Go to→40年前の世界




夢を見た。

これは夢だ、夢だ、夢だと三回ほど繰り返しても目覚めないので、とりあえず仕方なしに動き出すことにする。
まだ頭がボーッとしている感じで、常になく平常心を失っているのかもしれない。
隣には、やはりぼーっとしたままの琴子がいる。
二人して夢を見ているのか、俺の夢に琴子がいるのかはわからない。
もしくはこれすらも琴子の夢で、俺の意識はいったいどこにあるのか。
真っ白だと思った世界は、よく見るとはっきりしてきて、ちょっと下町風の風景が広がっていた。

「おい、琴子」
琴子はぼんやりとした顔で目をこすり、「ん?何、入江くん」と返事だけした。
こちらを見もしないのに、隣にいるのが俺だと疑うこともなく返事する。
もちろん昨夜はちゃんとベッドに入った時は確かに隣に琴子がいたし、琴子の隣には俺がいたはずだからだ。
電柱の標識によれば、同居前に琴子が住んでいた辺りかもしれない。
何故ここなんだろう。
決して新しくはないアパートの一室から誰かが出てきた。
その顔に見覚えがあった。

「あーーーーー!」

琴子がこれ以上叫ぶ前に口をふさぐ。
当然のことながら今の叫びだけで十分に人目を引いた。
その人はこちらを見ると、人懐こい笑みを浮かべた。
それでも、彼女は俺たちの顔を知らない。
まだ、知らない。
琴子はふさがれた口の中でもごもごとしゃべる。何を言っているかは聞き取れなくてもわかる。
お母さん、だろう。
アパートから出てきたその人は、写真でしか見たことがないが琴子の母、悦子さんにそっくりだ。
やはり夢か。
もうこの際夢かどうかは置いておいて、この状況はどうしたらいいのか。
今琴子のこの様子からして、突撃していきなりあなたの娘ですと言いそうで、琴子をつかんだ手を離せない。
考えられるのは、…ただの夢。
悦子さんが実は生きていた。…そんな可能性はゼロに等しい。
俺たち二人ともがタイムスリップした。…それこそあり得ない。
ただのそっくり。…これならあり得る。
女性は、確かめる間もなくアパートを出て歩き出した。
歩く後ろ姿はふらふらと危なっかしい。

「…あ」

思わず二人してその女性が電柱にぶつかったのを見て声をあげた。
何故前を向いて歩いていてぶつかるのか。
「…お母さん…」
琴子は顔を赤らめながら見守っている。
その人が本当に悦子さんかどうかはわからない。
そもそもここがどこで、いつなのかもわからない。
少なくとも着ている服からすると、夏場なのは確かだ。
再び歩き出して、危なげながらもどんどん歩いていく。
「どこまで歩くのかな」
「さあな」
「ねえ、戻れなくなったらどうしよう」
「そもそも戻り方もわかんねぇよ」
そう言うと、琴子は小さな声で言った。
「なんか、お母さん、若くない?」
「結婚した時も若かっただろ」
「うん、そうなんだけど」
どんどん歩いていき、結果的に俺たちは前を歩く女性の人を尾行する形になっている。これ、二人じゃなかったらかなりやばい。
しばらく歩いているうちにも女性はふらふらとして、今にも倒れそうになってきた。
「なんか、倒れそうでやばくない?」
どこかで聞いたぞ、このシチュエーション。
「琴子、いいというまで手を出すなよ」
「え?どういうこと?」
そう言っている間に人通りのいる通りにやってきた。
そして、思った通りの人間が向こうから歩いてきた。
「お…」
琴子の口を再びふさぎ、店の看板の後ろに引っ張った。
「どういうこと?お父さん?え?そっくりさん?」
確かに今の姿の琴子のお父さんである重雄さんではなく、写真で見たことのあるかなり若い頃の姿だった。
それには多分理由があって…。

「あ、倒れた」

そのお義父さんらしき人の目の前で女性は倒れた。
琴子が俺の手を振り切って走り出す。
「あ、バカ」
急いで追いかけるが一歩遅かった。
「大丈夫ですか」
お義父さんらしき人は慌てたように倒れた女性を助け起こそうとしている。そこに琴子が加わり、俺はため息をついた。
「任せてください、看護師ですから!」
「おお!そりゃすごい」
これは、まずい。
俺には聞いた覚えのある琴子の両親の出会いの場面だ。
「それに旦那さまはお医者さんなんです」
「ほーー!」
「おい、琴子!」
「あ、ほら、あれがものすごく優秀な旦那さまです」
俺は女性を見るふりをして、「ただの空腹です、料理人のあなたが腹いっぱい何か食べさせてやってください」と早口で言った。
「いやー、おれはまだ料理人の卵だよ。それにしてもそんなことまでわかるのか!すごいな、優秀なお医者さんは」
さすが琴子のお義父さんだ。
そんなわけないだろと突っ込みたくなるのを堪える。
「そうでしょ、すごいのよ〜」
謎の自慢を始める琴子を引っ張り、それじゃと挨拶もそこそこにその場を立ち去る。
角を曲がったところで戸惑う琴子を見下ろし、「おまえはっ」と文句を言った。
「あれが誰だかわかってやってんのか」
「どう見ても、あたしのお父さんとお母さん、よね?」
「この時代がいつなのかまだわからないし、ただの夢かもしれないが、見た目はそうだな」
「そうよね」
「それなら考えてみろ。俺はお義父さんとお義母さんがどうやって出会ったのか聞いてるが、今まさにその場面だった。もしここでおまえが邪魔をして、それなら医者と看護婦に任せれば大丈夫だろうということになったらどうなると思う」
「えーと、結果的に恋人同士にならないことも…?」
「結婚しなかったらどうなるんだ」
「あたし、生まれないってこと?!あの、バックなんちゃらの映画みたいになっちゃう!」
俺は琴子が良く思いだしたなと感心した古い映画を思い浮かべた。そう言えば先日テレビのロードショーかなんかで放送していたか。それでもタイトルは覚えきれなかったらしい。
「それにお母さんを助けたのが入江くんになっちゃったら…。お母さん、メンクイだから、絶対入江くんを好きになっちゃう!」
いや、ないだろ。
俺は結婚しているし、何だかんだと今の俺は年上だし。
しかし、琴子のお母さんだから…。
角に隠れて二人を見ていると、助け起こされた女性は何とか立ち上がって礼を言っている。
お義父さんは何かを断る女性を連れて、そばの店に入っていった。
時間が早いので、下っ端のお義父さんはこれから仕込みの手伝いなのだろう。
とりあえず第一段階はこれで何とかクリアだろう。
「あ、危なかった〜」
こっちのセリフだ、それは。
「でも、ちょっとだけ、うれしかったな。生きてるお母さんに会えて」
「言っておくが、今のおまえはお義母さんより年上だからな」
「え!あ、そうか」
「いきなりお母さんなんて言って抱きついてみろ。頭のおかしいやつだと思われるぞ」
「それなら、入江くんのお父さんとお母さんは、まだ出会ってないかな」
「…ああ、そうかもな」
「これであたしのお父さんとお母さんが知り合って結婚するのね」
「多分な」
二人して街中に立ちながらぼんやりとしていると、景色が揺らいだ。
ああ、もう目が覚めるのかもしれない。
そんなことを思っていたら、辺りは何も見えなくなった。

目が覚めると、隣で寝ている琴子は布団を蹴飛ばしてすごい寝相だった。
夢だ。
…夢だな。
頭を振って起き上がった。
その途端、琴子ががばっと起き上がった。
「お母さん!」
琴子は俺の顔を見て涙を流した。
「入江くん、お母さんがね、倒れて…でも死んでなくて、空腹で…」
「…ああ」
「思い切って抱きつけばよかったかも」
それを止めたのは俺だ。
「悪かった」
「え?入江くんのせいじゃないよ」
「…いや」
やはり同じ夢を見ていたのかもしれない。
「でも、あの後あたし、お母さんが出てくるまで待ってて…振り向いたら入江くんがいなくって…」
…その先も夢で見ていたと?
「お母さん、ちょっと大変なことになってたみたいで…心配だったんだけど」
その先の話の続きは、お義母さんがお義父さんの店に毎日飯食いに来てた、としか聞いてない。
「もう一度寝れないかな」
「寝たとして夢の続きを見るわけじゃないぞ」
「うん、そうなんだけど、気になって」
「それにお前もそろそろ起きないと、間に合わないぞ。結果的におまえが生まれてるから問題ないだろ」
琴子はふふっと笑った。
「何だよ」
「夢の話なのに、入江くんも本当にあったことみたいに言うから」
確かにそうだ。
「入江くんも同じ夢、見てたりして?」
「…そうかもな」

俺たちは知らなかった。
琴子の両親がどうやって結婚に至ったのか。
真実はお義父さんに聞けばわかるのかもしれないが、俺たちはその後忙しさに紛れて忘れた。
夢の話だと。
少なくとも、琴子がこの世に生まれたのは、幸運だった。
それを俺たちは嫌というほど実感することになった。

(2020/09/28)


To be continued.