イタkiss祭り2020拍手企画



ドクターNと美の秘宝1


病棟の昼下がり、何もなければ気だるげな午後だ。
今日は手術もなかったし、外来は思ったよりスムーズに終わったし、のんびりと病棟を回っていたところだ。
このままうまくいけば今日は早めに帰れるかもしれないなーなどとウキウキしていたら、とあるお方からメールでのお誘いがやってきた。
あー、うん、無視してもいいんだけど、残り少なく人生に付き合ってくれと言われると何となく断りづらい。
そう、例の志乃さんだ。
外科病棟に入院していた患者さんの奥さんで、未亡人だけど年齢差は…えーと四十くらいはあるかな。若い頃はなかなかの美人だったと思われる。あ、いや、今も美人です、はい。
当然艶っぽい付き合いじゃなくてボランティアに近い飲み友達というところだ。
(作者注:イタkiss期間2015収録『ドクターNと明日か!板の住人』とイタkiss期間2018収録『ドクターNと不死町の義歯団』参照)
老後を楽しんでいる志乃さんは、時々こうやって僕を誘ってくるけど、同時に一緒に呼べと指定されるのが桔梗君だ。
なので、桔梗君を探して声をかけると、さも胡散臭そうにこちらを見ながら「何ですか?」と言った。
君だけだよ、そんなに胡散臭そうにするのは!
あの琴子ちゃんですらもう少しこう慈悲の心をもって接してくれるっていうのに。
その琴子ちゃんはただいま産休中。
無事に女児を出産し、桔梗君はまるで自分の子か姪っ子が生まれたかのように、もしくは乳母のように足繁く入江家に通っては「入江さんの子どもが〜」とか、「さすがあの入江さんの子よね〜」とか、誰が苦労して産んだのかすらわからないようなことを僕に言ってくる。
ああ、どうせ僕はいまだに会わせてもらえませんよー!
見に行こうとしたんだ。
でもそのたびに急患だの呼び出しだのと阻まれて、生まれて一ヶ月経った今でも琴子ちゃんの子どもの顔は見ていないのだ。
ちなみに名前も教えてもらってませんよー!
え?何で?と思うでしょ?思うよね?
僕の周りで琴子ちゃんの子どもの話はタブーらしく、口にするのは唯一桔梗君だけ。しかも名前は出てこない。
絶対何か例の魔王から指令が出ているに違いない。
僕が呼ぶと何か禍があるのか!?
どうせ魔王なら「ある」と真顔で断言しそうだけどね。
「で、いったい何なんですか」
桔梗君が呆れてこちらを見ている。
「志乃さんが、今夜飲みに来ないか?と」
「あー、志乃さん…」
桔梗君は思案顔で頬に手を当てスケジュールを思い出しているようだ。
そんなに考えなくともたいしたスケジュールはないだろうよ。
夜勤かそうじゃないかくらいのもんじゃないのか。
「先生、声に出てますよ」
「おっと、こりゃ失礼」
とげとげしく僕に言ったものの、桔梗君は嫌そうな顔をしながらも答えた。
「最近は確かにたいした用事はないですけど。ええ、先生のおっしゃる通り、今日は夜勤でもないですしね!」
「じゃあ、志乃さんに行くと返事をしても?」
「どうせアタシが行かないと先生一人なら飲み会自体はなし、でしょうね」
いや、まあ、そのほうがありがたいと言えばありがたいんだが。
「それにしても志乃さん、アタシの勤務がわかるみたいにピンポイントでお誘いがあるのよね」
おや、そう言えば僕もだ。
僕は桔梗君と顔を見合わせた。
「これは…」
「絶対勤務表を手に入れてるね」
「もちろん入江夫妻でしょうね、情報源は」
「あ、やっぱり?…ということは、志乃さんは入江家に…」
「あら、お見舞いに来てましたよ、琴子の出産の」
部外者の志乃さんまで…!
同僚であるはずの僕の立場はいったい…。
「まあ、行くと返事をしておいてください。写真を渡さないと、ですし」
「も、もしやそれは琴子ちゃんの子どもの…?」
「あー、そうとも言えるようなそうじゃないような」
「何だよ、その返事」
「何だったら、先生にも後で見せてあげますよ、お望みなら」
桔梗君は気の毒そうな目で僕を見た後、「では、仕事終わってロビーで六時に」と言って仕事に戻っていった。
ところでいつもこういう話題をしていると現れる魔王は、完全に休みだ。
休みなんだから、琴子ちゃんの子どもの名前くらいぶっちゃけてもいいと思わないか?
そんな僕の心の叫びは誰にも気づかれることなく仕事はつつがなく終わった。

何故かこういう時は急患が出たり、緊急手術みたいな事もない。
何でだろうね。
しかも魔王は完全に休みなんだから、対応するのは僕のはずなのに、こういう時は何の予定もなく志乃さんちに行けてしまうんだ。
こう考えると彼女も魔女のような人だ。
町内には志乃さんファンクラブみたいな人たちもいるしね。
僕の方が仕事終わりは早く、ロビーで他の仕事終わりのナースたちとあいさつを交わしている間に桔梗君もやってきた。
何故か僕の場合、桔梗君と待ち合わせしていようが、他のナースと待ち合わせしようが、一緒に食事に行こうが、時には他の誰かとホテルまで行こうが、一向に噂にならない。
何でかなーとつぶやくと、桔梗君があっさり言った。
「そりゃ誰も本気じゃないからですよ」
「…ああ、そう…って、本気じゃなかったらもっと噂になってもおかしくないよね?」
「先生なら、誰とでもあり得ると思われてるんですよ」
「いや、僕だって選ぶ権利はあるぞ」
「その権利を最大限に行使している人に言われたくないですね」
「何でだよ!もちろん桔梗君と二人きりでレストランには行かないし、行くなら居酒屋までだろ。しかもホテルにも行かないし、他のナースだって滅多に二人きりでレストランになんて行かないんだよ」
「二人で行かないんなら、ただのメッシーってやつですか」
「何だよ、古い言葉知ってるね。違うよ、夕食をおいしく食べるために付き合ってもらうんだから、貢いでいるわけじゃない!そこは誤解しないでほしいな」
「万が一、先生に本気の人が現れたらどうするんですか」
「そりゃもう大歓迎だよ」
「へー、本当ですかー」
棒読みで桔梗君はそう言うと、続けて「先生、タクシー来ましたよ」と促した。
志乃さんちへはタクシーで行くのが一番だ。
なかなか行きにくい場所でもあり、うっかりすると迷子になるからだ。
「それでは行きましょうか」
タクシーに乗り込む瞬間、一瞬の迷いが生じた。
明日は、手術日でもないし、外来日でもない。
うん、多分大丈夫だよな。
そういうときは後からやめておけばよかったと思うことなど、定番中の定番なのだが、その時は後ろから早く乗れとばかりにタクシーに押し込められて、僕たちは志乃さんちへと向かうのだった。

(2020/10/14)

To be continued.