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待って、待って、置いていかないで。
あたしは入江くんの背中を追いかけた。
夢だとわかっているのに。
一人残されてしまうのは嫌だ。
つかみかけた手が空を切ったとき、あたしは寝ぼけたままどたんとベッドから落ちたのだった。
「いったあぁい」
幸い布団とともに落ちたらしいあたしは、打ったらしい背中の衝撃は言葉ほどのものはなかった。
こんなに大きいサイズのベッドなのになんで落ちるかな。
そんなことをぼんやりと思いながら仕方がなく起き上がる。
当然のことながら入江くんはいない。
入江くんにギュッとしてもらっていたはずなのに、と思ったのは、夢の中のか現実なのか。
多分髪もぼさぼさのまま、とりあえず部屋の外に出た。
目を覚まそうとぱちんと頬をたたくと、階段の下で入江くんとお父さんが笑って立っていた。
「おはよう」
お父さん、珍しく早いなぁ。
今日はお店休みだっけ。
そう思っていたら、入江くんもまだ起きたばかりらしく、入江くんもパジャマのままだ。
「やっぱり落ちたんだな」
「やっぱりって」
ベッドから落ちたこと?
落ちそうだったなら戻してくれればいいのに。
そう思ってむくれると、入江くんは「おかげで目が覚めただろ」と言った。
もう少し寝たかったんだけど。
そう思ってあくびをすると、お父さんは「せっかくだから母さんにもあいさつするか」と自分の和室の部屋の扉を開けた。
パジャマのままというのもちょっと情けないけど、今更かと思い、そのままお父さんの部屋に入って仏壇の前に座った。
入江くんと二人して並んであいさつを終えると、お父さんがお茶を入れてくれた。
どうやらそのために部屋を出てお湯を持ってきたらしい。
目覚めの一杯がなんとも和風になったけど、まあいっか。
入江くんも何も言わずお茶を飲んでいる。
「悦子の…母さんの夢を見てな」
お父さんがしみじみと言った。
「琴子の名前を決めた時のことを思い出したよ」
その言葉にぎくりとする。
なんとなくうっすら覚えている。
お母さんが、琴子にすると言ったきっかけを。
お母さんはおしゃべりで、いろんなこと話してくれた気がするけど、あたしの頭が残念過ぎて、ところどころしか覚えていない。
お母さんの恩人が…って、いうくらいのことしか覚えていない。
「それから、母さんが私の娘はきっとハンサムな旦那さんをつかまえるって言ってたこととかな」
「へー」
まさにその言葉通り、入江くんというハンサムを射止めたわけだけど。
入江くんを見ると、なんだか複雑そうな顔をしている。
もしや、不服とか?
でももう遅いもんね。結婚しちゃったし。
「言葉通りこいつは面食いで、まさかと思ったんだが、母さんの予想通りで、きっと喜んでるだろうよ」
「絶対喜んでるね」
あたしはお母さんが好きだったという歴代の惚れた相手を写真で見ている。秋田に行ったときにおじさんたちが事細かに教えてくれたからだ。
まあ、その性質を丸々受け継いでいる気がしないでもないけど。
入江くんは秋田でのあれこれを思い出したのか、ぶっとふき出した。
そんなことまで覚えていなくてもいいのに。
あたしは少しだけそんな様子を見て顔を赤くした。
「琴子、母さんは、お前が生まれてからは短かったけど、楽しそうだったよ」
「え…」
「一緒に過ごす時間が短くて申し訳ないって言いながらも、楽しそうだった」
「うん…」
「俺だってああしてたらよかったとか、もっといろんなところに連れて行ってやればとか今でも思う」
あたしは黙ってうなずいた。
「母さんができなかったことを、これから琴子がやればいい。俺は絶対海外なんて行かねぇとか行けねぇとか思ってたけどな」
ああ、新婚旅行ついてきたっけ。
「ハワイも行ったしよ、清里の別荘も行ったし、母さんには悪いが楽しいことばっかりだ。これで孫まで抱いたらあっちでずるいって言われそうだが、土産話はたくさんできたな」
なんだかんだ、お父さんも入江家に来てから楽しそうだよね。
「だからな、心配いらねぇな」
「そうなんだ」
「直樹君も、こりゃちょっとまだまだ迷惑かけるけども」
「そうですね」
入江くんがきっぱりと言う。
お父さんはちょっと苦笑いだ。
「なんかあったら、今日みたいな日のことを話してやってくれよな」
「今日みたいなこと?」
「おまえはすぐ忘れちまうだろうが、直樹君なら覚えてるだろうからな」
「そりゃ忘れるかもしれないけど」
「だからだよ。記憶力のいい旦那さんでよかったな」
「はいはい」
「こんな日もあるんだよ。昔を思い出したりして、その思い出話を一緒にする人がいて、新しく誰かに話したりして、また一緒に思い出したりしてな」
「そうだね」
ずっとそうやって思い出して話していくうちに、話に出てくる人の記憶はまた鮮やかになって、また誰かの記憶に残るのかもしれない。
「母さんは先に逝っちまったが、こうやって母さんの話をすることもできる」
「あ、あたし一つ覚えてる。トイレの中のナースコール、お母さんてば最初は出たら報告するものだと思ってたみたいで、いちいち押してたみたい」
「なんだそりゃ」
「え、お父さん聞いてないの?」
「知らねぇな」
「この間押しまくった患者さんがいて、急に思い出したの。そういえばお母さん、押して怒られてたなぁって」
「内緒にしてたな、あいつ」
お父さんはおっちょこちょいだからなぁとつぶやいている。
「あ、そうか。お母さん内緒にしてねって言ってた」
「しゃべっちまったら仕方がねぇな」
「あはは、そうだね。怒られるかも」
あたしは懐かしさで胸が痛んだ。
ふいに思い出される記憶。
うん、楽しそうなお母さんも覚えてる。
未来はつながっていく。
今いる人もいない人も。
それはたぶん変わらない。
もしも忘れてしまっても、誰にも思い出話をする機会がなくなっても、確かに生きていたという証がある。
「お父さん、ありがとう」
お母さん、生んでくれて、ありがとう。
入江くん、今ここにいてくれてありがとう。
いつかまた、誰かと話せる日が来ますように。
(2021/07/23)-Fin-