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例の新人ちゃんをようやく捕まえたのは、何度めかの外科訪問の時だった。
手術前には訪問してくるオペ室ナースを待ち構えて…と言うと聞こえが悪いが、僕の担当患者の手術予定に合わせてくる日を選んだだけだ。
オペ室ナースは、あらかじめオペ室では私が受け持ちますから安心してオペに臨んでくださいと言うのが役目なのだ。
患者のオペに関する様々な質問にも答えなければならない。
患者はオペ室に着いた途端に慣れた病棟ナースからいきなり知らないオペ室に放り込まれる感じなのだから、事前に顔合わせしておく方が安心感が増すのだ。
この間会ったオペ室ナースですよと顔を見せてオペ室に運んでいくのだ。
オペ室なんてものは患者にとっては秘密の部屋そのものだからね。
「それで、先生はこの間から随分と熱心に私を捜してくださったようですが」
「そうなんだ。なかなか会えなかったからね」
「別に避けていたわけでは…」
「まあ、ただの偶然だろ、うんうん、わかってるよ」
「用というのは何でしょうか」
「少し前の噂でもあったんだけども、入江と一緒に専門棟へ行っていたよね」
「入江先生と?」
「いや、僕はこの目で見たから間違いない」
「入江先生と一緒というよりは、偶然行き先が一緒ということでしたら何度か」
「そ、それは、どこへ?」
「えーっと、ちょっと言いにくいんですが」
「まさかやっぱり秘密の関係が?」
「相沢教授は、私の父です。両親が離婚したので苗字が違いますが」
「へー?乳かぁ」
って、そんなわけないだろっ。
「ち〜ちぃ?!」
「…声小さくしてください。先生が言うとセクハラみたいで」
「…いや、何だよ、セクハラってのは」
それでも声を小さくする僕。
「そういうことですから、私自身が用事があって教授の部屋にお邪魔していたんです」
「じゃあ、入江は何で…」
「それは、学生時代に教授と交流があったそうで。それ以上は私も詳しくは知りませんので、入江先生からお聞きになってください」
それができれば今ここで聞いていないんだよ。
そもそも、相沢教授と交流があったからと言って、手術後にわざわざ教授のところへ行く必要があるのか?
新人ちゃんはそのまま戻っていき、不倫でも何でもないんじゃないかと気付いたときには、無駄な時間を過ごしたものだと思ったのだ。
いや、それでも、秘密の部屋は、根も葉もないところから噂が出たわけではないはずだ。
僕は今までに鍛えられた不屈の精神で再度あいつに聞くことにした。
この世の中に、秘密なんてものは存在しないのだ!
午前の外来を終えたあの生意気な後輩は(ちなみに僕は回診係だった)、いつもと変わらず無表情で仕事をこなしていた。
何でこいつはいつも表情が変わらないんだろうと感心するくらいだ。その倍くらいの感情表現を琴子ちゃんが担っているんだな、うん。
そして、こんなに感情の幅が少ないくせにやきもちだけは人一倍なんだ。なんて迷惑な!
ああ、そうそう、怒るときももう少しわかりやすく怒ってくれ。
え?ある意味わかりやすいって?
周囲をツンドラ冷凍状態にさせることのどこがわかりやすいんだよ。
あいつの魔王ぶりを知らないやつは避難する前に遭難しそうなんだぞ。
「で、オペ室の新人ちゃんが相沢教授の娘さんだってことはわかったけどさ、おまえはどういう関係なんだよ」
さり気なくそう聞いたら、「…まだその話引きずっていたんですか。もうとっくに忘れたと思っていましたが」とため息をついた。
忘れてねーよ。追及する暇と機会がなかっただけで。
「そんなに知りたいなら、今日の午後八時に専門棟に来てみたらいかがですか。詳しい場所は相沢教授にでも聞いて」
「よし、午後八時だな」
「…ちなみに、相沢教授は午後三時までしか院内におられませんが」
ちょっと、待て、先に言えよ、それは!
午後三時まであと五分しかないじゃないか!
僕はやりかけた仕事も放って専門棟の相沢教授の部屋へと向かった…が、そもそも相沢教授の部屋すらも知らなかったので、細井師長をまず先に捜すという手間をかけた。
廊下を注意されながらも走り抜け、専門棟へのドアを抜けた時にはすでに午後三時だった。
そこから相沢教授の部屋は一番端だ。
そこも足音を構っていられず駆け抜け、ようやく相沢教授の部屋に着いたときには、既に鍵が閉まっていた。
何てことだ。
それでも諦めきれず、相沢教授の足ならばまだ追いつけるだろうとそこから出入口へと向かうルートを駆け下りた。
のんびりと歩く教授を見つけた時には、もうこれで目的は達成されたも同然だった。
「きょ、教授…」
息も切れ切れに呼んだものだから、相沢教授はのほほんとこちらを見て首を傾げた。
そもそもこの教授を息を切らせて呼び止める者などそうそういないのだろう。
「相沢教授でいらっしゃいますね」
「そうだが、君は」
「申し遅れました。第三外科の西垣と申します。講師で、入江の指導医をしております」
「ああ、入江君の」
「大変不躾で申し訳ありませんが、入江の秘密の部屋というのを教えていただきたくて」
「秘密の部屋…?はて、そんなものは…」
「入江が使っている部屋です」
「ああ、使っていない資料室だね」
「そんなものがあるんですか」
「大学時代によく手伝ってもらって、その資料室の鍵はいまだ貸しっぱなしなんだが、今でも時々私の研究資料を整理してもらったりしているので、ついでに仮眠をしたりとうまく使っているようだね」
「それで、その部屋はどこにあるんでしょうか」
「…君も使いたいのかね」
「いえ、それは。ただ、入江がよく消えるので、何かの場合に場所を把握しておきたいだけです」
「あれは私の研究室の奥の…階段を上って下りた隅かな」
よくわからないが、教えてもらったことに感謝して、僕は相沢教授にお礼を言って別れた。
しかし、相沢教授は飄々としていて、幻の教授(正解は伝説の教授)と言われるだけあるかもしれない。
そうか、仮眠室代わりにしているのか。
しかし、結局オペ直後に消える理由はわからないままなんだが。
そして、鍵が開いているか開いていないかにもかかわらず、僕は早速その資料室とやらに向かった。
ところが、なかなかたどり着けない。
本当に秘密の部屋かよ。
相沢教授の研究室の奥…。
ここからすでにつまづいた。
奥って言っても、ここには非常扉しか…。
非常扉の向こうか?!
まさかと思いつつドアノブを回すと、意外にすんなりと開いた。
扉の向こうにはもちろん階段が。
上にも下にも行けるが、ここは上って下りての意味を汲んで上ってみる。
何故か三階の扉は開かない。
仕方がないので四階まで上ると、そこの扉は開いた。
中に入ると、そこはまた非常階段だった。どういう構造だよ、斗南病院はっ。
そこでもう一度考えて階段を下りると、非常用扉を開けた。
ここは構造上研究室が並んでいる一番奥ということなんだが、その隅…と言えば、ここしかないだろう。
資料室と書かれたドアのノブを回せば、意外にも鍵は開いていた。
秘密の部屋でも何でもないじゃないか。
中をそっとのぞくと、壁面にはびっしりとファイルと本が詰まっている。
机はないが、ただ一つほとんどのスペースを占領しているのは、大きなソファーで、身体を縮ませればあの後輩の身体がおさまるだろうか。うーん、厳しい気もするけど。
僕の好奇心はとりあえず満たされたので、早速戻ることにした。
ところが、ここは非常扉からしか出入りできないというどこかの小説に出てきた場所のような構造だ。
うん、きっと当時の人が適当に建て増ししたに違いない。
仕方がないので再び非常用扉から上って下りて二階へ戻ることに。
これ、夜だととんでもなく怖い気がするんだが。
寒い日とか雨の日とかどうするんだ。
そんなふうにして非常階段を下りている最中にいきなり院内用PHSが鳴り響いた。
驚きのあまり足を踏み外すところだったよ、危ない危ない。
電話に出れば、これまたものすごく怒った外科病棟主任で、やりかけの仕事を放っていつになったら戻ってくるんです、ときたもんだ。
…うん、悪かったよ。
一切の言い訳もさせてくれず、大急ぎで病棟へ戻る羽目になったのだった。
時刻は間もなく午後八時を回ろうとしてるが、もう場所はわかったし、わざわざ今からあの場所に行くのもどうかと思う。
しばらく悩んだ末にやっぱり行くことにした。
その部屋は知っているぞと自信満々で出かけていくと、何と専門棟の入口を入ったところで二階への階段を上っていく入江と琴子ちゃんを見た。
僕と約束していたんじゃないのか!と少々裏切られた女のような思考に陥ったが、僕の追跡はまだ終わっていないことに気付き、後を追いかけた。
二人は相沢教授の研究室に鍵を開けて入っていき、出てこなくなった。
仕方がないので、一応午後八時という約束のあった僕は、教授の研究室をノックして「入りますよぉ」と声をかけて中に入ると、奥の方の部屋から何やら艶めかしい声が…。
「ううっ、入江くん、それはちょっと…」
「ここだろ?」
「い、いやぁ…」
え、と、あの、おーい、琴子ちゃんと何やってるのかな。
教授室の奥の奥、微かな声だが、もしかして今の今でお楽しみ中とか?!
ええっ、この僕の目の前で?
もちろんお邪魔するほど僕は野暮ではないつもりだが、いくらなんでも教授の研究室というのはどうかと…。
「…先生、そんなところで聞き耳立てていなくてもいいです。どうぞ、入ってください」
あっさりと向こうから声をかけられ、僕はその奥のドアの前で立ちすくんだ。
え、なに、君たちそういうプレイ好きなの?
ご要望にお応えしてドアを開けると、そこは確かに部屋の一部だったが、更に短い階段があった。
何なんだ、ここの構造は!
階段を上ってここか!とドアを開ければ、そこは本棚がたくさんの…。
あれ?どこかで見たぞ。
「…午後八時と約束していたのに遅かったですね」
「あ、先生、遅いですよ」
「えーと、遅れてごめんね?って、何なんだよ、この部屋」
「昼に見たんじゃないんですか?」
「えーと、あの階段を上って下りての資料室?」
「その資料室ですが」
「何でこんなところに入口があるんだよ。詐欺じゃないか」
「何言ってるんですか、先生」
琴子ちゃんは首を傾げる。
いや、琴子ちゃん、君もここに馴染んでいないでさ。
「先生が遅いから暇なので、入江くんが肩をマッサージしてくれてたんです」
…艶めかしい声の原因はそれかよ。というか、紛らわしい。というか、わざとだろ、おまえ。
「で、秘密の部屋はこれですってか?」
「秘密でも何でもないと思いませんか?」
「そーだな、そうかもしれないなっ」
僕は半分やけくそだ。
相沢教授が信頼してお前に鍵を預けっぱなしなのもどうかと思うけども、いいのか、研究室に勝手に入って。
「今日は特別に相沢教授の許可を取ってあります。いつもは非常階段ですよ。琴子が鳥目なもので」
「ええっ、そーなの、入江くん」
あー、そうかよ。
「それで、念仏を唱えたりはしないんだ」
「え…念仏…」
途端に琴子ちゃんは顔が真っ赤になった。
「そんなことしなくても開きますし、念仏を唱えたら誰も逆に寄ってきませんよ」
「いーのか、琴子ちゃん、こんなところで逢引きしてたかもしれないんだぞ」
「してないっていう証明をしてくれるって言うのでついてきたんです」
いや、もうどうでもいいけどさ。
つまり、ここはあの伝説の相沢教授の研究室の一部であり、何だかんだと言い訳しつつもこの生意気な後輩が好き勝手に使っている部屋だということはよくわかった。
しかも相沢教授は午後三時になると帰ってしまうくらい帰宅は早いし、ゼミ生などもここは使ってないし、おまえの好き放題というわけだな。
「事情がわかったところで納得していただけましたか」
納得も何も、おまえ、言外に早く帰れって言ってるんだろ。
どーせおまえは琴子ちゃんといちゃこらなんだよな。
「リネン室だの当直室だの、ありとあらゆるところでいたすあなたほどではありませんよ」
いや、そんなにいたるところではしていない。
真面目に訂正しようとしてはっとする。いけない、こいつのペースに乗っては。
「そんなに覗きたいなら止めはしませんが」
…そんな趣味はない。
「ところで入江くん、ここ、お化け出たりしないわよね」
「…出たらどうするんだ」
「か、帰るっ」
「…むしろお前がお化けの元だな」
「あたし生きてるもん」
あー、はいはい、琴子ちゃんのすすり泣く声と念仏はきっと噂の的だろうね。
そりゃ一見非常階段しかない扉の向こうからすすり泣きが聞こえりゃ、そりゃ怪談だろうさ。
はいはい、帰りますよ。
「あ、相沢教授の研究室のドアはセキュリティの関係でもう開きませんので、帰るならあちらからどうぞ」
そう言って示されたのは、あの外階段を使うほうだ。
おいおい、今日は午後から雨だって言ってなかったか?
まだ止んでいないようだったぞ。
僕はここでこいつらのいちゃこらを見る趣味はないので、仕方なく非常扉をくぐっていくことにしたのだ。
何だよ、この仕打ち。
教授の娘と聞いたらおいそれと新人ちゃんには手を出せないし、こんな非常階段で帰れとか言われるし、雨は降ってるし、しかも階段滑るし。
せっかく大蛇森ウイルスを切り抜けたのに、風邪をひきそうだよ。
後日、風邪をひいてくそまずい入江ミックスを渡された僕は、本当にまずくて悶絶したのだが、その威力抜群の処方を実は相沢教授と研究していたのだと知ることになる。(味がどうやっても超絶まずいので製品化には程遠い代物だとも後で知った。)
(2014/12/30)Fin