ドクターNと賢者の椅子




息も切れた頃、一番奥の安藤さんの部屋にたどり着いた。
隣には息も切れていない清水主任も一緒だ。
…うむ、そろそろ真面目にジムに通うべきか。
部屋は開けっ放しだったので、安藤さんの叫び声は廊下まで響き渡ったわけだ。

「どうしたんですか」

冷静、かつ厳しく主任が問いかける。
その声とともに中に入ると、中には眉根を寄せて迷惑そうな生意気な後輩がいた。

「入江先生!先生がいながら何事ですか」

驚きと制すべき人物がいたことで、主任の眉がくっと上がった。
うん、彼女は怒った顔が特に美しいね。

「やはり、あなたこそ真の主ですな」

こちらの驚きと慌てぶりを全く解さずしみじみと安藤さんがうなずく。

「…迷惑なんですが」
「どういうことですか」
「何でおまえがっ」

三人三様の返事を返した中、椅子がごとりと音を立てた。

 * * *

少し落ち着こうと、主任は安藤さんを部屋から連れ出し、会議室に場所を移した。
部屋では諸々の事情で落ち着いて話ができそうになかったからだ。

「安藤さん、明日退院が決まりましたが、何か不都合なことでも?」

主任が口火を切る。
主治医である僕はともかく、叫ばれた後輩も一緒に同席している。そして担当看護師だった琴子ちゃんも。

「いえ。特に何も」
「では、何故あの大声を」

安藤さんは少し言い難そうに肩をすくめ、後輩をちらりと見た。
やはり生意気そうに少しパイプ椅子にもたれるようにしている。

「入江先生が何か?」

主任がすかさず突っ込む。まさしくそれが本題だろう。

「私はあの椅子のご利益にあやかろうと、わざわざ病室に持ち込みました」
「ええ、存じ上げておりますし、正直あれほどのものを持ち込まれていつお引取り願おうかと思っておりました」

主任は容赦ない。

「それは申し訳ない」

安藤さんはあまり申し訳ない様子も見せずにそう言った。
まあ、申し訳ないと思っていたらすぐに持ち帰っただろうしね。散々皆があの椅子につまずいたりしていたし、不気味だと噂になっていたくらいだから。

「それで、ご利益はあったんですか」

僕は思わず聞いた。
主任はちらりと僕を見て咳払いした。
あ、こりゃどうもすみませんという素振りをして安藤さんの返事を待った。
琴子ちゃんは目をキラキラさせて興味しんしんだ。

「あったと言えばあったんでしょうなぁ」
「どっちなんですか」

琴子ちゃんも容赦なく突っ込む。

「会社はこの不景気にもかかわらずいたって順調で、大きな取引も決まりましたし」
「では、不幸のほうは」

ついでだ、と僕は聞いてみた。もう主任に睨まれたんだからもう一つくらい聞いたっていいだろう。

「そう、不幸、なんですかね」
「幸い購入した直後から椅子の所在を隠すためにわざわざ慎重に病室に運ばせましたし、狙われるようなことはなかったですね」
「狙われてるってなんですかっ」

主任は初耳だというように思わず叫んだ。
「そんな危険な椅子を持ち込むだなんて…」とぶつぶつつぶやいている。

「せっかくだから普通の椅子として使おうと思ったのですが、高くて布張りもいいものを使っているにもかかわらず、非常に座り心地が悪いんです」
「ああ、それですか」

思わず僕は同意してうなずいた。身に覚えがあるからだ。

「倉庫にしまうには惜しいほどの値段でしたし、鑑賞にも耐えうる品ですから、いっそのこと飾っておこうかと思ったのですが…」

そう言いながら安藤さんは再び生意気な後輩をちらりと見た。
琴子ちゃんが喜色をにじませながら言った。

「ここで椅子が真の主を見つけたとか…?」

思わず残りの三人で生意気な後輩に視線を移した。

おまえかっ。
おまえなのかっ!!
なんだよ主ってのは。

四人の視線を浴びたにもかかわらず、何食わぬ顔で僕たちの顔を後輩は見渡した。

「それが入江先生だと?」

再び冷静に主任が突っ込んだ。おまけとしてふうっと息を吐く。
会議室はしんと静まり返った。

(2013/11/23)


To be continued.