Go to→40年前の世界




「ねえ、お母さん、幸せだったのかな」
当直が明けて一日仕事を終え、家に帰ると休みだった琴子がそう言った。
何か思うことがあったのか。
それとも、俺のいない夜に何か夢を見たのか。
当直の日は、うとうとするだけで眠らなかった俺は、琴子の見た夢を知らない。

琴子はアルバムも前の家がつぶれたせいでまともに持っていない。
かろうじて取り出したアルバムは、傷ついて、薄汚れていた。
それをおふくろが拭いて、丁寧に保管していた。
本当はアルバムも新しいのを買って貼り直そうかとしていたが、そのアルバムそのものが琴子の母・悦子さんの手によるものだと知っていたので。
若い頃の写真はほとんどない。
写す余裕がなかったんだろうと思われる。
あの頃、カメラそのものが高価だった。
誰かに何かのきっかけで撮ってもらわないと、写真は手に入りにくかったのだ。
駆け出しの料理人と田舎から出てきた女性では、カメラを買う余裕なんてなかっただろう。
写真が増えたのは、明らかに余裕が出てきて琴子が生まれてからのことだったはずだ。
琴子を抱いた悦子さんは、うれしそうに笑って写っている。
医師でもある俺は、病の影がこの頃からなかったかどうかとつい見てしまうのだが、琴子もどうやら同じように思ったようだ。

「お義母さんが幸せじゃなかったら、こんなふうに笑っていないだろ」
「…そうだよね」
琴子の母が体調を崩したのがいつからなのか、俺は知らない。
どんな病で亡くなったのかも正確には知らない。
もしかするとお義父さんですらよくわかっていないのかもしれない。
徐々に弱っていった感じだった、と琴子は言う。
今の医学ならもしかしたら助かるのかもしれないが、あの時代は、そういう時代だった、とお義父さんは言う。
男は猛烈に働いて、家庭を守るのは母親の役目。
もちろんお義父さんがそういう押しつけをしたわけではない。実際悦子さんは一緒に働いていたのだから。
気づいたら、病気だった、という。
気づいたときには、相当悪かったのだ、と。
お義父さんは、今でも悦子さんの病気は自分のせいじゃないのかと思っている。
そうじゃないとわかっていても、そう思う心をやめることができない。
ただ、そう口にしてしまったら、琴子も同じように自分のせいじゃないのかと思うのだ。
ちょっと弱っていた身体で琴子を産んだせいじゃないのかと。
この親子は、能天気なようでいて、そういう思いを抱えてもいたのだ。
だから、秋田に墓参りに行くと、親戚がおまえたちのせいじゃないとかばうように賑やかしく、何も考える暇もないほどもてなすのだ。
東京へやって、早くに死なせてしまったと同じように思う心を親戚が持っていないとは言い切れない。
親子を責めるわけでもなく、東京に行って、好きな人と結ばれ、可愛い娘まで授かったのだから、さぞかし幸せな一生だったのだと繰り返し親子に言い聞かせるように飲んで騒ぐ。
俺の周りの人たちは、そういう優しい人たちなのだ。

「おまえがそんなことを考えてると知ったら、お義母さん、あっちでも居心地悪くなるぞ」
「…うん、そうだね」
琴子は息を吐いてアルバムを閉じた。


そんな会話をした夜、さすがに夢の中とはいえ躊躇した。
夢の中で、悦子さんは既に俺たちより年上だった。
年下だったあの頃とは違い、少し落ち着いて、そしてお腹が大きかった。
隣には、琴子がいた。
あのお腹にいるのは琴子じゃないのか。
二人の琴子が存在しても許されるのは、これが夢の中だからだろうか。
「…入江くん、今日はいてくれたんだ」
「一緒に寝ただろ」
「…う、うん」
少しだけ返事に照れがあったのは、文字通り一緒に寝て、琴子は疲れ果てて寝たからだ。風邪をひかない程度に服を着せたのは俺だし。
ある程度着せておかないと、寝相が悪くて裸だろうと布団を蹴飛ばすし。

「あれから何年経ったんだっけ」
「単純に計算して、悦子さんは30代半ばってところだな」
「そっか。じゃあ、このまま出て行ったら、あたしたち変わりがなさ過ぎて怪しい人よね」
思わず琴子の顔をじっと見てしまった。
「…さあ。あまり変わりないと思うけど」
はっきり言って、俺はともかく、琴子は十年後もあまり変わらなさそうではある。
悦子さんも十年前と変わったのは、やや痩せ型になった、というだけで。
「琴子は五年ほど前には会ってるだろ」
「うん、お父さんの店の開店のときにね」
「それならあまり変わらないんじゃないか」
「そうかなぁ、大丈夫かなぁ」
そう言いながら、琴子と俺はアパートのそばにいた。
会う会わないはともかく、ここに立っている方が怪しい。
「なんか危なっかしいのよね、ほら」
アパートから出てきて、どこへ行くのか、よたよたと歩いている。
そっくりそのままおまえの将来の姿だよと言いたい。
多分遠くない未来にそんな姿で琴子も歩いては皆に心配されるのだろう。
「ねえ、あれ、臨月かな」
「…どうだろうな」
妊婦の腹の大きさなんてものは個人差なので、腹の大きさだけでは判断がつかない。
それでも目の前にいる悦子さんの腹は相当大きくなっていて、少なくとも妊娠後期に入っているのは間違いないだろう。
そして、季節的にも今は夏なんだろうと思われるから、琴子が生まれたのが9月だということを考えれば、多分間違いなく八、九ヶ月くらいにはなっているのだろう。
そのまま悦子さんの行く先を見ていると、どうやらスーパーだったようだ。
「もしかして」
琴子の心配はなんとなくわかるので、さりげなくスーパー出入口近くで待っていた。
案の定、袋一杯の荷物を持って歩いて帰ろうとしている悦子さんが出てきた。
琴子は俺を見るとうなずいて、駆け寄る。

「あら」
「大丈夫ですか。そんなに重い荷物持ってはダメですよ」
「ありがとう!でも大丈夫よ」
「持ちますから!」
悦子さんは目を細めてにっこり笑うと「それじゃあ、遠慮なく」と言って琴子に荷物を渡した。
それを見てからゆっくり琴子に近づくと、悦子さんはもう一度「あら」と言った。
俺たちの容姿や年齢があまり変わっていなさそうなところには触れず、ただ会釈した。
琴子の手から荷物をさらに受け取り、「俺が運びますよ」と歩き出せば、悦子さんと琴子は顔を見合わせて微笑んだ。

あれから、どうやって過ごしていたのか、深く聞かなくともわかる気がした。
それは悦子さんの方も同じらしく、琴子と二人で並んで歩いても、これと言って会話をするわけではなかった。
普通に考えれば、悦子さんのあのお腹には生まれる前の琴子がいて、悦子さんの隣には成長した琴子がいて、ちょっとしたパラドックスだ。
生まれる前の子どもはいったいどうなっているのか、医学的知識以上のことを俺にはよくわからないが、少なくとも慈しんでお腹の子をかわいがっている様子はわかる。
ほとんど変わらずに現れる俺たちのことは、どう思っているのか。
しかもいつも顔を合わせるわけではなく、時々思い出したように現れ、いつの間にか去っている俺たちを不思議に思っているかもしれない。
「あとどれくらいで生まれるんですか」
「そうねぇ。あと二ヶ月くらいかしら」
俺の質問に悦子さんはそう言った。
ということは今は七月の終わりか。
暑いは暑いが、二十年以上前の夏は、こんなものだったのか。
現代の東京は、すぐに35度を軽く超えるからな。
琴子は、悦子さんの隣を歩きながら、何もしゃべらない。
もっと何か話すかと思ったのだが。
気が付くと、悦子さんたちが住んでいるアパートに着いたようだ。
「じゃあ、ここで」
琴子がそう言うので、俺は荷物を悦子さんに渡した。
悦子さんは少しためらった後、笑顔で言った。
「きっと元気な子を産むわ」
琴子は一瞬口を開けたまま泣きそうになったが、大きくうなずいて言った。
「ええ、きっと。すっごく元気な子が生まれると思いますよ」
「そうよね」
「それじゃあ…またね」
軽く手を振って、悦子さんはドアを開けて部屋の中に入っていった。
琴子は手を上げて振り返そうとしてうつむいた。
また会えるのは間違いない。
「お母さん…」
琴子がうつむいたままつぶやいた。
泣いている気配がする。
そのまま抱き締める。
無事に出産するだろうことはわかっている。
琴子の母の記憶は、幼い頃の断片的な記憶でしかない。
恐らく病床の記憶も残っているだろう。
お義父さんも、琴子も、お義母さんの病気は自分のせいじゃないかと未だに思っていることも知っている。
そうじゃないと何度言っても、気持ちの整理がつかなければ、言葉は素通りする。
看護師になって病気のことを知れ知るほど、どうしようもなかったのだと、頭ではもうわかっているのだろうが。
何か兆候を見逃したんじゃないかと思う心は止められないのだろう。
「過去は変えられない」
「…うん」
こうやって、過去かもしれない世界にいると、どうしても変えたくなる過去がある。
それで未来が変わるなら、と思ってしまうのだ。
未来が変わったなら、今の自分たちがどうなるのかわからないことも、理解はしているのに。
過去が変わることによって、どこかバランスが崩れてしまうのかもしれないと思っても、変えたい過去がある限り、俺たちはこうやって後悔することをやめられないのだ。
腕の中で琴子が俺にしがみつく。
地面が揺らぐ。
揺らいでいるのは地面なのか俺たちなのか。
ほんの一瞬の出会いで、何かが変わったわけではない。
むしろいつも関われることはほんの一瞬だった。
もっと何かできたのではないかという後悔すらも、過ぎてしまえば忘れてしまうのだ。
琴子を抱き締めて目をつぶったその一瞬で、景色は暗転した。
暗転していく中、悦子さんの声がした。

「名前は、琴子にしようと思って。女の子らしくて、かわいい名前でしょ。
ほら、それにあたしたちの恩人でもあるし。いつか、あんな子になるといいなって思ったの」

意識が落ちていくのに、不思議と、嫌な気分ではなかった。
どこかふわりとしたまま、腕の中の琴子を抱き締め続けていた。


 * * *

気が付くと、朝の光が漏れていた。
まだ腕の中には琴子がいて、少しだけ泣いたような跡はあったが、穏やかな顔をしている。
顔にかかった髪をすくい上げると、ふわりと笑った。
寝ているのに変に器用なやつ。
寝ている間も百面相に忙しいらしい嫁は、朝の光にも負けずにまだ眠っていた。
今日は久々の休みだというので、じゃあいいかと抱きつぶして寝たのは何時だったろうか。
もう一度寝るには朝の光が眩しすぎたので、仕方なく起きることにした。
先に起きてみると、光はまぶしく世界は何も変わらない。
琴子の母、悦子さんが生きているというわけでもなく、多分現実は夢よりも少しだけ厳しい。
琴子を起こすか起こすまいか少しだけ悩む。
昨夜少しナーバスになっていたのを忘れさせるように抱きつぶした。
夢の中の出来事を覚えているのかどうかは知らない。
俺自身がはっきりとしないからだ。

「う…ん…」

寝返りを打ってベッドから落ちそうになる。
なぜそこまあで豪快に寝返りを打てるのか不思議だ。
それでもそのままにして部屋を出た。
階下に行くと、朝から珍しくお義父さんに会った。

「あ、おはようございます」

お義父さんは少しだけはっとしたように俺を見た。

(2021/02/21)

To be continued.