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「入江くんすご〜い」
「迷惑ですね」
この夫婦が口を開いたのは同時だった。
ある意味息の合った夫婦といえよう。
だが、ことは安藤さんの椅子だ。
安藤さんは同時に口を開いたこの二人を不思議そうな目で見ている。
清水主任は少し咳ばらいをした。
「あ、すみません」と首をすくめた琴子ちゃんに対して、迷惑の一言で片づけた生意気な後輩は平然としている。
「失礼いたしました。入江先生と看護師の入江は夫婦なんです」
「ああ、なるほど」
主任の言葉に合点がいったという感じの安藤さんだったが、どうやら短い入院生活の個室引きこもり状態では、この二人の噂もあまり入っていなかったらしい。
同じ苗字のちょっと親しい関係とか思っていたとか。
「確かに私はあの椅子の新しい購入者で現在の所有者となっていますが、どうやら幸運とやらもあまり意味がないような気がしてきました。ああ、もちろんその分不幸なことも起きていないというのがありがたいことですが」
「手放すおつもりで?」
僕はバカ高かった椅子の値段とその使い道に思いをはせた。
せっかく買ったのにという庶民魂がわき上がる。
「それならそのまま所有して観賞用として置いておくのはダメなんですか」
そう聞くと安藤さんはすでに考えていたらしきことを口にした。
「そうは思ったんですが、椅子のほうがどうやら入江先生と離れたがらないようなので、この際あの椅子をお譲りしようかと思いまして」
「いりません」
即答だよ!
速攻で断りやがった。
考える余地なし。情もなし。
なんて奴だ。
せめて断るにしてももう少し考える素振りをするくらいのことしても罰は当たらないんじゃないか。
そう思ったのが伝わったのか、後輩は僕を見て小さくこうつぶやいた。
「ふっ、偽善者」
ぎ、ぎ…。
僕は後輩をにらみつけたが、当然のように後輩はこちらを見ていない。
いや、処世術とか世渡りとか世間体とかいろいろあるだろっ。
誰だってそういうことあるじゃないか。
僕はそう反論したかったが、琴子ちゃんが例の目をキラキラさせておねだりモードになったのを見てかろうじて黙った。
「入江くん、チップでエールよ。珍しいんでしょ、譲ってくれるって」
そこにいた一堂は目が点になったが、さすが腐っても情がなくても(いや、むしろ情がないほうがデフォルトだな)琴子ちゃんの夫。奴一人だけは何も動じずに琴子ちゃんの言葉を解したようだった。
「いくらチッペンデール様式でも、いらないものはいらない。そもそもそんな椅子を譲ってもらっても使い道もないし」
そうか、チッペンデールと言いたかったのかとこの夫婦以外は納得した。
時々彼女の言葉はなぞかけのようだ。
後輩の言葉を聞いた安藤さんは落ち込んだように言った。
「そうですか。でも、なんだかこのまま所有していると不幸が訪れそうな気がするんです」
「何故ですか」
思わず僕は聞いてしまった。
だって、今まで不幸らしい不幸はなかったというじゃないか。
「椅子が、真の主を見つけてしまったからですよ。
このまま入江先生と引き離して家に持って帰ってごらんなさい。夜な夜な椅子が主恋しさにがたがたと…」
ホラーだよ、まるっきりホラーじゃないか!
「ですから、入江先生には是が非でもお持ち帰りいただいたほうが…」
「いりません」
ここまで言ってもまだ即答だよ、こいつ。
「そ、そんな、わたくしを助けると思って」
「そうよ、入江くん、かわいそうじゃない」
うるうると安藤さんが後輩にすがりつかんばかりだ。
琴子ちゃんはいつものごとく無茶ぶりを発揮している。
なのに、後輩は安藤さんを無視して琴子ちゃんの顔を見た。
「そんな不幸をもたらすような椅子を譲ってもらって、うちに不幸が訪れたらどうする」
「あ、そうか」
…琴子ちゃん、意見変えるのが早すぎるよー。
あいつの場合、うちに不幸というより、琴子ちゃんに不幸が訪れたら困るだけだろ。
いや、そもそも琴子ちゃんの起こす騒動のほうがよほど不幸じゃ…っと、これは顔に出してはまずい。ばれないうちに顔を引き締めた。
「というわけで、うちはいりません」
それだけ言うと、もう話は終わったとばかりに後輩は立ち上がった。
「…先生は、まだ患者である私に不幸が訪れてもいいと言うんですね…」
安藤さんは演技もここまでというような憔悴ぶりだ。
すると、琴子ちゃんはまたもやあっさりと意見を翻した。
入江よりずっと情はあるのだ。
「やっぱりダメよ、入江くん。だって、あたし安藤さんの担当だし、このまま不幸が訪れてもあたしも困っちゃう」
僕は琴子ちゃんがこの後後輩を陥落させる様子が目に浮かんだ。
いつもこの手でやられているにもかかわらず、奴は少しだけ眉間にしわを寄せただけだ。
あー、はいはい、仕方なくお願いを聞いてやるんだというパフォーマンスですか。
「譲るって、正式な売買取引を行うということですか」
「もちろん吹っかけるつもりもないよ。それに私が買った時ほどの値段をつけるつもりもないし」
「当たり前です。そこまでして欲しいわけではありませんし。すでに家には同じ様式のチェストがありますし」
…おまえ、さらっと言ったね。
家に同じ様式のものがあるってことはだよ、それなりの値段のものが買えるってことだよね。
でもさすがに安藤さんも少し驚いて聞いた。
「同じ様式とは…本物ではないということですよね」
「ええ。多分チッペンデールよりも後に作られたものですので、それほど珍しくはないかと」
「さすが入江先生です」
「いえ、元は父の所有です」
おいおいおい安藤さん、僕は逆立ちしても買えなくて、後輩であればさすがってどういう意味かな。
一応僕のほうが先輩で、一応基本給なんかは上だと思うんだけどな。
「ああ、お父上ですか。いや、さすがです」
もう何がさすがだかわからなくなってきたよ。
「これと同じようなチェストって、もしかしてこの間あたしが花瓶の水をぶっかけた?」
いやさすが、琴子ちゃん、お見事だよ。期待を裏切らないね。
しかもバカ高いと推察されるそのチェストに水ぶっかけるとは。
その会話もバカバカしくなってきたのか、主任はもう放って帰りたいのと責任者として残らなければという義務感とがない交ぜになった顔だ。
チェストの話が出ただけで、なんだか会話がセレブめいてきたぞ。
そういえばこいつのお父上はあの柔和な狸のような福顔の紳士だった。
会社の社長だったっけな。ああ、チェストくらい買えるかもな。
「それで安藤さん、先ほど叫んだわけもお聞きしていなかったんですが」
ここまで来て主任が話を大幅に戻した。
戻りすぎだろっていうくらいに。
「ああ、すみません。それは、病室に入江先生が入ってこないうちから椅子が共鳴をしだしたからです。みるみるうちに椅子がこう光り輝くような気配がして、今までにない幸運感をもたらしたというか。とうとう私にも幸運がやってきたのかとぬか喜びしましたよ…」
「病院としてはそういう怪しげなものを病室内に置いておくのは好ましくないのですが」
主任はきっぱりと言った。
「はあ、ですが、多分うちに持って帰られるのを拒否されるかと」
「拒否?椅子なのに?」
「ええ。魔法がかかっていると言われるいわくのある椅子ですので」
「どうしてそんなものを持ち込んだのですか」
「それが…是が非でも病院に持ってこないといけないような気がしたものですから」
安藤さんの言葉を聞いて、思わず僕はつぶやいた。
「それはまるで椅子自身に操られたかのようですね」
「そう、そうに違いありません」
安藤さんは初めて僕の意見に同意した。
主任は逆に僕たちを疑わしそうに見た。そんなわけないだろという視線だ。
主任はかなり現実主義のようだ。
時には夢を見ることも必要だと思うよ、主任。
うん、だから婚期が…お、おっと、ごほんげふん。
え、結婚もしていない僕に言われたくないって?
僕は結婚できないわけじゃなくて結婚しないだけだよ。あれこれ結婚相手をしぼるのも大変じゃないか。えっへん。
「で、つまり、椅子はどうするわけです?」
「譲ります」
「もらいます」
「とりあえず倉庫に突っ込みます」
「もう一度座らせてもらいます」
主任の言葉にそれぞれ答えた。
主任のこめかみがかつて見たことがないようにぴくぴくしている。
「皆さんの意見はわかりました。私からの提案を聞いてもらえますか」
「はい」
「どうぞ」
「……」
「清水主任、怒るとしわが増えますよ」
僕の言葉にキッと僕を睨んで主任は言った。
「先生は黙っていてください。どうでもいい意見ばかり垂れ流さないで」
「……はい…」
主任の勢いとどうでもいい、と称されたことに少しばかりへこむ。
「今すぐ手配して入江先生には倉庫に突っ込むなり家に持ち帰るなりして処分してもらいます」
「しょ、処分だなんて」
「失礼、安藤さん、言い間違えました。直ちに椅子を移動してもらいます」
後輩はため息をつく。どうして俺が、という感じだろう。
「何か問題でも」
主任の言葉にとりあえずあの暗黒大魔王のごとき後輩ですら「いえ」と短く答えた。
「入江先生が移動させればその意思を持つという椅子もしばらくはおとなしくすることでしょう。がたがた言うようなら入江先生が何とかしてください」
主任はまるで琴子ちゃんのような無茶振りを口にした。
「はい、解散!」
手を一つぱんと叩いて主任は会議室のドアを開けた。
皆はぞろぞろと安藤さんの病室へ戻った。
椅子は嫌々ながらも後輩が持ち帰ることになったが、こんなにいきなりでは持ち帰る手段はなく、どうやらあの強烈なご母堂に電話をして取りに来てもらうことになったらしい。
値段交渉や金銭の問題は後日、ということになったようだ。
椅子は後輩に譲られることが決まって以来、うんともすんとも言わないらしい。
逆に安藤さんの顔は晴れ晴れとして、椅子があったときよりもよほど幸福感に満ちた顔をしている。
そして、あっさりと退院手続きを終え、さっさと退院していった。
あれからあの椅子はどうなったかって?
あの椅子を運び、愛する琴子ちゃんとご母堂とともに車に乗り込んだ後輩は実に不幸そうな顔をしていた。
それがあの椅子のためだったのか、単にご母堂と一緒だったせいなのかは不明だ。
それでもちょっとだけいい気味だと思ったのだが、それは決して顔にも口にも出してはいない。
そして、それが僕があの椅子を見る最後の機会だったのだった。
* * *
「入江、椅子は持って帰った後どうしたんだ?」
持ち帰った翌週、僕は何気なく聞いてみた。
あの椅子をどんな扱いをしているのか気になるじゃないか。
「ああ、宣言どおり倉庫に突っ込んであります」
「…倉庫に…」
金持ちはやることが違う。
「一脚だけあっても使い道はありませんから。それに、家に帰った途端に琴子があの椅子に足を引っかけて転びましたからね」
「そ、それは、なんとも…」
不幸の始まりか?と思わず思ったのだが、ふんとばかりに後輩は聞くなといった態度だ。
ああ、つまり、琴子ちゃんを不幸な目に合わせた椅子なぞ倉庫で十分、と言いたいわけだ。
椅子の価値などくそくらえだよ。
…おまえの愛情はもっとわかりやすくしろよ。
「入江くーん、入江くーん」
廊下の向こうから琴子ちゃんはスキップしながらやってきた。
不幸の始まりかと思ったのに、やけに浮かれている。というか、顔が満面幸福に満ちている。
「すごいの、この間応募した雑誌の懸賞、当たったの!さっきね、お義母さんから連絡が来てて」
琴子ちゃん、そんなものに応募してたんだね。
「…ああ、よかったな」
どうでもいいというようにおざなりに答えて仕事を続ける。
「すごいよ、あの椅子のおかげね」
「…ああ、そうかもな」
あくまでどうでもいいといった感じで仕事の手は休めない。
いや、熱心なことだが、どうにも気がおさまらないぞ。
「琴子ちゃん、他にもいいことあったのかな」
「ええっと、そうですね、結構あった、かな」
そう言って、何故かぽっと頬を染めた。
こりゃ聞かないほうがいいんだろうな、うん、間違いなく聞くだけ無駄だ。
というか、聞かなくても何となくわかってしまうところが嫌なんだが、これはあの後輩が絡んでいる。うん、絶対だ。確実に、間違いなく。
世の中にはあいつほど絶対という言葉が似合う男も珍しい。
そんなことをぼんやりと考えていると、琴子ちゃんは思い出したように言った。
「そう言えば、あの椅子の話、後から安藤さんにまた聞いたんですが、西垣先生、聞きたいですか?」
「そうだね、目新しい話なら」
「そうですか。実はですね、あの椅子の主となれるのは、賢者だけ、らしいんですよ」
「なんだい、その賢者って。まるでRPGのゲームのキャラみたいだ」
「そうそう、あたしもそう思ったんですよ。でもよく聞いたら、ようは頭のいい人ってことでしょう。そんじょそこらの人じゃ無理なはずですよね。だって入江くんほど頭のいい人なんていないんですもの」
「…つまり、あいつくらい頭のいいやつじゃないと主と認めないってか」
「そうなんですよ、きっと」
…椅子のくせに生意気だ。
ああ、どうせ俺にはIQ200もの頭脳はないよ。
座り心地悪かったもんな。ああ、そうだろうよ。
「随分と余裕ですね、先生」
ひんやりとした空気が漂った。
山ほどの指示出しがあったのを半分以上やつに押し付けたのに気づいたらしい。いや、それとも琴子ちゃんとしゃべっていたのが気に入らなかったのか。
振り向くまでもない。
やつは今、魔王になっている。
椅子よ、お前は間違ってる。
あいつは賢者なんかじゃなくて、賢者の面をした魔王だぞ。
RPGで言うなら、賢者のフリをして最後に実は俺が魔王だワッハッハとラスボスで出てくるタイプだぞ、あれは。
さしずめ僕はそんなやつに挑む勇者だな。
勇者はいつか勝つんだ。
見てろよ、椅子が何だ!
僕は僕の幸福を自分の手で追求するぞ〜〜〜〜!
(2013/11/29)Fin