ、入江くん…」

何度も鳴り響く雷とともに雨が吹き込んでくる。

「関係ないんでしょ、あたしのことはっ」
「…ああ、そうだな」
「だったら、放っておいて。沙穂子さんのことだけ考えていればいいでしょ。もう、あたしに構わないでっ」

悲鳴のように強く叫んだ琴子の声にかぶさるように、空は強く光り、真昼のように直樹の顔を照らした。
その直後に響く轟音。

「…そのつもりだった」

琴子にはよく声が聞こえず、思わず問い返した。

「な、に…?」

吹き込む雨が琴子の髪をぬらしていく。
琴子は手首をつかまれたまま、足から力が抜けていきそうだった。

「…何でそんなに意地悪するのよ」
「おまえが俺を好きだからだよ」
「な、何よ、も、もう、やめる…。今度こそ本当にやめるんだか…」
「おまえは俺以外好きになれないんだよ」

見つめる直樹の視線から、琴子は目をそらした。
足から力が抜け、膝をつきそうになる。
つかまれた手がなかったら、その場に座り込んでいただろう。

「…そ、そうよっ、そうよっ、だけどっ、仕方ないじゃない。入江くんはあたしのこと…」

最後まで言い終わらないうちに、直樹はそのまま琴子を引き寄せて抱きしめた。

「な、なんでよっ、あたしのことなんて…」

その引き寄せた腕の中で、琴子はもう一度直樹にキスをされた。
何かを確かめるような、ありったけの体温を注ぎ込まれるように。

「まっ…て、入江くんは…だって…」

懸命にキスから逃れ、琴子は顔を上げた。
直樹は琴子の冷えた頬を両手で挟み、ささやくように伝える。

「おまえ以外の女、好きになれない」

琴子がその言葉の意味を考えている間に、直樹はもう一度唇を寄せる。

「…ずるい…」

唇をふさがれる寸前につぶやいた言葉は、直樹によって呑みこまれた。

神様、もしこれが本当ならば、このまま雷に当たって死んでもいい…。
…これが罰ならば。


少しずつまた遠ざかっていく音とともに、雨は糸のように細く滴っていた。


 * * *


二人の身体が冷え切っていることに気がついたのは、飲みすぎてトイレに起きた紀子だった。
自分がビデオを持っていなかったことを非常に悔しがったという。


If〜もしも知らなかったら〜−Fin−(2008/10/02)